タイム・ゼロ
鴻上の秘密基地は、筑波山の麓にある蔵を改装した別荘だった。
白漆喰の壁は趣きがあり、家を横断するどっしりとした太い梁は存在感がある。窓はモダンなアンティークガラスで、リビングの薪ストーブには熾火がちろちろと赤い舌を見せている。
「腹が減っては戦はできねえからな。とりあえずメシにしようや」
「手伝います」
「いいよ、それでも見とけ」
タブレットには、ミーヴが人身事故を起こした直後に放送された『直撃ステーション』の一部始終が保存されていた。柊木政務官は案外に軽傷だったらしく、何食わぬ顔で取材に応じていた。
ヒイラギ・モータースのヒの字はおろかミーヴのミの字さえ出て来ず、直撃ステーションの撮影クルーを務める網野晃が自動運転車の取材中、不慮の事故に遭い、死亡したとだけ伝えられていた。
暴走するミーヴを沿道から捉えた視聴者提供の無難な映像が流され、自動運転車の真正面に立ちはだかった網野の姿は巧妙にカットされていた。
網野が自らミーヴの前に進み出た、という事実は一切伝えられず、「自動運転車が突如として暴走し、パニックに陥ったテストドライバーがアクセルとブレーキを踏み間違えたのではないか」といった憶測が語られた。
スタジオがお通夜のように静まり返ったなかで、男性キャスターが義憤に駆られた声で言った。
「あり得ない事故が起きてしまいました。柊木国土交通大臣政務官はどうお考えでしょうか」
「安全な車を開発するよう、メーカーの方に心がけていただきたい。誰もが安心して運転でき、外出できるような世の中になってほしいと思います」
柊木は表情だけは悼んではいたものの、当事者でないかのような口振りだった。それからあっさりとスポーツコーナーに切り替わり、人身事故の一件の放送はそれでお終いだった。
「これだけ……ですか」
「ああ、そんだけだ。メーカーの名前すら出やしねえ」
ろくに調査もなされぬままに監視者の過失となっており、在沢は落胆の声をあげた。
「これ、ネットだとどんな反応なんですか」
「見てねえの?」
「怖くて見てないです」
「まあ、お察しの通りだな」
在沢が恐る恐るスマホのネットニュースを閲覧すると、ニュース記事直下のコメント欄にずらりと書き込みが並んでいた。ブログやまとめサイトではすでに在沢の存在が「特定」されていた。
――ヒイラギ・モータースもいい迷惑だな
――犯人、発見
――筑波先端科学技術大学卒業、在沢有意
――学生時代の顔写真もあったぞ。特徴ねえ顔だな
――なんだ、ヒイラギ・モータースの下請けじゃん
――ふーん(察し)
面白半分の書き込みを目にするたび、どんどん気が滅入っていく。
図らずも他人の人生を終わらせてしまった立場ではあるが、在沢自身の人生も詰んだ気がした。何もかも捨て鉢な気分でいるのに、それでも腹が減るのは生きている証拠なのだろう。
「ガミさん、俺なんかを匿っていていいんですか」
「いいんじゃねーの。オレはオレの仕事をするだけだ」
「どういうことです?」
「ごちゃごちゃうるせえな。テメエもいっしょに煮込むぞ」
鴻上はカップ酒をぐいと呷ると、ダイニングテーブルに鍋の準備を始めた。口調こそぶっきらぼうだが、手際は良い。
ひげ根をとったもやし、薄切りにしたニンニク、一口大に切った鶏肉、赤唐辛子を鍋に乗せ、酒とみりんと醤油で味付けした煮汁を混ぜ合わせる。煮立ったらアクを取り除き、食べる直前にニラを放り込めば、鴻上特製のスタミナ鳥鍋の完成だった。
「美味しそうですね」
「だろう。最後の晩餐だ、遠慮せず食え」
飴色の無垢材のテーブルの端っこにコミュニケーションロボットのLiSAがちょこんと座っている。ギャルのようにお喋りになったかと思えば借りてきた猫のように大人しくなるギャップは見ていて飽きないが、今は電源をオフにして黙ってもらっている。
「アクセルとブレーキの踏み間違いは一発で分かると言っていましたけど、どうすれば分かるんですか?」
在沢は鳥鍋をつつきながら訊ねた。
「EDRのデータをCDRで解析すりゃあいい」
「すいません、何の呪文ですか」
狐につままれたようにぽかんとする在沢を見て、鴻上はけらけらと笑った。専門用語を羅列して、わざと分かりにくくしたらしい。
「お前、ドライブ・レコーダーはさすがに知っているよな」
車に後付けするドライブ・レコーダーは、映像と音声を記録することで、危険な煽り運転や衝突事故、駐車時の当て逃げなどが起こった際に確かな証拠能力を発揮する。
「さすがにドラレコぐらいは知っています」
「ドラレコは後付けの装置で映像と音声しか記録されない。信号が青だったか赤だったかとかは分かるけど万能ではない。車が何キロで走っていたのか、ぶつかった衝撃の大きさ、アクセルやブレーキの運転操作までは記録されてねえよな」
「ええ、まあそうですね」在沢が曖昧にうなずく。
鴻上はここが肝心だぞ、と言わんばかりに語気を強めた。
「イベント・データ・レコーダーは車の製造時に組み込まれていて、記録装置の本体はエアバッグの電子制御ユニットに内蔵されている。エアバッグが作動するような衝突事故を起こした時、衝撃を受けた瞬間の車の状況を記録するんだ」
事故の瞬間を「タイム・ゼロ」と言い、そこから五秒間を遡って0.5秒刻みに種々のデータを記録する。記録される情報は、車両速度に始まりアクセル操作、エンジンスロットルの開度、エンジン回転数、ブレーキペダルの操作、ブレーキオイル圧力、加速度、ヨー角速度など多岐にわたる。
「重要なのは、公平で透明性の高いデータとして残ることだ。事故当事者の思い違いや嘘が入る余地がない」
「それ、めちゃめちゃ客観的な証拠じゃないですか」
アクセルを踏んだ踏まない、というのはあくまでもドライバーの主観だが、アクセルやブレーキ操作の有無が克明に記録されているならば誤魔化しようがない。
「アメリカでは2012年に基準が法規化されていて、新車販売の99%にEDRが搭載されている。ただ日本では自動車メーカーや部品供給企業によって規格がまちまちで、EDRに記録される情報にはバラつきがあるがな」
「ミーヴにもEDRは搭載されているんですか?」
「ああ、もちろん。情報の読み取りをしてないだけだ」
鴻上の説明を聞くうち、EDRの重要性は理解できた。
「EDRに記録されたデータはそのままじゃ暗号みたいなものだ。16進の暗号を翻訳する装置がCDRというやつなんだが、事故データは裁判に利用される可能性もあるし、素人判断で利用できるものじゃない。専門知識を備え、然るべき訓練を受けたCDR分析者だけが取り扱える代物だ」
CDRアナリストは、いわば交通事故原因を究明する名探偵だ。車の重心部分に設置されたEDRの取り外しに十五分、取り外したEDRをパソコンに接続し、CDRでデータを抽出するのに十五分、正味三十分もあれば解析できるという。
「ただ、EDRのデータ解析を行えるのは自動車メーカーと警察に限られるけどな」
にわかに光明が見えたところで、鴻上がぼそりと付け加えた。
「え、そうなんですか」
「基本的に警察はEDRのデータを事故調査で使いたがらないし、自動車メーカーは不都合なデータが出れば改竄するなり隠蔽するだろうな」
警察組織がEDRを毛嫌いするのは「官」によって作られた捜査システムではないからだ。アメリカでエアバッグの誤作動トラブルが発生し訴訟となった際、こういった速度でこんな衝撃を受けています、エアバッグ動作に問題はありませんでした、と確たる証拠を出すために開発された極めて珍しい「民」のシステムである。だからこそ「官」は露骨に使いたがらない。
「ミーヴに搭載されたEDRは無事なんですかね」
「さあな。ミーヴ自体を廃車にしてたら、もう永久に取り出すことはできねえな」
「そう……ですよね」
一縷の望みを抱いていた在沢はがっくりと肩を落とした。
「EDRの本体は心配してもしょうがねえ。重要なのはデータだ」
「ええ、それはそうですけど」
半壊したミーヴは今どこに在るのだろうか。すでに警察の手の内にあるのか、それともヒイラギ・モータースの関連施設内なのか。いずれにせよ警察や職員の目を盗んでEDRを手中にしなければ、事故データを取り出すことは叶わない。
「EDRって大きさはどれぐらいなんですか。持ち運びとかできるんですか」
「まあ、弁当箱ぐらいだな。片手で持てるサイズだ」
なにが面白いのか、鴻上はにやにやと笑っている。
「なんだよ、EDRを盗みだすつもりか」
「無茶ですかね」
「べつに止めはしねえけど、その必要はねえぞ」
鴻上は不適な笑みを浮かべ、沈黙するLiSAをちらりと見やった。
「EDRと接続して、事故データをそいつに送っといてやった」
一瞬、鴻上がなにを言っているのか理解できなかった。
「え、それじゃあ……」
「ああ、あとはデータを解析するだけだ」
ミーヴからEDR本体を回収するまでもなく、データはコミュニケーションロボットに転送されている。白衣を着た鴻上が事故現場から救い出したのは、EDRが記録した事故の真相だった。
「ガミさん、CDRアナリストの知り合いとかいないですか」
在沢が興奮気味に身を乗り出す。鴻上はにたりと片頬を歪めつつ、人差し指を鴻上自身に向けた。
「イモータル・テクノロジー社がヒイラギ・モータースに買収されてからオレはEDR解析部署に島流しに遭ってな。今じゃ解析依頼が引きも切らない敏腕分析者だぜ」