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線上のキンクロハジロ  作者: 神原月人
セーサク、シンコー
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青い鳥と波動砲

奥野登美彦

 大塚妃沙子は、アッシュブラウンの髪をざっくりとまとめただけのポニーテールを振り乱しながら、ずんずんと樹海の奥へと進んでいった。登美彦の手を払い除けると、猛る競走馬のような勢いで、苔むした溶岩を軽やかに飛び越えていく。


「遅いのよ、団亀! ちんたらしてんじゃないわよ」

「ちょっ……、妃沙子先輩。待ってください」


 目印となりそうな地形をしっかり記憶しながら、注意深く進んでいた登美彦は、情けない声で妃沙子に呼びかけた。久方ぶりの団亀呼ばわりに、入社当時の鬼神ぶりを思い出し、思わず「妃沙子先輩」と呼んでしまった。


 見失わないよう必死に妃沙子の後を追ったが、職業柄、圧倒的に運動不足のせいで、すぐに息があがった。登美彦は脇腹を押さえながら、ぜえぜえと荒い息を繰り返した。


 妃沙子とて、運動不足には違いないはずだが、可愛い弟分である春斗の身の危険と見るや、非常時モードのスイッチが入ったようだ。


 作画監督兼プロデューサの響谷の言によれば、「妃沙ちゃんは元ヤン」とのことで、拭いがたい特攻服疑惑がある。


 ハバタキ入社以前の過去を語りたがらない妃沙子は、「ど田舎で絵ばっか描いてただけっすよ」と一蹴したが、響谷を睨みつけた目は、まったく笑っていなかった。


 凄まじい目力に、社内の空気は一瞬にして凍りついた。


 蛇に睨まれた蛙状態の響谷は、「おー、こわっ。修羅場になると、血が騒ぐんだね」とまた余計な一言を繰り出し、殺意を帯びた目を向けられると、尻尾を巻いて逃げていった。


「さわらぬ神に祟りなしだよ、くわばら、くわばら」と、ついでのように付け加えていたのは、妃沙子の耳に届いていないことを願う。


「妃沙子さん、待ってください。逸れたら危険です」


 どんどんと遠ざかっていく背中に静止を呼びかけるが、その差は埋まることなく、むしろ遠ざかるばかりだった。徒労感はいや増すばかりで、ざわめく樹々がやけに不吉なものに思えてきた。


 (トラップ)のように張り巡らされた樹の根は、竜がとぐろを巻いたようにうねっている。前を向いて妃沙子を追いかけたいのに、足元を見ていなくては、すぐ転んでしまいそうだった。


 独断専行の響谷は樹海に到着した途端から姿がなく、春斗は小説妖精さながらにぷっつりと消え、妃沙子は樹々を薙ぎ倒さんばかりの猛烈な勢いで直進していく。徐かなること林の如く、動かざること山の如しの林田は、優雅に社用車の中だ。


 なんと足並みの揃わないチームだろうかと思うと、暗澹たる気分だった。ひとまず林田社長に現状を報告しようと、小走りしつつ、電話をかけた。しかし通話中であるのか、かからない。


 そうこうしているうちに、妃沙子の背中まで見失ってしまった。


「くそっ……」


 毒づいた途端に、林田がゆるりと応答した。


「どうした? なんか、くそ、とか聞こえたけど」


 くだけた声に、思わず脱力してしまう。


「すみません」

「なんだよ、どうした? なにかあったのか」


 登美彦が苛立ちを露わにしたのがよほど珍しかったのか、林田の声が一気に緊張感を孕んだものに変わった。


「すみません、バラバラになりました」


 くねった根っこを避けながらだったので、ずいぶん端折った説明をしてしまった。そのせいで、よけいに不穏な空気が伝わってしまったらしい。林田の声は、先にも増して警戒の色を帯びた。


「一旦落ち着こう。何があった?」


 とりあえず深呼吸するように言われ、登美彦は言われるがままに息を大きく吸い、それから吐き出した。酸欠状態だった胸郭に新鮮な空気が満ちると、失われていた冷静さがだんだん戻ってきた気がした。


「春斗君の姿が見えなくなりました。妃沙子先輩とさっきまで一緒にいたのですが、春斗君を探しに行ってしまって、見失いました。響谷先輩は最初から単独行動だったので、居場所不明です」


 登美彦が淀みなく報告を終えると、林田は即座に言った。


「分かった。なんとかする。奥野君、きみは戻って来れるかい?」


「大丈夫です。駐車場への帰り道は記憶しています」


「そうか。ある程度探しても見つからなかったら、無理せずに戻っておいで。くれぐれも深入りしないように」


 状況は何ひとつ好転したわけでもないのに、林田の「なんとかする」という力強い一言を聞いただけで、本当になんとかなるような気がした。


 通話を終え、登美彦は決然とした面持ちで前を向く。


 どうにも雨が降ってきたようだが、樹冠が遮ってくれるおかげで、ほとんど濡れはしなかった。


 しかし、足場が悪いのはいかんともしがたい。


 入り口すぐのトレッキングコースは、歩きやすいように整備され、行く先々に案内板が設置されている。だが、ひとたびルートを外れると、あっという間に緑の海原に飲み込まれる。


 性格上、妃沙子はとにかくまっすぐに進むだろう。


 一方で、ひねくれた性格の春斗が素直にまっすぐに進むとは思えない。どちらを優先すべきか迷ったが、まずは妃沙子と合流すべくまっすぐに進み、周囲に春斗が潜んでいないか、見渡すことにした。


 しばらく二兎を追ってはみたものの、どちらとも視界には入ってこない。雨脚が強くなってきたようで、樹冠の切れ間から殴りつけるような雨が降り落ちてきた。


 雨から身を守るように手をかざすと、頭上から「ジェー、ジェー」と耳障りなしわがれた声が響いた。いったいなんの声かと驚いた登美彦は、周囲に視線を巡らせた。


 亡霊のようにひっそりと聳える(つが)の枝に、声の主が留まっていた。


 登美彦を小馬鹿にするように、ぴょこん、ぴょこんと跳ねた。


 枝先に向かって、とっ、とっ、とっ、と踊るように進む。


 小ぶりな鳩ぐらいのサイズで、どことなく意地悪そうな目をしている。黒ずくめのキンクロハジロは見るからにふてぶてしく、人目を惹くような美しさに欠けるが、枝上の鳥は見るだに美しかった。


 目の周りと尾は黒く、全体的に紫がかった暗褐色をしているが、翼の外縁部が鮮やかな瑠璃色で、煌めく宝石のようだ。


 清澄庭園で初めてキンクロハジロを見かけ、その名前を知るべく、深川図書館で野鳥図鑑を片っ端から眺めたが、こんなにも美しい鳥を見かけた記憶はない。


 妃沙子と春斗を追いかけるのを忘れて、つい魅入ってしまった。外見に似合わぬしわがれた悪声が少々残念であるが、キンクロ旅団の新メンバーにしたらどうだろうか、などという考えが浮かんだ。


「何ていう名前の鳥なんだろう」


 誰に問うでもなく、登美彦が呟くと、美しい青い鳥が(さえず)った。


「コケタラクビヲククルシカナイネ」


 持ち前のしわがれた声とはまったく違い、オウムや九官鳥が人間の声を物真似しているようだった。


「……は?」

「コケタラクビヲククルシカナイネ」


 青い鳥はもういちど繰り返すと、唾でも吐きかけるように砲撃音を轟かせた。


「ゥゥゥウウウ、ズゴゴゴゴォゴゴゴゴォォオオオオ……」


 腹に響く重厚な音は、さすがに聞き間違いようがなかった。


 メカ担当の響谷の描いた、ハバタキ弐号の「波動砲」の効果音だ。


 響谷と犬猿の仲である妃沙子評によると、現実の響谷は、肉体はぶよぶよに崩壊し、人格はさらに致命的に崩壊している中年オヤジであるが、アニメの中では威厳ある艦長として描かれている。


 しかし、理想は脆くも崩れ、虚飾の剥がれた現実が顔を出す。


 虚構のヒビヤを消し去り、現実の響谷に戻させる契機となるのが、ハバタキ弐号に実装された波動砲だ。ひとたび波動砲をぶっ放すと、ぐにゃりと線が歪み、次元歪曲が起こる。


 通称、「作画崩壊」。


 またの名を「ヒビヤ緊急出撃(スクランブル)」。


 作画崩壊が起こると、ハバタキ弐号のプラモデルを持って眠っていたヒビヤ艦長は、作画机の上で、はたと目覚める。


「地球か、何もかも皆美しい」


 決め台詞の後、ばたりと力尽き、締め切りに追われる現実の制作現場に戻る、というのが『ハバタキのキンクロ旅団』の基本構成だ。


 本来、作画崩壊などあってはならぬことであり、アニメ制作会社にとっては不名誉の極みであるが、深夜帯で放映スタートした同作は初回からヒビヤ艦長が波動砲をぶっ放し、豪快に作画崩壊する、というシュールな展開が評判となった。


 心血注いで作ったアニメが広く愛されるのは制作者冥利に尽きるが、視聴者に「樹海の鳥」がいるとは思ってもみなかった。


 アニメの名シーンを再現する鳥なんて、いくら何でも珍妙過ぎる。


 登美彦が驚愕の眼差しを向けると、賢しげな青い鳥はもう一丁とばかりに、波動砲の効果音を轟かせた。


「ゥゥゥウウウ、ズゴゴゴゴォゴゴゴゴォォオオオオ……」


 青い鳥は、くいっと顎をしゃくると、付いてこいよ、とでも言うように登美彦を誘った。


「ジェー、ジェー」


 煌めく瑠璃色の翼に魅入られた登美彦は、ふらりと後を追った。


 名前も知らない青い鳥を追いかけたが、しばらくすると幻のように消えた。無防備に樹海に足を踏み入れた人間を惑わすような声が、いつまでも、いつまでも耳に残り続けた。

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