対立
藤岡春斗
嘘の日は、振り返るだに悪夢のような一日だった。
そもそもの事の発端はと言えば、数日前。
沙梨先生と妃沙子姐さんとの女子会での他愛ない会話に遡る。
「今、劇場版アニメの構想を進めているんだけど、なかなか舞台が決まらなくてさ。私は富士五湖が良いと思ってるんだけど」
ハバタキのキンクロ旅団の物語は、キン、クロ、ハジローの三兄弟が、湖なり、河なり、海なり、とにかくどこかしらの水辺をぷかぷか泳いでいる場面から幕を開けるパターンが多い。
せっかく映画館の大スクリーンで上映するのだし、思わず観客が息を飲むような美麗な背景を描きたい、とのことで、妃沙子は富士五湖を提案したそうだが、即座に響谷Pに却下されたらしい。
「はあ? 富士五湖ぉ? なに、それ。超地味。湖にスワンボートでも浮かべるの? だっさ。そんなのわざわざ劇場でやるようなものじゃないじゃん。どうしたの、妃沙ちゃんらしくないね。耄碌したの? ああ、そっか。そういえば妃沙ちゃん、登美彦と付き合うようになったから精神が安定しちゃったんだね。あーあ、ぼかぁ、悲しいよ。狂犬のように尖っていた妃沙ちゃんはどこに行ってしまったんだい。ぼくがスポンサーなら、そんなぬるーい企画にはびた一文たりとも出資しないね。もうコケるのは目に見えてるもん」
舞台候補地を提案しただけなのに、けちょんけちょんに詰られたものだから、妃沙子は怒り心頭で、響谷の暴言のいちいちを正確に復唱しながら、怒りを倍加させていた。
ハバタキのお隣にあるリバーサイドカフェで、妃沙子は響谷の首に見立てたおしぼりを縊り折っていた。
沙梨先生が「まあ、まあ」となだめていたけれど、その表情はちょっぴり引き攣っていた。
響谷Pがそこまで富士五湖案を否定したのは、どうせ大した理由があるわけでもないと思う。
あの人はただただ波動砲をぶっ放したいだけの戦艦マニアだから、万が一、富士五湖が舞台背景になってしまえば、日本の誇る富士山を木っ端微塵にぶっ壊してしまいかねない。
たとえアニメの中であれ、そんなことをすれば、クレームの嵐だろう。
そりゃあさすがにまずかろう、という大人の計算が働いたのだ。
もしもその通りだとしたら、耄碌したのは妃沙子ではなく、響谷Pの方である。
怒りの収まらぬ妃沙子と、困り顔の沙梨先生を見て、我関せずの春斗は、ああ、帰りたいなあ、とぼんやり思った。
「春斗君はどこが良いと思う?」
殺伐とした空気を嫌った沙梨先生に話を向けられたが、こんなところでキラーパスをされても困る。
妃沙子姐さんの目はぎらぎらと血走っていて、「富士五湖を支持しなかったら、あんたも沈めるわよ」という並々ならぬ意思を感じた。
響谷Pの肩を持つつもりは毛頭なく、ただ、富士五湖を舞台にどんな物語にするか、さっぱりイメージが湧いてこなかった。
思い浮かぶことと言えば、平和的にスワンボートをぷかぷか浮かべている絵面だけで、それで二時間の尺が持つ気はしない。
どう答えたものかと思っていたら、天啓のように閃いた。
「……樹海」
たしか樹海は富士五湖の近くにあったはずで、響谷Pの身代わりとして縊り殺されたおしぼりを捨てるには、ちょうど良い立地だ。
春斗がぽろりと漏らすと、沙梨先生は「またこの子は、変なことを言って」とでも言いたげな、筆舌に尽くしがたい表情をした。
妃沙子姐さんは、にたりと気味の悪い笑みを浮かべて、こちらはこちらでなんとも言えない表情をした。
「樹海かあ。ふーん、樹海ねえ」
響谷Pの遺体を樹海の土の下に埋める妃沙子姐さん、という絵面が漠然と想起されたが、実際に樹海に連れて行かれて思い知った。
樹海には、死体を埋めて隠すような土はない。
その日の女子会はそれ以上ヒートアップすることなく、表面的には和やかに終わったが、通りすがりの響谷Pが会話を盗み聞きしていたらしく、不気味に笑っていた。
「樹海かあ。ふーん、樹海ねえ」
制作現場では意見が真っ向から対立することが多く、たいそう仲が悪いくせに、響谷は妃沙子と同じような反応をしていた。
そのときは、ちょっとした胸騒ぎを覚えただけだった。