ドングリの間
藤岡春斗
ジェイ隊長に誘われ、辿り着いた先は、樹教の祖であるドングリ仙人の御座す『ドングリの間』だった。
洞窟入り口付近には雨水を溜めた水瓶があり、苔むした大小不揃いの溶岩が積み重なった石の砦に、無数の樹々が絡みついている。
腰を屈めて歩かなくては頭をぶつけてしまいそうな狭い洞窟内部を、ブリキでできた油用灯の光がぼんやりと照らしている。
どことなく鉱山の坑道を思わせるような場所であったが、窪地に転がり落ちたドングリのように地下へ下ったから、そう感じただけなのかもしれない。十数歩も歩かぬうち、すぐに行き止まりだった。
油用灯の側にある止まり木にぴょこんと飛び乗ったジェイ隊長は、深々と頭を下げた。紫紺の闇を明々と照らしていた油用灯がふっと揺れ、消えた。
「ドングリブタイチョウ、ジェー。ジュキョウをマナビタイとイウ、ジェーウォーカーをツレテ、マイリマシタ」
油用灯が再び明々と灯された。ころん、とジェイ隊長の眼前に転がったのは大好物のドングリだった。
隊長は狂喜乱舞し、ドングリを咥えて飛び上がった。止まり木にドングリを押しつけ、硬い殻を嘴で突いて破ると、柔らかな中身をあぐあぐと頬張った。
「ドングリッ! ドングリっ!」
ジェイ隊長は天にも昇らんばかりの至福の表情で、ドングリを貪っている。ドングリに夢中で、もう何も目に入ってはいないようだ。
ドングリ仙人の御前であるはずだが、それらしき人物は見当たらない。
春斗が訝しげに周囲を見渡すと、ジェイ隊長が乗かっていた止まり木が斜めに傾いた。急に止まり木が動いたせいか、ジェイ隊長はたたらを踏み、今まさに飲み込まんとしていた大好物をぽろり、と取り落としてしまった。
「ドングリッ! ドングリっ!」
食べかけのドングリはどこかに消えてしまったらしく、ジェイ隊長は悲痛の声で泣き叫んでいる。洞窟の隅々を探し回っているが、見つからないらしい。
「これこれ、ジェイ。あまり取り乱すでない。おぬし、少々騒がしいぞ。今、ちょうど良いところであったのに、まったく聞こえぬではないか」
賢人の如きしわがれた声が洞窟内に木霊した。春斗の方へ向き直ったドングリ仙人は、まさしくドングリだった。
「顔」は帽子を被った面長のドングリで、ジェイ隊長を乗せていた止まり木はどうやら「腕」であったらしい。「胴体」部分の樹皮は濃灰色で、縦に走った亀裂は、ガーター編みのセーターを着ているみたいに見えた。
人間と樹木の決定的な違いは何かと考えれば、ごくごく単純に思い浮かぶのは、「人間は動く。樹木は動かない」ということだろう。
人間のようでもあり、樹木のようでもあるドングリ仙人は、樹木人間とでもいうべき存在だった。
樹教の祖と聞いて、さぞや取っつきがたいのかと思いきや、ドングリ仙人が左手に持っていたのは、樹海から拾ってきた遺留品と思しき、タブレット端末だった。
ドングリ仙人はアニメを視聴していたらしく、画面には既視感のある戦艦が波動砲らしき砲撃をぶっ放している場面が映っていた。ジェイ隊長はドングリ仙人にすり寄ると、画面に合わせて咆哮した。
「サクガホーカイ、サクガホーカイ。ゥゥゥウウウ、ズゴゴゴゴォゴゴゴゴォォオオオオ……」
「これ、ジェイ。台詞が聞こえぬ。聞こえぬではないか」
ジェイ隊長がどのように波動砲を学習したのか、顛末が知れた。樹海を舞台にした劇場アニメの出資者って、もしやドングリ仙人なのではなかろうかと邪推したくなるぐらい、画面を食い入るように見つめている。
春斗が唖然とした表情を浮かべていると、ドングリ仙人がようやく顔をあげた。
「いやはや失敬。テレビを見るときは部屋を明るくして離れて見んといかんな。てへぺろじゃ、てへぺろ」
てへっ、と茶目っ気たっぷりに舌を出した……ように見えた。
無論、顔はドングリなので舌はないのであるが。
この樹木、いささか低俗に染まり過ぎではなかろうか、という思いが春斗の脳内を占拠したが、タブレット端末を脇に置くと、樹教の祖である威厳が漂い出した。自然と春斗は襟を正した。
「ドングリ仙人様は、何の樹でいらっしゃられるのでしょうか」
「儂は小楢じゃよ。とっくに名誉樹木になって引退しておるがの」
聞いているそばから春斗の腹の虫がぐー、ぐーと鳴った。
「おや、空腹であったか。これ、ジェイ。馳走の用意をせい」
「ショーチ、シ、マシタ」
ドングリ仙人はジェイ隊長に持ってこさせた黒鍋に、水瓶から汲んだ澱んだ水を柄杓で注ぎ入れ、マッチを擦って火を熾した。
食べたらバッドトリップしそうな毒々しい黒いキノコを棍棒のような腕でぶつ切りにし、隠し味と言わんばかりに化石のような赤い味噌を鍋に放り入れる。
ドングリの殻をどぼどぼ投入し、見る見るうちに鍋の嵩が増していく。
「今は悠々自適に暮らしておるが、人間どもが首を括りにやってくるのが迷惑でな。なんとかならぬものかと心を痛めておる」
沈鬱な胸の内を代弁するかのように、ふっと油用灯の灯が消えた。
「樹海にはまともな土がない故、痩せ細った弱卒しかおらん。人間どもの体重を支えられるような枝はなく、人間にぶら下がられたらすぐにお陀仏じゃ。樹海最古参の儂とて、千年、二千年も生きてはおらん。高高樹齢三百余年を生きておるに過ぎん」
ドングリ仙人の憤った声が薄闇に残響した。
ぐつぐつと鍋が煮え立つ音が異様なほど食欲をそそる。
空腹を通り越して目眩がしていたので、鍋の中身が少々ヤバくても食事にありつけるなら何でもよかった。
仙人は腕を鍋に突っ込み、櫂を漕ぐようにかき混ぜている。
もうそろそろ煮えているはずだが、話が一段落するまでは食事にありつけないようだ。目の前でのお預けはほとんど拷問である。
堪えがたき空腹が、身を切り刻むような鋭い痛みに変わった。
苦痛に顔を歪めた春斗が呻きながら言った。
「きちんと首を括りたいなら樹海になど来るな。他所へ行け、そう仰りたいのでしょうか」
「左様、なかなか飲み込みが良いな。ジェイの見込んだだけはある」
「ドングリッ! ドングリっ!」
「これ、騒がしいぞ。静かにせんか」
ジェイ隊長は狂ったように羽根をばたつかせている。
「ふむ、そろそろじゃな」
ドングリ仙人は鍋の火を止め、濁った汁を木製の椀によそった。
「待たせたな。たんと食すがいい。だにしても人間という生き物は不便であるな。葉緑なく、水と光だけでは夢夢生きてはゆけぬ」
椀に盛られたドングリ汁を掻き込むと、薬のような苦い味がした。
うえっ、と吐き出しかけたが、背と腹がくっつきそうな空腹には勝てず、春斗はよそわれるがままにひたすら食べた。鍋にあるものすべてわんこそばのように平らげると、ぐにゃりと視界が揺れた。
「どうじゃ、麻薬的に美味じゃろう。世に存する麻薬の遍くは植物含窒素化合物じゃて、これを食べれば遁走など木っ端微塵じゃ」
天井を仰いだドングリ仙人は、殻々と哄笑をあげた。
だんだんと意識が遠退いていき、目の前の線が捻じれて歪む。
これは悪い夢だ。
そう、悪い夢に違いない。
世界から音が消え、あちこちが歪んで見える視界に幕が下りた。
音に続いて微かな光さえも絶え、無辺の闇に埋め尽くされた。
「……ちゃん。……ル、ちゃん」
うる……さ、いな。
静か……に……して……よ。
ぼ……く、は樹……。
ぼ……く、は樹に……なる、ん……だ……か、殻……。