二重の含意
高槻沙梨
清澄白河にあるハバタキの社屋で、目下制作進行中である劇場アニメのゼロ号試写が行われた。
主要スタッフと脚本担当の藤岡春斗、そこに小説家の高槻沙梨だけが特別に招かれた。
春斗役の声を務めた新人の声優も招いたが、都合が合わず欠席、とのこと。
暫定のタイトルは『劇場版ハバタキのキンクロ旅団 いざ樹海! セーサク、シンコー!』と題されている。
色もモノクロで、荒っぽい線画だけの試作段階であったが、樹海を舞台にした物語は秀逸だった。
二時間ほどのパイロット版を見終わった後、高槻沙梨はちらりと春斗の横顔を眺めた。
社長の林田に倣ってブラックコーヒーを啜っているものの、やっぱり苦くて飲めないのか、こっそりスティックシュガーを溶かし込んでいるのが子供っぽくて愛おしい。
監督の大塚妃沙子から、「沙梨ちゃん、樹海を舞台にした物語とかって考えられる?」と内々に打診されていたが、どうにも暗く、湿っぽい話にしかなり得ないような気がしていた。
「男女のドロドロした愛憎の物語みたいな?」
「そういうのじゃなくて、なんとなく樹海のイメージが変わるようなやつが良いんだよね。普通に描くと、ホラーとかオカルトとか、悲劇っぽくなるけど、樹海を明るくしたいんだよ」
「明るく?」
「そう、すごく感覚的に言うと」
「明るい樹海ねえ」
自殺の名所として知られる樹海の負のイメージを一新するような物語、というのがスポンサーの意向だと聞かされても、大したことは思いつかず、私の手には余る、というのが正直な感想だった。
「私には難しいなあ。春斗君の方が向いていると思う」
「ハルちゃん、借りていい?」
「いちいち私に許可をとらなくてもいいよ。私は春斗君のお母さんでもないし……」
母親でないのなら、恋人なのだろうか、と思ったが、それも違うような気がして言葉に詰まった。
沙梨が二の句を継げずにいると、電話越しの妃沙子が内心を見透かしたように笑った。
「えー、じゃあ樹海とかにも連れ出しちゃっていいの?」
「それは……本人がいいなら」
渋々了承すると、
「サンキュー、沙梨ちゃん。恩に着る」
と言って、電話が切れた。
それっきり続報はなく、試写に誘われるまで忘れていたぐらいだ。
春斗は樹海を舞台にどんな物語を構想したのか興味が湧いたが、案の定、こちらの予想の斜め上を行く展開だった。
何はともあれ、私が春斗の母親役になっているところは正直勘弁してほしい。
「私は春斗君のお母さんでもないし……」とうっかり漏らした言葉が妃沙子の口を経由して、春斗の耳に入ったのだろう。
そういう些細な一言をなんでもかんでもごった煮にして、物語の大鍋の中にぶち込むから油断ならない。見るものすべて、聞くものすべてが彼にとっては物語の部品なのだろう。
でもね、春斗君。
それは使っちゃだめなやつだよ、とやんわり、たしなめておくことにしよう。
ほんとうに、もう……。
うちの子ったら、なんてものを作るのかしら。
映画タイトルからして、制作進行の職務にスポットを当てた「林田回」であることが分かるし、「出発進行」と「セーサク、シンコー」とかけた、二重の含意であるのは明白だ。
樹海へ飛んだはずの「山川=林田」とも捉えられ、実は同一人物なのに別人として振る舞っているかのような不条理。
遁走性フーグ症という、聞き慣れない病気。
青いマフラーを巻いたカケスとドングリ仙人。
どこかで見聞きしたのであろう部品を組み立てて、春斗は樹海を再定義したのだ。
――樹海は、死ぬ場所ではない。
――樹海は、別人として生き直す場所だ。
春斗は、緑の海にそんなようなメッセージを込めたのだろう。
ラストシーンは、圧巻だった。
画面に色はなかったのに、なぜか鮮やかな色が塗られているように感じた。
緑の海に揺蕩った林田が、青い空を見上げ、感慨深げに呟く。
「山と川、林と田んぼ、あとは海と空があれば完璧だな」
アニメ制作のブラックな現場に絶望した山川が樹海を漂ううち、林田として生き直し、緑の海から青い空を眺める。
黒が緑になり、やがて青になる。
樹海を出ると、別人のようになっている。
樹海は死の入り口ではなく、生へと舞い戻る出口だ。
別人に生まれ変わりたかったら、死なずに生きて出てこい。
ありふれた結論だが、そこに説教臭さは微塵もなかった。
「ねえ、春斗君。私も樹海に行ってみたいな」
ちょうど良い甘さになったらしいコーヒーを啜っていた春斗が、沙梨の顔を眺めた。
ちょっぴり顔を赤らめ、「二人で、ですか?」と聞かずもがなのことを訊ねた。
「うん。それともお母さんとじゃ、いや?」
アニメでのお母さん設定をやんわり非難すると、春斗はばつの悪そうな顔をして、もごもご言っている。
「いやじゃないですけど、たぶん迷いますよ」
「私は平気だと思うけどなあ」
方位磁石を二、三個、持って。
踝まであるトレッキングシューズを履いて。
万が一のために、熊除けの鈴を首にかけて。
その上、青いマフラーを巻いたカケスに道案内を頼めば、きっと完璧だ。
指揮棒に見立てた小枝を持って、どこまでも、どこまでも転がるように歩いていこう。
ちっぽけなドングリが育んだ、奇跡のような緑の海を。