観察者
頬を撫でる風もめっきり冷たくなった十二月の日曜日、在沢はHaRU氏と東京駅直結のミラージュホテルで待ち合わせすることとなった。
指定されたのは、最上階である三十七階。
フロントで来意を告げると、フロント係が取り次いでくれた。
「エレベーターご利用時に、こちらのルームキーをご利用ください。お帰りの際にはルームキーのご返却をお願い申し上げます」
カード式のルームキーを受け取り、エレベーター内のセンサーにかざす。指定された客室フロアのボタンだけが押せるようになり、在沢と付き添いの鴻上を乗せたエレベーターは静かに上昇を始めた。
「人目を避けるにしても、わざわざ高級ホテルのスイートルームで会う必要がどこにあるのかね」
いざという時の用心棒を買って出た鴻上がぼやいている。
「べつに俺一人でよかったんですけど」
「こんなところまで呼び出す野郎の顔面を拝んでやらねえとな」
鴻上は指の関節をぼきぼきと鳴らして、臨戦態勢はばっちりだぜ、と言わんばかりの様子だった。付き添いは不要です、と丁重にお断りしたが、鴻上は一切折れることなくくっ付いてきた。脳は男でも容れ物は女だから念のため、ということらしいが、過保護な父親のように感じなくもない。
自宅アパートが壊滅的な状態に陥ったので、鴻上の別荘に居候するようになったが、いざ同居してみると、もうちょっと服装に気をつかえだの、朝飯はちゃんと食えだの、髪を乾かしてから寝ろだの、いちいちうるさいったりゃありゃしない。
「ガミさん、ウザいです」と在沢が言ってもどこ吹く風であったが、反抗期モードのLiSAが《ガミ、ウザーい》というフレーズを学習してしまい、鴻上はしょんぼりしていた。
「お前はどこまで素性を明かしているんだ。性別とか年齢、職業とかは知ってんのか?」
スマホゲーム『樹海デストラクション』で共闘する際に明かした個人情報といえば、人工知能の研究職だということだけだ。勤め先の会社名も明かしていないし、年齢や性別も開示していない。
「ほとんど何も教えていないです。向こうが俺について知っているのは、人工知能の技術屋ってことぐらいですかね」
「じゃあ男が来るのか、女が来るかも分かってねえのか」
「と思いますけど……」
スーツを着込んだ鴻上は腕を組み、小難しい顔をしている。
「だったら、直接お話したいことってなんなんだ」
「さあ」
鴻上と駄弁っているうち、最上階に到着した。
大理石のエレベーターホールの向こうにあるのはスイートルームただ一室だけで、インターホンを押す指先がわずかに震えた。
「はいはーい、お待ちしてました」
やけに陽気な声が応対し、スイートルームの扉が開かれた。
「う? どっちがARiSAwA氏?」
上目遣いで在沢と鴻上の顔を見比べ、唇に手を添えながら小首を捻ったのは栗色の髪をした小柄な女性だった。
くりっとしたつぶらな瞳が印象的で、身体の線を主張し過ぎないオフホワイトのカーディガンを羽織り、ゆったりとしたニットスカートを穿いている。甘ったるい声がいっそう幼さを際立たせており、二十代半ばのようにも見えるし、女子校生のようにも見える。
「あ、はい。在沢です」
在沢が控えめに申し出ると、年齢不詳の女性は深々と腰を折って、丁寧なお辞儀をした。
「ご足労いただき恐縮です。霧島綾です。樹海デストラクションではいつもサポートありがとうございます」
気安い口調が一変し、幼い印象が途端に吹き飛んだ。
「え、あ、ああ……」
在沢の目の前の女性は、猫そのものの霧島ニャーこと、霧島綾であった。華美な服装ではないのに、なんとも人目を引く容姿だが、国民的な知名度を誇る女優だと知れば、さもありなんと思われた。
「どうぞどうぞ、お入りください」
広々とし過ぎて、むしろ落ち着かないリビングルームはふかふかのカーペットが敷かれ、二面の窓越しに東京駅を見下ろす眺望が広がっている。
「おハル、お客様だよ。いつまで人見知りモードなの」
霧島綾がおいでおいでと手招きすると、L字型ソファが置かれたミーティングスペースに、眠そうな目をした猫っ毛の少年が姿を現した。愛想らしい愛想はないが、一目見て小説妖精ハルのモデルとなった藤岡春斗だと分かった。
「ほら、ちゃんとご挨拶しなさい」
「え、と……。藤岡春斗です、こんにちは」
せっつかれて渋々ながらに挨拶をしたが、ぼそぼそと喋る声はだいぶ聞き取りづらかった。在沢と鴻上をちらちらと見比べ、どちらでもない中間に向かって話していた。
「すいませんね、なかなか人に馴れない子なんです」
「ぼくはただの観察者です」
頭をくしゃっと撫でられた藤岡春斗は、ぷいっと視線を逸らした。
テキストメッセージのやり取りではわりと饒舌な印象だったが、いざ対面してみると、かなりの人見知りであるようだった。樹海でかくれんぼしている小説妖精そのまままの消極姿勢に、ゲームにも露骨に人間性が出るんだなと、ちょっとした感動を覚えた。
「SiON氏はいらっしゃらないのですか?」
「シオンはバスケの試合があって、地方巡業です」
霧島綾の実弟であり、春斗の兄貴分である霧島シオンにも会ってみたかったが、今日は不在にしているらしい。
それにしても、小説妖精の目がやたらに泳いでいる。
女性向けのメンズスーツを着た在沢のちぐはぐさに戸惑っているのか、得体の知れない天然パーマの男を警戒しているのか、のっけからフレンドリーな女優と異なり、一向に打ち解けた様子はない。
さっきから鴻上がなにも喋らないなと思ったら、なんのことはない、飾り気のない女優の美貌に見惚れ、でれっと鼻の下を伸ばしていた。
「やっぱり、俺一人で来ればよかったです」
在沢がぼそりと呟くと、霧島綾が耳聡く反応した。
「在沢さんはどちらかというと、どちらなのでしょうか。答えにくいことでしたら無理にお答えいただかなくてもけっこうですけど、せっかくの機会なので、お互いに腹を割ってお話しできたらなと」
何を言っても許されるような、すべてを包み込むような雰囲気に、在沢は思わず魅入られていた。
「性別は女ですが、自分では男なのかなと思っています。ただ正直なところ、どっちというわけでもなくて、どっちつかずな感じです」
「そうですか、じゃあ恋愛対象もどっちというわけではなく?」
「はあ、まあ。恋愛感情というものを抱いたことがないので、よく分からないんですけど」
在沢が答えると、霧島綾は納得した様子だった。
「ちなみにおハルはどっちかというと、どっちなの?」
「質問の意味が分からないです」
「分かるでしょう。分かってるくせにぃ。経験値足りないなら一回、あたしで練習しとく?」
「ぼく、もう帰っていいですか」
「だーめ。ちゃんと観察者してなさい」
うりうりと小突かれた藤岡春斗は心底帰りたそうにしている。
女優にからかわれている春斗を羨ましそうに眺めていた鴻上は、骨抜き状態からようやく再起動し、スーツの内ポケットから名刺を取り出した。
「ヒイラギ・モータースEDR解析班の鴻上仁と申します。お車のことで何かお困りのことがあれば、何なりと」
「あ、どうも。あたし、名刺とか持ってなくて」
両手で恭しく名刺を受け取った霧島綾は苦笑いした。ついでに名刺を貰った春斗も、名刺を持っていないようだった。
「それでは早速、お車についてのご相談をしていいですか」
「はい、それはもう何なりと」
普段は硬派なはずの鴻上がいつになくでれでれしているのがなんとなく気に食わない。鴻上が女優の魔性にいいように翻弄されている傍らで、しきりに帰りたがっている妖精は脱走防止に首根っこを掴まれ、完全に不貞腐れている。
「あたしは雑談程度でしたけど、おハルは三時間ぐらい警察に事情聴取されたみたいで、めちゃめちゃ機嫌が悪いんです」
「……思い出しムカつき」
「よーしよしよしよし。おハルは面倒くさい子だねえ」
ぼそりと呟いた春斗は、霧島綾にされるがままに頭を撫で回されている。仏頂面の子猫と構い過ぎの飼い主のような関係に見えた。
「すみません。樹海デストラクションのこと、ぽろっと口に出してしまって、警察の目が向いたのかもしれないです」
在沢が平謝りすると、霧島綾がひらひらと手を振った。
お気になさらずに、ということなのだろうか。
「自動運転車が撮影クルーを轢き殺したって聞きましたけど、どういう位置関係だったんですか。横から飛び出してきたんですか?」
春斗は事故のあらましは聞いたが、詳しい事実関係までは説明されなかったという。まったく身に覚えがないのに、取調室に三時間ばかりも軟禁されたようだ。
「いえ、違います。車の真正面でカメラを構えていて、ブレーキがかかり切らずに轢いてしまったんです」
在沢が用意された白紙に位置関係を図示して説明すると、春斗の目の色がはっきりと変わった。
「それ、おかしくないですか」
「なにが?」
在沢と鴻上が顔を見合わせた。
「目の前で絶対に止まる、と言われたとしても、自分に向かって真っすぐ突っ込んでくる車の前に立ちますか?」
春斗の問いかけに、霧島綾もうなずいた。
「なるほど、そういうことか」
「すみません、どういうことでしょうか」
在沢が説明を求めると、霧島綾が厳かな調子で言った。
「これは自動運転車の暴走事故などではなく、計画的な殺人だったということですよ」