バッドトリップ
大塚妃沙子
窪地の洞穴で発見した春斗は、胎児のように丸まって眠っていた。
「ハルちゃん、朝だよ。起きて」
頬をぺちぺち叩いたが、なにかむにゃむにゃと寝言を言ってぐずっている。
低血圧なのか、すこぶる寝起きは悪いらしい。
起き上がり小法師のようにむくりと起き上がったものの、妃沙子が支えていないと、そのままこてんと眠り込みそうだった。
目はとろんとして焦点が合っておらず、両手で目をごしごしとかいても、虚ろな表情はなかなか治らない。座ったまま眠っているような具合で、うつらうつらとしている。
「ハルちゃん、立てる?」
まったく立ち上がる気配がないので、腕を引っ張って立ち上がらせようとした。しかし、春斗の身体にはまったく力が入っておらず、海月のようにぐにゃんとしている。
抵抗らしい抵抗はしないのに、一向に立ち上がらない。
きゅっと身を縮こまらせ、なにかに脅えるような面差しで、ひたすら伏し目がちでいる春斗は、いつにも増して幼い印象を醸し出している。
ガラガラと鳴り響く雷が怖くて、押入れに隠れてガタガタ震えている幼児のような稚気を帯びている。
よほど樹海で怖いものを見たのか、それともただ寝惚けているだけなのか分からないが、ものすごく子供っぽい仕草が随所に見受けられた。
「ハルちゃん、大丈夫? ちゃんと起きてる?」
平素は童顔に似合わぬ皮肉な態度をとる少年が、どこまでも子供っぽい振る舞いをしているのが可笑しくてたまらなかった。
春斗は高槻沙梨と二人っきりの時、こんなふうに甘えているのだろうか妄想すると、つい顔がにやけてきた。
沙梨に「ハルちゃんとはどうなの?」と聞くと、いつもはぐらかされるばかりだったが、なるほど、こういうお子様と付き合っているのであれば、詳細を語りたがらないのも理解できる。
沙梨ちゃんも大変だなと思う反面、彼女にしか見せないであろう甘えた態度が垣間見えて、二人だけの秘密を知ってしまった侍女の気分である。
これこそまさに隠れハルちゃんではないか。
高槻沙梨しか知らない、秘密の春斗。
「隠れハルちゃん、みーっけ」
妃沙子はくつくつと笑いながら、春斗の猫っ毛を撫でた。
視線を虚空に彷徨わせていた春斗は、びくんと肩を震わせた。
上目遣いにおそるおそる妃沙子の表情を覗き込むと、ひどく脅えた様子で、なにか言いたげではあるのに、口をもごもごと動かすばかりで、なにも訴えようとはしない。
なにか言いたいことがあるなら、さっさと言えばいいのに、なんとも焦れったい。
柔らかな髪を梳きながら、妃沙子は粘り強く次の言葉を待った。
子猫のように目を細めた春斗は、妃沙子を下から覗き込みながら、消え入りそうな声で言った。
「……怒ってない?」
いったい、なにを怒ることがあるのだろうか。
樹海で迷子になったことか、それともなにか別のことなのか。
あまりにも意外な第一声であったので、咄嗟に返事が思い浮かばなかったが、妃沙子は笑みをこぼしながら髪を梳き続けた。
「怒ってないよ。ぜーんぜん怒ってない」
本心からそう言ったが、春斗は疑り深そうな目を向けてきた。
「……やっぱり怒ってるんだ」
目の端に涙を浮かべた春斗は、いじけた子供のようだった。
ああ、そういえばこの子は、言葉を額面通りに受け止めない子だったな、と今更ながらに思い出した。
「怒ってないよ」と言えば、その言葉をひっくり返して解釈する。
だからといって、率直に「怒ってるよ」と言えば良いわけでもない。「やっぱり怒ってるんだ」という返事になるのがオチだ。
……めんどくせー、超絶めんどくせー。
だんだん苛立ちが募ってきたが、妃沙子は奥野登美彦という団亀と付き合ううちに、人並みの我慢強さを後天的に身に付けつつある。
こめかみに青筋が浮き上がりつつあるのがはっきりと自覚できたが、この程度ならばまだ許容できた。
怒りつつあるが、今のところはまだ怒っていない。
怒ってないよ、と言ったところで逆効果なのは明らか。
……どないせえ、言うんじゃ。
めんどくせー、超絶めんどくせー。
心の中の阿修羅神が猛っているが、妃沙子は深呼吸し、ひとまず鬼の形相にはなっていなかった。
我慢、我慢。
すー、はー、すー、はー。
仮初めの笑みを浮かべ、妃沙子は訊ねた。
「どうしてあたしが怒っていると思ったの?」
「だって、ぼくは世話の焼けるおばかさんだから」
舌足らずの甘えた声には、普段の春斗らしい毒がなかった。
目の端に溜めた涙が決壊したみたいに、泣きべそをかき始めた。
「ママのこと、ママって言えるようになるから」
わんわん泣かれたが、さっぱり意味が分からない。
……どゆこと?
この子、なんか変なもんでも食べたのか?
幻覚を見るキノコとか。それともヤバいクスリでもやってるのか。
「ちょ、ちょっと。ハルちゃん、落ち着いて」
泣きじゃくり、我を忘れている春斗の背中をさすってやると、ようやく泣き声が落ち着いてきた。つい、春斗を抱きしめる格好になったが、妃沙子に抱きかかえられた春斗は明らかに小さかった。
本来の大学生ではなく、よく揶揄されるように中学生でさえなく、小学生はおろか、幼稚園児ぐらいの小ささに思えた。
いっそこのまま手乗りサイズまで縮んでしまえば、アニメの中の小説妖精サイズになって持ち運びしやすいのに、などと思っている自分の方が悪い夢でも見ているのだろうか。
おかしいな、あたし疲れてんのかな、と思いつつ、妃沙子は目を瞬いた。
眉間を念入りに揉みしだいていると、妃沙子の目には幼児サイズに見える春斗が心配そうな表情を向けてきた。
「……怒ってない?」
「んー、若干怒ってる」
知らず知らずのうち、作画仕事をぶっ続けでやり切った徹夜明けの朝かのような、ドスの利いた不機嫌な声が響いた。怒気を孕んだ妃沙子の地声を聞いた幼い春斗は、ぷるぷると震えている。
「……だれ?」
脅えた春斗は、怒れる妃沙子を「知らない人」と分類したらしい。
誰じゃねえだろうがよ、誰じゃ。
ああーん? こらっ。
沸々と湧き上がる怒りをどうにかこうにか沈めながら、妃沙子はぴくぴくと引き攣りながらも精いっぱい笑いかけた。
蛇に睨まれた蛙のように硬直した春斗は、びくっと肩を振るわせた後、おそるおそる妃沙子の顔をまじまじと見つめ返した。一旦は知らない人分類した妃沙子の顔を今一度、改めているらしい。
「……美月おねえちゃん?」
半信半疑の面持ちで、春斗が言った。
それこそ「……だれ?」である。さっぱり理解が追いつかないが、春斗はぱあっと表情をほころばせた。
「おねえちゃんがお迎えにきてくれたの?」
どうにもよく分からないが、幼い春斗にとって「みづきおねえちゃん」という人物は、顔を見た瞬間に安心感を与えてくれる存在であるようだった。
「そうよ、お迎えに来たのよ。さ、帰ろうか」
事情がよく分からないなりに、話を合わせてみると、幼い春斗が躊躇いがちに手を繋いできた。樹海の洞窟を出て、同じ光景ばかりが続く緑の森をひたすらに歩き続けた。
幼い春斗は枯れ枝を拾うと、ぶんぶんと振り回した。
足取りは飛び跳ねるように軽く、ずいぶんごきげんだった。
「あのね、美月おねえちゃん。ぼく、カケスを見たの」
「……カケス?」
「目がぐりぐりしてて、頭がギザギザしてて、青いマフラーをしてたの。追いかけたら、ジェー、ジェー、って鳴いたんだよ」
樹海には霊力が働くのか、手を繋いだまま歩く春斗が幼稚園児に思えて仕方がなかった。
「なんだ、あたし霊感あるんじゃん」
妃沙子は、ほくそ笑みながら独りごちた。
「ねえ、ハルちゃん」
「なあに?」
「ハルちゃんはいくつになったんだっけ?」
幼い春斗は、指を一つ、二つ、三つ、四つと折りだした。
四つ折ってから、五つとしたところで、また四つに戻る。
「四……、じゃなくてもうすぐ五歳」
春斗はえへん、と胸を張った。
妃沙子の目の前にいる隠れハルちゃんは、五歳児ハルちゃんであるようだった。
「それじゃあ、みづきおねえちゃんはいくつかな?」
春斗は、えーと、えーと、と呻きながら、一、二、三と指を折り始め、十本の指では足りなくなって、もういちど数え始めた。
「十四……じゃなくて十五歳?」
「そう、正解。よくできました」
正解なんて知るはずもないが、頭をくしゃくしゃと撫でてやると、春斗は目尻を下げて気持ち良さそうにしている。
四歳か五歳といえば幼稚園児で、十四、五歳といえば中学三年生、ないしは高校生になったばかりの年頃だろう。みづきおねえちゃんという人物は親戚の姉かなにかなのだろう、と目星がついた。
朝方、林田社長に春斗を発見した旨を連絡したところ、「とにかく同じ方角に歩き続けていれば樹海の外に出られる。俺は引き続き、奥野君を探す」との返答があった。
スマホにインストールしたばかりの方位磁石アプリを見ながら、幼い春斗と一緒に樹海を歩き続けた。
不可思議なことに、歩き続けるうち、五歳児ほどの容姿だった春斗がだんだん成長していた。
妃沙子の知る春斗には達していないが、あまり遜色のない外見にも見えた。
おそらくは中学生ぐらいなのだろう。
五歳児のどうしようもなくお子様な頃からすると、ずいぶんと大人びた印象ではあるが、世間的には童顔と類されるだろう。
手を繋いで歩いているのが気恥ずかしいらしく、ちらちらと妃沙子を見ては、手を離そうか離すまいか思案しているようだった。
「……どなたですか?」
構えたような問いかけには、探るような色があった。思慮深さを湛えた黒目がちの瞳には、妃沙子の知る春斗の片鱗があった。
警戒心を露わにした質問には、無邪気に「だれ?」と問うた面影はなかった。素直だった幼木が捻くれて、拗ねているようにも映る。
「あたしが分からない?」
「分かりません」
逆に質問し返すと、まったく素っ気ない答えが返ってきた。
あんなに素直で可愛かったのに、ちょっと見ないうちにずいぶんやさぐれたのね、という印象を抱いた。
「そっか、ハルちゃんは私を覚えていないのか」
大いに嘆いてみせると、春斗が胡乱な目つきをした。
「お会いしたことありましたっけ? そもそもここはどこですか」
「ここは樹海よ」
「……樹海?」
「そ、樹海。劇場アニメのロケハンに来たの。覚えてない?」
春斗はまるで初めて見るかのように、周囲を見渡した。
「へえ」
感想はそれっきりで、あっさりし過ぎているにもほどがある。
さすがにもうちょっと驚けや、と思う。
「ハルちゃんって今いくつの設定なの?」
「設定?」
「精神年齢とか、外見年齢とか、まあそんなやつ」
「中三ぐらいじゃないですか。四月から高校生」
「へえー、中三……」
中学三年生といえば、春斗が高槻沙梨に出会う節目である。
春斗と沙梨の馴れ初めについて、当人が何も語らないので詳しいことは知らないが、何歳のときに出会ったのかだけは知っている。
それにしても中学生ハルちゃんのやさぐれ感、ハンパねーな。
なぜこんなに不貞腐れてしまったのか、身の上相談に乗ってやろうか、などと思いつつ、妃沙子はにやけた。
「なにか悩んでいることがあるなら話してごらんよ。せっかく樹海まで来てるんだし、ここで聞いたことは誰にも他言しない。それに今日はエイプリルフールだよ」
あれ、今日って嘘の日だったっけか。それとも昨日だったっけか、と思いつつ、細かいことはどうでもいいや、と思い直した。
「そうですね。じゃあ、そうします」
樹海という非日常の空間がそう言わせたのか、春斗らしからぬ素直さで応じた。春斗は世間話でもするように淡々と話し始めた。