嘘の日
高槻沙梨
執筆の手を止めた高槻沙梨は、ふと書斎の書棚を見つめた。
高槻沙梨名義の著書は四冊。その隣に、藤岡春斗名義の本が一冊、ほとんど自己主張せず、静かに寄り添っている。
高校在学中でのデビューから足掛け七年で、わずか四冊の遅筆。デビュー当初こそ文壇の偶像だの美貌の女性作家だのと持て囃され、一躍時の人扱いされたが、それも長くは続かなかった。
熱狂はすぐに醒め、夢から叩き起こされると何も書けなくなった。
作品の内容そっちのけで外見ばかりを評価された挙句、権威ある文学賞を受賞し、作品が文学という名の権威を帯びてしまった途端、内容が稚拙だ、世に出すような水準ではない、と酷評された。
書いていること自体はそう変わらないのに、高校生の時に書いた処女作は手放しで称賛され、文藝功労賞作家の金看板がついた三作目は掌を返したように粗探しをされた。
次回作を求められはしたが、書いても書いても編集者から駄目出しをされて、自分の書き方そのものが分からなくなった。
没、没、没、没、没、没……。
書く物すべてが没の海に沈んだ。
高校生の頃は、それこそ息をするように素直に書けたのに、まるで息の仕方を忘れてしまったみたいに、ぴたりと筆が止まった。
私は小説家は向いていないのではないか、という自己嫌悪に陥り、あまりにも書けないから気分転換にアルバイトでもしようと思い立ち、百貨店で服を売ったり、ホテルで給仕係をやったり、セレクトショップで働いたりもした。
けれど、だんだん働くほうが楽しくなってしまい、よけいに書かなくなるという悪循環。
かれこれ四年もの長きにわたって新作が出ぬうち、移り気な世間からほとんど忘れ去られた存在になりかけていた沙梨の傍らには、人知れず、この少年の影があった。
春斗と初めて出会ったのは、沙梨が大学生と小説家を両立していた頃で、春斗はまだ高校生にもなっていなかった。
学校生活に馴染めない少年少女を相手に、ちょっとした講演をしてくれないか、と依頼されたのがそもそものきっかけだ。
集まった子供たちは、ただの学校不適応児ではなく、音楽や芸術、プログラミングといった方面での才能を認められた「異才」という触れ込みだった。
春斗の場合は参加経緯がちょっとばかり特殊で、担任の国語教師が高槻沙梨の愛読者だったらしく、この子は作文が抜群に巧い、とごり押しした結果、特別枠での参加を許されたらしい。
沙梨の二作目『狂った林檎』が文藝功労賞にノミネートされており、その話題性もあっての依頼であったため、メディア関係者も多く詰めかけていて、講演後の質問は賞に関するものばかりだった。
変わり映えしない質問に当たり障りないことばかり答えていると、メディア関係者が蜘蛛の子を散らしたように去り、会場にほとんど人けがなくなった頃、春斗がおそるおそる近寄ってきた。
猫っ毛の小柄な少年は、明らかに人に馴れていない小動物のようだった。
「……あの、高槻先生」
声が震え、ぼそぼそと聞き取りづらい。
「ぼくは先生の見る世界が好きです。先生の描く世界が好きです」
事前に覚えてきた脚本の台詞を読むみたいに棒読みで、目を合わせるのが恥ずかしいのか、顔も伏せたままだった。
あの言葉が本心だったのか、それとも担任の先生にそう言え、とあらかじめ指示されていたものなのかは分からない。
それでも、好感が持てた。
言葉は丸っきり借り物だったとしても、態度は隠しようもなく、本音のように感じたから。
「ありがとう。嬉しいです」
ごくごく素直に微笑むと、少年はようやく顔をあげた。
「ぼくも高槻先生みたいに書けるようになりたいです」
混じりけのない、憧れの目にすっかり射抜かれてしまった。
この子が本気で小説家を志しているのかまでは読み取れなかったが、素直に、伸び伸びと書いていた頃の自分と重なって見えた。
この子は、私だ。
かつての私。
率直で、剥き出しだった時の未熟な私。
誰に非難されようと、この子を失望させるような物語だけは書くまい、と思えた。稚拙であろうと構わない。汚れのない純粋さを傷つけるような救いのない物語だけは紡ぐまい、と心に誓う。
「じゃあ、これ」
沙梨の顔を直視できないでいる、シャイな少年の手に握らせた。
「私の電話番号です。なにか書くことで困ったことがあったら連絡してね」
ノートの切れ端に走り書きした11桁の番号。
「君の番号も教えてくれるかな」
少年の連絡先を訊ねると、はにかみながら教えてくれた。
「名前も教えてくれる?」
「藤岡です。藤岡春斗」
ふ、じ、お、か、は、る、と。
小さく呟きながら、ゆっくり文字を入力した。
会話が絶えて、沈黙の帳が降りた。
もう少し喋っていたかったけれど、そろそろ別れる頃合いでもあった。小さく微笑んでから沙梨が踵を返そうとすると、少年は引き止めるような素振りをした。
「……あの、大学って楽しいですか」
沙梨の心を見透かしたような率直な問いかけには面食らった。
だから、思わず本音を漏らしてしまった。
「楽しくは……ないかな」
そう言うと、少年は小首を傾げた。意外だったらしい。
「とにかく次のお話が書けなくて、書いても書いても全部ダメなの。本当に書けなくなったら、相談に乗ってもらおうかな」
泣き言にならないよう、笑いながら言ったのはせめてもの強がりだった。冗談めかして言ったが、社交辞令でもない。
少年が高校を卒業するまで、付かず離れずの関係になった。
沙梨が溜めに溜めた没原稿の山を春斗が読み、次の話はどうしようか、と他愛ないおしゃべりに興じる、ただそれだけの慎ましい関係。
月に一回ほどの逢瀬は、誰に知られることもなく続いた。
その間、春斗は小説を書いている素振りなど、これっぽっちも見せなかった。
でも裏でこそこそ書いていて、春斗が高校三年の夏、沙梨に内緒で応募した短編が文藝心中社の主催する文藝海新人賞の最終選考に残った。
その応募作は、あまりにも高槻沙梨に文体が酷似している、と編集部で話題になり、担当編集者に春斗との関係を洗いざらい吐かされた。
春斗の作品を手直ししたこともなければ、そもそも書いていることさえ知らなかったが、しばらくの間、接触を禁止された。
師匠の助けを借りず、弟子は一人でもやっていけるのか、それを見極めたかったようだが、春斗に特別何かを教えたつもりはない。
最終選考での落選にもめげず、春斗は翌年、独力で新人賞を勝ち取った。
高槻沙梨に文体が似ている、という指摘を嘲笑うような、似て非なる意欲作を読み耽るうち、幼かった子供が巣立っていく親にも似た、誇らしい気持ちになった。
ホテルで給仕係のバイトをしていた頃、二歳年上の大塚妃沙子と知り合った。私立の美大に通っているため万年金欠で、賄い付きのバイトなので食費が浮く、という理由で、妃沙子はがっつり週五日働いていた。
姉御肌の妃沙子はいろいろと親切にしてくれて、「実は小説を書いていて」と吐露すると、「じゃああたしが小説の表紙描く」などと言って内輪で盛り上がっていた。バイトを辞めてから親交は絶えたが、四年ぶりの新刊が出たのを機に連絡がきた。
妃沙子の勤めるアニメーションスタジオを舞台にした物語を考えてほしいと頼まれ、プロットの得意な春斗を連れて行くと、その日のうちに『ハバタキのキンクロ旅団』の原案が出来上がった。
「沙梨ちゃん、この子凄いね」
「うん。そうでしょう」
「また女子会しようよ、ハルちゃん込みで」
定期的に妃沙子と女子会をし、お互いの自宅を行き来するような仲になり、そこにちょこんと春斗が混ざる格好となった。妃沙子は少々酒癖が悪く、酔っぱらうと「ハルちゃんとの仲はどうなの?」と訊ねてくる。
どうもこうもなく、春斗は可愛い弟分であり、小説の種をくれる妖精さんだ。
精神的な絆はあるけど、恋人というわけではない。
妃沙子が春斗を連れ出す時は、「ハルちゃん借りてもいい?」とわざわざお尋ねしてくるが、内心はちょっと複雑だ。
沙梨のいないところで、いったい春斗と妃沙子はどんな会話をしているのだろうかと思うと、自分だけ除け者にされた気がする。
執筆時は集中が削がれないよう、スマートフォンの電源はオフにしてある。ただ、なんとなく胸騒ぎがしてスマホを眺めると、着信履歴に大塚妃沙子の名がずらりと表示されていた。
なにか、ただ事でないペースで電話が鳴らされている。
慌てて折り返すと、いつになく憔悴した声が応じた。
「ごめん、沙梨ちゃん……」
「どうしたんですか?」
「ハルちゃん、いなくなっちゃった」
事の重大さがいまいち伝わってこないが、妃沙子が補足のように付け足した言葉に、すっかり肝が冷えた。
「今、樹海にいるんだけど」
懺悔するような声は、嗚咽交じりだった。
「ごめん。それだけ。充電ヤバいから切るね」
通話はぷっつりと途絶えた。
……樹海?
いったい何事かと思ったが、カレンダーを見て合点がいった。
四月一日、嘘の日だ。
原稿の〆切があるのに人騒がせだな、と思いつつ、再びスマホの電源をオフにした。