点と線の守護者
響谷一生
「林田が寝返った。いや、根替えった、というべきか」
艦長帽を目深に被った響谷は、苦虫を噛み潰しながらコンソールに触れた。
「樹海を舞台にしたアニメとはな。ずいぶんと虚仮にしてくれたな」
絵師用作画机が並んだハバタキ社内は、艦長室へと早変わりした。制作進行の林田が持ち帰ってきた案件はどうにもきな臭く、いわくありげな匂いが漂っていた。
絵師経験の浅い大塚妃沙子は当初より乗り気であったが、こと此処に至り、ようやく目が覚めたようだ。
妃沙子の顔には、泣き腫らした跡があった。
「コケだけにな」と金が言った。
「……苔だけに」と黒が言った。
「コケたら艦長、クビっ!」と羽白が言った。
黒いカメラを首からぶら下げ、リバーサイドカフェが特別にブレンドしたコーヒーの入った魔法瓶を持ったキン、クロ、ハジローの三兄弟は、ご当地名物のキンクロパンをもしゃもしゃと齧っている。
「貴様ら、遠足に行くのではないのだぞ」
「コーケ、コーケ」と金が茶化すように言った。
「……苔だけに」と黒が相槌を打つ。
「コケたら艦長、クビっ!」と羽白が面白がっている。
線上特派員の鳥どもが騒いでおり、一向に静かにならない。
地球存亡の危機とも言うべき、憂慮すべき事態が眼前に出来しているというのに、この緊張感のなさは遺憾ともしがたい。
艦長服に身を包んだ響谷は、理解者のいない孤独なコックピットに腰を沈めたまま、小さく嘆息した。
愚を装うのは、なにかと苦労する。
昼行燈のふりをしようにも、知らず知らず、生来の高潔さが漏れ出てしまう。
アニメ制作の戦場には、監督を頂点として、作画監督、音響監督、撮影監督といった精鋭たちが脇を固めている。
作品は監督のものであり、監督の幻想をいかに形にするか。
現場の総責任者が監督であり、あらゆる乗組員は監督の手足となって作品制作に尽力するが、その監督をも超える「絶対神」が存在することは、ほとんど知られていない。
――その名は、艦長。
響谷は一介の作画監督として職を得ているが、それはあくまでも世を忍ぶ仮の姿だ。世界広しといえど、艦長職に就くのは響谷ただ一人だけだ。唯一にして無二。代えの利かぬ尊き、高き存在。
金黒羽白――キンクロハジロという「飛べない鳥」を社の象徴に据えた紙芝居小屋の作監に身を窶しているのは、故あってのことだ。
本来の響谷は、作画監督などという枠には到底収まらぬ、紛うことなき大人物である。
監督をも超える艦長として最奥に鎮座してはいるが、表面的には、知る人ぞ知る作監として世界中の線質を下支えしている。
快く監督業を譲り、社の金看板を若手の大塚妃沙子に担わせてはいるが、「神絵師」などと持て囃されるうちに、だんだんと勘違いが甚だしくなった。
愚神礼賛されるうち、線から清廉さが失われて、ただただ速筆だけが持ち味の荒々しさに堕していった。
線の乱れは心の乱れであり、心の乱れは線の乱れである。
大塚妃沙子の描く線がどれだけ乱れていようと、泰然自若の余裕と大人の風格を持って概ねは目を瞑っていたが、さすがに看過できぬ事態となっては、艦長自らが陣頭指揮を執らねばなるまい。
世界は、点と線から成り立っている。
その線が乱れることは、即ち世界の崩壊を意味する。
いわゆる作画崩壊は、ちょっとした心の隙から生まれる。
ほんの少しの線の揺れ、僅かばかりの線の乱れが命取りなのだ。
色や音は後付けに過ぎず、世界は線さえあれば盤石でいられる。
しかし、その線を脅かす存在が観測された。
何を隠そう、樹海である。
富士山の周囲に広がる青木ヶ原樹海は、どこからどこまでが樹海なのか、という明確な線引きがなされていない。
世界線を守護する艦長として、最重要警戒対象であることは言うまでもない。
線上特派員に命じて、線に何かしら異常がないかを定期巡回させていた。特派員たちは上空に舞い上がり、黒いカメラで樹影を映し続けた。
幾枚もの樹影写真を比較するうち、漠たる違和感に襲われた。
――日に日に、樹海領域が広がっていないか?
点と線の守護者たる響谷でしか気付き得ぬ、些細な差異だった。
富士の麓を覆う苔がじわじわと周囲に侵食し、千年単位で見ると、樹海の領域拡大が規定値を大幅に超過していることを突き止めた。
容易に看過できぬ事態であった。
樹海を上空から撮影した樹影写真だけでは現状を把握できない。危険を承知で、樹海深部に赴くこととした。
真の目的を知るのは、響谷艦長ただ一人であり、ハバタキの乗組員たちはただただ「樹海を舞台にしたアニメを制作する」といった程度の認識だろう。
樹海に赴いた後、さりげなく乗組員たちを四散させた。
乗組員たちには内緒で、事前に小型の盗聴機器を装着させていたため、彼らの言動はすべて響谷には筒抜けだった。
地――本性が現れるのは、周囲と隔絶され、独りになってからだ。まず最初に響谷を失望させたのは、長年連れ添った盟友であるはずの林田であった。林田は樹海深部に赴くのを真っ向拒否した。
「俺は創造者ではないのだし、樹海の中まで行く必要はないだろう」
なんとも歯切れ悪い言い草には、失望を通り越して悲しくなった。身に疚しいことがなければ、樹海深部へ赴くことにいささかの躊躇もあるはずはない。それがのっけからの敵前逃亡である。
樹海に潜む謎の勢力と内通していることを窺わせる態度だった。
林田は信用するに足りない、と判じるに至ったのは、樹海から戻った響谷に強引に別業務を割り当て、強制的に都内へ帰還させようと画策したからだ。
口車に乗ったふりはしてみたが、響谷を樹海から遠ざけよう、という意思があったのは明白だろう。響谷を脅威と見做してのことであろうが、林田への疑いは一層濃くなった。
響谷が樹海を離れると、樹々の魔手は乗組員たちを襲った。
監督の大塚妃沙子は母校の後輩を名乗る刺客にさんざ持て囃され、褒め殺しの目に遭っていた。樹海にそう都合よく後輩などいようものか。食事に毒を盛られていなかっただけ運が良かった。
団亀の奥野登美彦は姿を消し、ぱたりと交信が途絶えた。
小説妖精の藤岡春斗は、人語を操る鵥に誑かされていた。
篭絡の仕方は三者三様であったが、藤岡春斗と鵥とのやり取りを傍受すると、樹海にどんな悪意が蠢いているのか、その全容が徐々に露わになった。
樹海に住まう樹教教団は、世に絶望した遁走者たちを言葉巧みに誘い出し、「樹になるか?」と勧誘するようだ。
樹教の長であるドングリ仙人は、人心を惑わし、人林と変える。新たな人林は生かさず殺さず、じわじわと樹海の植樹範囲を拡げてゆくつもりなのだろう。
ドングリ仙人の言葉により「遁走性フーグ症」を発症した遁走者たちは、樹海へ赴く前の人間性を喪失し、別人格として転生する。
ドングリを餌に樹教教団へ勧誘する悪しき鵥は〈ジェイ〉、教団に奉仕する人間を〈ジェイウォーカー〉と呼び定めることにした。
ジェイウォーカーとしての功績が認められると、名誉樹木となり、樹教の聖地たる樹海に根付くことが許される。
傍受した会話の断片から、樹海に巣食う闇の正体が透けて見えた。
「林田はドングリ仙人――フーグ卿と内通していた。ハバタキ創設以前より、樹教に取り込まれていたとみていいだろう」
事実、林田本人が口にしていたではないか。
山川という名の同僚が「飛んだ」ということを、生きたまま我が身を切り刻まれるような痛恨事のように語っていた。
その山川某という男の行方は杳として知れず、山川がやり残した仕事を林田が万事遺漏なく完璧に引き継いだ。
……完璧に、だと?
ただでさえ混乱した勝手の分からぬ現場を、たとえ気心の知れた同僚の後釜とはいえ、完璧になど引き継げるはずもない。
林田がなぜ斯様なまでに樹海に固執し、山川という男の存在をいつまでも忘れずにいるのか解せずにいたが、林田もまた、遁走者であったのだと考えると合点がいく。
正確に言えば、遁走者の成れの果て。
……いや、よそう。
林田が、林田であった以前に何者であったのかなど、邪推したところで栓ないことだ。すべては状況証拠に過ぎない。
山川という男が樹海に向かったとされる年齢さえも定かではない。分かるのは、おそらく若かった、ということだけだ。
年齢相応の老獪さを身に付けた今の響谷よりも、ずいぶん若かったことだろう。馬齢を重ねるのも、そう悪いことばかりでもない。たとえ何も出来ずとも、性急さを戒めることぐらいならば出来たはずだ。
艦長帽の庇に手を添えた響谷は、静かに瞑目した。
「認めたくないものだな。若さ故の過ちというものを」
地球上のありとあらゆる線を守る艦長の重責は、高潔無私な響谷の精神力を持ってしても苦に思うことばかりで、心身に並大抵ではない負荷がかかる。すべてを投げ出し、楽になりたくなる日もある。
唯一無二の存在である響谷は、誰にも弱音を吐けぬ立場にあった。
そんな中で、林田だけがごく気さくに話しかけてくれた。
誰とも苦労を分かち合えぬ職場にあって、林田の包み込むような笑みと、馥郁たる珈琲の芳香に、どれほど慰められたことか。
「響谷君、調子はどう? コーヒーでも飲みに行こうよ」
林田は掛け替えのない友人であり、時に父のようにも感じた。
「君は良い友人であったが……」
たとえ無二の友人とはいえ、艦長たるもの、線の綻びをむざむざ看過することは出来ない。
響谷艦長は、この世に蔓延るありとあらゆるしがらみを断ち切らんかのような威厳ある声で告げた。
「これより樹海上空へと向かう。総員配置につけ!」