霊感
大塚妃沙子
ぱちぱちと火の粉が爆ぜる。
漆黒の樹海の中で、大塚妃沙子は、焚き火を囲みながらカレーを食べていた。
空腹は最高のスパイスで、キャンプカレーならぬ樹海カレーは絶品だった。人間らしい食事にありつけたせいか、ここが樹海であることを失念しそうになったぐらいだ。
あたしってけっこう悪運強いかも、とちょっぴり悦に入る。
行方不明になった春斗を探して樹海内を奔走したが、陽が落ちて、苔むした緑の森が完全なる黒に変貌すると、歩き続けるのはさすがに危険だった。
枯草の上で丸まって、陽が昇るまでこのまま野営かな、と沈んだ気持ちでいたら、視界の先に灯りがあり、ぼんやりとした火が揺らめいているのが見えた。
灯りを頼りに歩いていくと、そこにいたのは若い男女の五人グループだった。
妃沙子の母校である多摩総合美術大学――タマビの後輩たちで、映像演出研究会の有志たちが撮影合宿に訪れていたという。
焚き火を囲んだグループの背後から声をかけると、すわ亡霊か、闇夜に乗じた襲撃者かと勘違いされ、カレーをかき混ぜたり、すくったりするお玉で殴りかかられそうになった。
丸腰の妃沙子は両手を掲げ、怪しいものではないとアピールした。
「アニメーションスタジオ・ハバタキで監督をやっている大塚と申します。アニメの舞台になりそうかな、と思って下見に来ました」
遜りながら、ラフな絵を描きまくったクロッキー帳を見せると、グループの中に『ハバタキのキンクロ旅団』のファンがいた。
「本物の大塚監督ですか? わ、すごーい。本物だぁ!」
五人中四人はきょとんとしていたが、ひとりだけ妙にテンションの高い女子がいた。
彼女以外は妃沙子のこともハバタキのことも知らなかったが、妃沙子がタマビの卒業生であることを知るや、下にも置かぬ歓待ぶりだった。
「いやあ、美味しかった。ご馳走さま」
知り合ったばかりの若者らに礼を言い、妃沙子は水と食事を恵んでもらった御礼代わりに、ささっと絵を描いた。
ハバタキの深夜アニメをすり切れるほど見たという熱烈なオタクお嬢様にリクエストされたのは、「ロイド眼鏡をかけ、英国紳士然としたハヤシダ社長がリバーサイドカフェで優雅にコーヒーを飲み、新聞に目を落としながら黄昏ている昼下がりのひととき」だった。
英国紳士ならコーヒーじゃなくて紅茶だし、実際の社長はロイド眼鏡じゃなくてウェリントン型サングラスだぞ、と思ったが、リクエストなので細かいことは言わない。
クロッキー帳の余白に描き、サインをしてから、びりっと破る。
それにしてもハヤシダ社長が好きだなんて、渋いな、と思う。
作中のハヤシダ社長はほとんど存在感がなく、戦艦ハバタキ弐号にも搭乗しない。
リバーサイドカフェのテラス席で優雅にコーヒーを啜り、新聞を読んでいるだけの脇役だ。全話にちらっと登場するくせに台詞はほとんどなく、さしたる見せ場もない。
実はあの人がハバタキの社長だ、と明かされるシーンはあるが、ヒビヤ艦長のインパクトが強過ぎて、ハヤシダ社長の存在はほとんど霞んでいる。
ほとんど陽の目を浴びない制作進行というポジションを体現したような影の薄いキャラクターなので、オフィシャルページに寄せられる感想や手紙はすべて目を通しているが、ハヤシダファンを公言するファンには未だお目にかかったことがなかった。
現実の林田は社内外問わず人望が厚いが、アニメの中ではさっぱり人気がない。
一方の響谷はその正反対で、アニメの中では大人気だが、現実の本人はそれはもう酷いものである。
「こんな感じかな」
「わ、うまーい! 家宝にしますぅ」
媚を含んだ、鼻にかかった声が少し煩わしく思えたが、自分には出せない種類の声質であるから、よけいにそう思うのだろう。
響谷曰く、妃沙子の声はドスが効いているらしい。
樹海の中にいてさえ、響谷との会話は思い出すだに腹が立つ。
アニメ放映中はただでさえ修羅場で、助っ人のアニメーターたちが多数集まってくれたが、作画監督の響谷は気が向いたときにしか原画をチェックしないし、あまつさえスタジオにすらいなかった。
作監不在なので、妃沙子が片っ端から絵の修正をしていた。
「このクソ忙しいときにどこで遊んでるんじゃ、響谷のクソボケ!」と大声で叫ばなかっただけでも、自分で自分を褒めてやりたい。
制作現場は戦場さながらで、それでなくとも苛々は最高潮に達していた。
溜まりに溜まった怒りを響谷目掛けて投げつけたが、反省の色さえないふざけた返答は火に油を注いだ。
「妃沙ちゃんもいちおう監督なんだからさ。もう少しこう、柔らかい喋り方ができないものかね。ドスが効き過ぎてて恫喝してるみたいだよ。そんなんじゃ外部のアニメーターたちが委縮しちゃうよ。怒ってばっかりだと嫁の貰い手がなくなっちゃうよ。ほらっ、妃沙ちゃん、スマーイル、スマーイル」
「喧嘩売ってます? 響谷さん」
「ぼかぁ、事実を陳述しただけだし」
「響谷さんこそ、そのツラでぼくとか言わないでくださいよ。マジで気持ち悪いから」
「顔面差別は感心しないね。ぼくがぼくって言うのはダメで、ハルちゃんがぼくって言うのは良いんでしょう。そんなの理不尽だっ!」
「じゃあ、ヒビヤ艦長にもぼくって言わせます?」
「それとこれとは話が別だよ。プライベートのぼくはフレンドリーさを重視していて、アニメのなかでのぼくは高潔無私な艦長なのさ。妃沙ちゃんはまったく演出というものが分かっていないね」
「……はあ?」
響谷と机を並べたハバタキの社内では日夜、血で血を洗う不毛な応酬がなされており、妃沙子の声はどんどんと険を増していく。
アニメ放送後はいったん沈静化したが、響谷との戦争は継続中だ。
響谷の減らず口にムカつき過ぎて、妃沙子自身が修羅と化す前に、沙梨ちゃん、ハルちゃんの小説家コンビを呼んで女子会をしている。
カフェで美味しそうにアップルパイやプリンを食べているハルちゃんを見るだけで和むし、荒ぶった精神がだんだんと安らいでいく。
妃沙子にとっての春斗は、定期的な服用を要する精神安定剤みたいなものであり、毒物そのものの響谷の毒を緩和する解毒剤だ。
その点、同業のアニメーターである登美彦は安定剤足り得ない。
とにかく描くのが遅いので、「どけ、あたしが描く!」と言ってしまわないよう気をつけるだけでも格段に進歩したつもりだ。どんなにのたのた描いていても、登美彦には登美彦のペースがあるんだし、と思いながら、すー、はー、と深呼吸をする。
テントの中で横になっていると、抗しがたい睡魔が襲ってきた。半日ほど歩きっぱなしだったし、身体の節々が痛い。斜めに傾いだ樹の枝にシャツをひっかけたりして、あちこちすり傷だらけだ。
お気に入りの穴の空いたデニムジーンズを穿いてきたが、倒木を跨ぎ越える際に裂けたのか、穴と破れが増えている気がした。
モバイルバッテリーを借りられたので、スマホの充電は満タンだ。
アンテナが一本だけ立っていたので、眠りに落ちる前に春斗に電話をかけてみたがやはり繋がらず、登美彦も応答がなかった。ラインメッセージも送ってみたが、既読にもならない。
眠っている学生たちに聞こえない程度の小ささで、ちっ、と舌打ちする。
テント内の男子学生二人はごうごうといびきをかいており、明らかに眠っている。女子学生二人も小さな寝息をかいている。
しかし、ハヤシダ社長の絵をねだった娘だけは目が覚めていたのか、もぞもぞと蠢いた。妃沙子の顔の近くにすり寄ってきて、小声で囁いた。
「大塚監督はぁ、霊感とかってあるほうですかぁ?」
「……霊感?」
身体が疲れ過ぎていて、瞼が重い。話は聞くには聞いているが、右の耳から左の耳へと抜けていく。
「……ない、と思うけど」
「えー、そうなんですかぁ。わたしは霊感とかめっちゃあってぇ。大塚監督も霊感とかめっちゃありそうな気がしてたんですけどぉ」
樹海には地縛霊や浮遊霊がいて、霊感が強い人間には「見えて」しまう云々、実はわたしは生まれつき霊感が強くて云々……。
映像演出研究会のメンバーは、地縛霊や浮遊霊が樹海に実在しているのか、その証拠映像を撮影しに来たらしい。もしも実在したら、ホラー映画を撮ろうぜ、という計画だったそうな。
妃沙子はこくりこくりと船を漕ぎながら、「あー、はいはい」と頷いてはいたが、さっぱり興味のない話題だったので、よけいに眠たくなってきた。
本当に霊がいるのなら、ちょっとばかりこの娘の口を塞いでくれ、と思ったが、願いが聞き遂げられることはなかった。
――結論、霊なんていねえ。
あまりにも眠たすぎて、妃沙子の魂も幽体離脱しかかっていた。
いびきをかいて爆睡している男子学生たちが羨ましい。
一宿一飯の義理があるから、完全に無視して眠るのも気が引ける。
眠るのは躊躇われたが、しかし眠い。眠過ぎて朦朧としてきた。
妃沙子はほとんど意識を失い、ひたすら相槌を打つだけの機械と化していた。
今こそ、もう一体の自分が欲しくてたまらない。
「うー、ごめん。あたし、そろそろギブ……」
妃沙子は遂に白旗をあげ、寝落ちするぞ宣言を発令した。
ドスの利いた声は、なるたけ封印中。
「じゃあ、これだけ! これだけ見てください!」
あたしは雪山で遭難したのだろうかと思うほど、肩を激しく揺さぶられた。
ハンディカメラを見せられたが、なんの変哲もない暗闇が延々と映し出されているだけだった。手振れのせいで画面が時に傾いたが、しかし映像自体は真っ黒なので、画面酔いもしない。
「なんにも……映って、ない……と思う……けど……」
迫りくる睡魔と格闘しながら、妃沙子は途切れ途切れに言った。
「映ってますぅ! ここです! ここっ! ほら、見えますよねぇ」
目を凝らしながら見たが、何も映っていない気がした。
「声もありますぅ! 聞こえますよねぇ!」
ただただ暗いだけの映像に、「声」まであるらしい。
そろそろドスの利いた声の封印を解こうかしらん、という考えが頭にちらり過った頃、画面に一瞬、篝火のようなものが横切った。
ほんのりと青白い、鬼火のような怪しげな光が、ゆらり、ゆらり、と左右に揺れている。まったく不規則な動きで、目眩がした。
「見えますかぁ? 見えますよねぇ?」
「……うん、たぶん」
揺らめく鬼火だけならば、まだ驚きはしなかっただろう。
しかし、次の瞬間、画面に映ったものを見て、眠気が一瞬にして吹っ飛んだ。
鬼火の明滅に合わせて、座敷童じみた子供が飛び跳ねている。
ずいぶん遠いので、ほとんど米粒のようなシルエットしか見えないが、最大限までズームにすると、その手に何か棒切れのようなものを持っている。
ぶんぶんと勢いよく振り、風を切る音が聞こえてきそうだった。
耳を澄ますと、微かに話し声のようなものが聞こえてくる。
いや、話し声ではなく、歌い声かもしれない。
「……歌ってる?」
「はいぃ! めっちゃ歌ってます!」
ハンディカメラのボリュームを最大限まで上昇させる。
途切れ途切れだが、歌い声の断片だけは聞き取れた。
抑揚のないしわがれた声が呪文じみたフレーズを唱えている。
「……りー、……ど
……のみち、……ば、
……いで、……すため」
何を言っているのか気になって仕方がなく、何度も何度も聞き返していると、ようやく歌詞の一部に見当がついた。
それは、こんな歌詞だった。
「この道、ずっとゆけば……思い出、消すため」
歌詞が聞き取れてしまった途端、猛烈な寒気が襲ってきた。
妃沙子はぶるりと身を震わせ、思わず両手で身体を掻き抱いた。
顎が震え、上下の歯が接触し、かちかちと鳴った。
「……ふ、ふ、ふーん。ま、まあ、な、な、な、なんかぼんやりと光ってるだけでしょう」
妃沙子は声を上ずらせながら、何も見えなかった風を装った。
「えー、いますよぅ。ほらぁ、ここにぃ。見えませんかぁ?」
いないし、見えないし、聞こえない。
ここは樹海だぞ。
地縛霊なんて、浮遊霊なんて、いない……はず。
いや、ここは樹海だからこそ、もしかしたらいるのか?
いや、いないだろ。いくらなんでも。
頭の中でぐるぐるぐるぐる、霊の存在の有無をめぐって煩悶が続いた。
おかげで、朝が来るまでろくすっぽ眠れなかった。