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線上のキンクロハジロ  作者: 神原月人
積み荷の分際
80/100

事故物件

 たった今、示唆された仮定を在沢の頭はうまく処理できなかった。被害者の網野晃は、自動運転車ミーヴの前に立っていたのではなく、()()()()()()()


 言われてみれば確かに、いかな報道番組のカメラクルーとはいえ、映像に迫力が出るから、というただそれだけの理由で、命を張るだろうか。一社独占のスクープというわけでもなく、会社に強制されたわけでもないのならば、わざわざ自動運転車の真っ正面に立ちはだかるような真似はするまい。


 事実、網野と行動を共にしたリポーターはさっさと逃げ出した。リポーターが逃げ出しても網野は毅然として持ち場を離れなかった。重量のある報道カメラを抱えていたから逃げるに逃げ出せなかったということもあろうが、ミーブが突進していっても逃げるような素振りをこれっぽっちも見せなかった。


 網野を計画的に殺害した犯人がいた、とする。


 網野は()()()()()()()()()()()()()したのだ。


 最後まで逃げずに立っていること。


 暴走する自動運転車の前に進んで立っていたのではなく、立たされていた網野は犯人との約束を果たした。


 そして、網野は轢かれた。


 網野を轢き殺した罪は、運転席の在沢か、自動運転車のどちらかが被ってくれる。いずれにせよ、真犯人は最初から安全圏にいる。


 計画的な殺人だった、ということはそういう意味だ。


「すみません、ちょっと理解が追いついていないんですけど」


 在沢がごくりと唾を飲み込んだ。いったん離席した藤岡春斗にお茶菓子とコーヒーを振る舞われたが、手を付ける気にならなかった。 犯人が誰であるかを論じるよりも先に、被害者が殺されねばならない理由が気になった。


「網野晃はどんな理由で殺されたんですか?」


「網野という名字にちょっと引っ掛かっただけなんですけど、もしかして美亜のことかなって」


 ブラックコーヒーにたっぷりの砂糖を入れた霧島綾は、ミルクをとぽとぽ注いでからスプーンで掻き混ぜた。真っ黒だった液体が、見る見るうちにマーブル色に変じた。


「被害者のことはよく知りませんが、被害者の娘とは面識がありました。旧姓、網野美亜。子役上がりの女優で、舞台で共演したことがあります。今から二年ぐらい前の話ですけど」


 上から読んでも下から読んでもアミノミア。両親が離婚し、母方に引き取られた美亜は石田姓となったが、芸名の覚えやすさを優先して、舞台では旧姓のまま活動していたという。


 美亜はすらっと背が高く、化粧映えする容姿で、とても十七歳には見えないぐらいに大人っぽい娘だったそうだ。


 テレビクルーの父はさっぱり家庭を顧みない仕事人間で、全国どこへでもカメラを担いで出掛けるのに、美亜を映したホームビデオのひとつもなければ、入学式や運動会、学芸会や授業参観といった学校行事に参加したこともなかった。


 それがために母親は美亜の子役活動を熱心にサポートしたが、だんだんと母の介入が煩わしくなってきた。中学生になると、ぐんと背も伸び、子役らしい子役でなくなった美亜はきっぱりと芸能活動から離れた。しかし、いざ離れてみると恋しくなるもので、両親が離婚したのを機に舞台女優の道を志す。


 霧島綾が美亜に出会ったのは、そういう時期だった。


「わたし、綾さんみたいな女優になりたいです。母にはいっぱいお世話になったから、今は家のことはぜんぶわたしがやっています。料理とか、めっちゃヘタなんですけどね」


 そんな風に言い、霧島綾に懐いたという。


 快活で、すれたところのない可愛らしい少女だった。


 芸名に網野の姓を残したのは、両親が別れたのは嫌いあったからではなく、生活がすれ違っていたからだと信じていた。美亜だけでも網野であり続ければ、母は嫌でも網野の姓を目にせざるを得ない。いつか父さんと仲直りしてくれたらいいな、と美亜は語った。


 そんな美亜の顔色がだんだんと優れなくなり、舞台稽古にも穴を開けるようになった。心配した霧島綾が本人に訊ねたが、美亜は頑なに口を割ろうとしなかった。


 舞台の共演者たちの噂話でちらほらと聞こえてきたのは、美亜が援助交際に手を染めているということだった。真偽のほどは定かではなかったが、美亜は舞台を降板させられた。


 霧島綾は美亜を呼び出し、洗いざらい聞き出した。


 最初のうちこそ何も語ろうとしなかったが、ぽつぽつと事情を語るうち、美亜は泣き崩れた。父からの慰謝料支払いが滞り、パートで働き詰めだった母が突然、意識を失って倒れた。病院に担ぎ込まれ、脳梗塞と診断された。


 病院の費用が払えず、どうしていいか分からなくなったが、父とは連絡がつかない。どうにかして治療費を払わなくてはと思い悩んだ末、高級交際倶楽部という助け舟に辿り着いた。


 入会資格があるのは身元のはっきりした男性だけで、女性は食事を共にするだけで良かった。たった数時間我慢するだけで十万円、二十万円といった大金が手に入った。良心の呵責はあったが治療費のためだと割り切ったら、罪悪感はだんだん薄れていった。


 倶楽部には十七歳ではなく、二十歳だと言い張って誤魔化した。


「美亜、どうしてひと言ぐらい相談してくれなかったの。お金のことだって、なんとかしてあげれた」


「だって、綾さんにだけは借りを作りたくなかったから」


 泣きじゃくる美亜を慰めると、吹っ切れたような笑みを浮かべた。


「でも、わたしすっごく良い人に出会えたんです。お母さんのために頑張ってるんだね、偉いねって褒めてくれて」


 演技過剰の役者がやりがちな嘘みたいな笑顔に寒気がした。


 十七歳の小娘に大金を払って食事の相手をさせ、見え透いた嘘をつくような輩にろくなやつはいるまい。そんな奴にのぼせ上がっている美亜にも、美亜と交際している野郎にも反吐が出そうだった。


 過去を回想する霧島綾の口振りは、いよいよ怒りが渦巻き始めた。


「美亜は俺のいちばんだよ。ずっと一緒にいたいね。結婚できたらいいね、って言ってくれたんです。わたし、すごく嬉しくて」


 恋する乙女の夢は、そう長くは続かなかった。年齢を誤魔化していたことが露見し、相手が豹変したという。


「ふざけんなよ! 俺を陥れるつもりつもりか」


 口汚く罵られ、食事中の食器を投げつけられた。未成年と交際していたことを週刊誌記者にすっぱ抜かれた腹いせだったそうだが、美亜は命の危険を感じたそうだ。記事になる前になんとか揉み消したが、代償は高くついたという。


「綾さん、わたし、どうしたらいいんでしょう」


 美亜はげっそりとやつれ果てて、生気のない目をしていた。


 脳梗塞で倒れた母は治療の甲斐なく、亡くなった。彼に捨てられたら、もう生きていけない。美亜は涙ながらに繰り返した。


「相手はどんな人なの?」


 霧島綾が訊ねると、美亜は人目を憚りながら答えた。


「ヒイラギ・モータースの御曹司の柊木尚志です」


 それを聞いた瞬間、霧島綾は絶句した。悪い夢を見ているようで、彼を心の底から信じきっている美亜にはとてもではないが口にできないことがあった。


 メディア受けする外面の良さとは裏腹に、主役級の女優の間では、柊木尚志の名は事故物件(ブラックリスト)扱いされており、女をアクセサリーとしか思っていない勘違い野郎という悪評が立っていた。ほんのちょっとでも機嫌を損ねると暴力を振るう、ともっぱらの噂だった。


「あたしが女優デビューして二、三年経った頃かな。二十歳ぐらいの頃、柊木尚志にしつこく言い寄られたことがあるの。ヒイラギ・モータースのCMに起用してあげるから俺と食事してくれって」


 CMに起用してあげる、というのは柊木一流の常套句で、切り札とも言うべき、とっておきの口説き文句だった。


 メディアはこぞって柊木尚志を持ち上げ、醜聞が世に出回ることはなかった。女優やモデルたちの間で悪評が出回るまでは、柊木の口説き文句に(たぶら)かされた被害者が後を絶たなかった。


「あまりにもしつこいから、言ってやったの。あたし、運転免許を持ってないんです。それに父が居眠り運転のトラックに追突されて亡くなっているので、死んでも自動車メーカーの宣伝をするつもりはありません」


 霧島綾が語ったことはすべて事実であったが、柊木尚志には出来の悪い断り文句に聞こえたらしい。メディアとお友達の柊木が手を回したのかは不明だが、霧島綾はしばらく出演作に恵まれず、作品はこぞって批評家から酷評された。


 やりたい放題の柊木だったが、徐々に女優やモデルたちから悪評が立つようになった。切り札もめっきり効力を失い、柊木は狩場を変えた。二十歳前後の世間慣れしていない女性を狙うようになった。


「美亜、悪いことは言わない。柊木とは縁を切りなさい。お父さんには頼れないの?」


 霧島綾は必死になって説得を試みたが、盲目状態の美亜には届かなかった。


「美亜は俺のいちばんだよ。ずっと一緒にいたいね。結婚できたらいいね、って言ってくれたんです。わたし、彼を信じてます」


 石田美亜、旧姓網野美亜の人生は唐突に幕を降ろした。


 ヒイラギ・モータース社の人気車種『ReMove(リーヴ)』に乗った美亜は、運転操作を誤って崖下に転落、爆発炎上して死亡した。


 リーヴは盗難車で、美亜は無免許だった。


「柊木は強請られていたんだと思う。未成年と援助交際していただけでも格好の強請りの種だけど、ヒイラギ・モータースという、いくら強請っても目減りしない打ち出の小槌がある。懸案事項を始末してやる代わりに、会社が標的になったのかもしれない」

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