飛空戦艦『ハバタキ弐号』
響谷一生
響谷艦長は厳かに号令をかけたが、アニメーションスタジオ・ハバタキが秘密裏に保有する飛空戦艦『ハバタキ弐号』は一向に発進する気配がなかった。
それもそのはず、乗組員であるキン、クロ、ハジローたちがぺちゃくちゃとお喋りに興じていては、艦が飛ぶはずもなかった。
「ハルはどこにいった?」キンがきょろきょろと辺りを見回した。
「……冬来たりなば春遠からじ」クロがぼそりと呟く。
「ハール、ハール、ハールっ!」ハジローはハルの名を連呼した。
キンクロ三兄弟は大塚妃沙子の家に居候し、湯船にぷかぷかと浮かび、ちゃぷちゃぷ水浴びをしているが、ひとたび陸上に上がると、なんとも無様で滑稽な醜態を晒す。
ペンギンのようによちよち歩きしては、あっさりバランスを失い、ずっこけて腹這いになり、ずりずりと艦内を這いつくばっている。
金黒羽白は決して「飛べない鳥」なのではなく、より正確に言えば、「飛ぶのにやたらと助走が必要な鳥」である。
カルガモのように水面で餌を食べる水面採餌ガモと異なり、水の中に潜って餌をとる潜水採餌ガモの仲間で、スキューバダイビングするように水中に潜る。
水中に潜りやすいよう、体重は重く、身体に比べて大きな水かきがついており、水かきで蹴った力が効率よく伝わるよう、脚は身体の後方についている。
水に潜るには便利な身体構造であるが、容易に飛び立てない、という欠点の裏返しでもある。
カルガモは水面からすぐに離水できるが、キンクロハジロは身体が重いので相当の助走が必要となる。飛び立つ際には十数メートル、必死に走って水面すれすれに離水し、ようやく空中に浮上する。
神聖な艦内でぺちゃくちゃ喋っているだけでも業腹であるのに、愚図愚図していてなかなか飛ばない、となればさらに腹が立つ。
「貴様ら、さっさと艦を飛ばさんか!」と叱りつけたくもなるが、響谷艦長は鉄仮面の表情を変えず、じっと堪えた。
ハバタキ弐号を空に浮かべることの出来る操縦士は、キン、クロ、ハジローの三匹を置いて他にいない。
空に浮かんだ後は自動操縦が可能であるが、ひとまず空に浮かぶまでは彼らに頼らざるを得ないのが現状だ。
内心、腸が煮えくり返っており、常日頃より逆流性食道炎に苛まれている胃が断末魔の声をあげて泣き叫んでいる。
しかし、艦長たる重責を担う立場にありながら、乗組員の手前で弱みを見せられるわけもない。
極度の胃弱であることを気取られぬよう、響谷は艦長然とした威厳を崩さぬままに両腕をクロスさせ、そっと胃の腑に手を当て、こっそり慰撫していた。
せっかく飛空戦艦を保有していながら、なかなか空に飛ばせられないという宝の持ち腐れは、海よりも寛容な心性の持ち主である、響谷の心をも苛立たせた。
響谷艦長がハバタキ弐号の離陸を命令しても、名ばかりの監督である大塚妃沙子はまったく聞き耳を持たない。
操縦士を務めるキンクロ三兄弟を囲っているため、すっかり強気なのだ。
「響谷さん、なんでそんなに戦艦を飛ばしたがるんですか。はっきり言って無駄ですよ、無駄。無意味に作画カロリーが高いんだから、いちいち飛ばしてらんないっすよ」
線の揺らいだ地球存亡の危機であるにも関わらず、乗組員たちに負担を強いている「作画カロリーの高い嗜好品」を削れ、という。
冗談ではない。
戦艦は作画カロリーで飛んでいるのではない。
戦艦は乗組員たちの弛まぬ努力と情熱で飛んでいるのだ。
監督の顔を立てて、なるべく戦艦の出撃回数を控えてはいるが、内心は忸怩たる思いだった。
響谷が怒りを押し殺して黙っていると、大塚妃沙子は追い打ちをかけるように言い募った。
「わざわざ戦艦なんか飛ばさないでも、キンとクロとハジローが飛んでいけばいいじゃないですか。艦長ならコスト考えてくださいよ、コ、ス、ト」
大塚妃沙子は口を開けば「コスト、コスト、コスト」と言い出し、なるべくハバタキ弐号を飛ばさぬように出撃制限を強いた。
我がハバタキの誇る飛空戦艦を、まるで無用の長物扱いである。
厭味ったらしい口振りにも響谷は表情を崩さず、じっと耐えた。
「カネがないんだから、大した用もないのに戦艦を飛ばさないでください。戦艦とかほーんと、要らねえっす」
大空に舞い上がるためには、まずは屈まねばならない。
顔は笑って、心で泣いて。
一介の作監として世を忍び、年若い監督に傅きながらも、戦艦が大空に飛翔する日を信じて、じっと耐え忍んだ。
そして、遂にその時が来たのだ。
大塚妃沙子が経験の浅さを露呈し、憔悴の色を隠せず、地球存亡の危機に瀕してようやく、最後の砦である響谷艦長の出番である。
ぺちゃくちゃとお喋りに興じていたキン、クロ、ハジローの兄弟もようやく準備が整ったようだ。
響谷艦長は気を取り直すと、どこよりも高みにある艦長席から艦内を睥睨しながら号令をかけた。
「これより樹海上空へと向かう。ハバタキ弐号、テイク・オフ!」