青いマフラーのカケス
藤岡春斗
ぐぎゅるるるるる、るるる、る……。
お腹の虫が活発に騒ぎ出し、だんだん瞼が重くなってきた。
スマホの充電が切れているので、正確に今何時かは分からないが、おおよその眠気具合からして、午後の三時だろうと見当がついた。
高速道路のサービスエリアで肉うどんを食べてから、それっきりなにも口にしていない。それに喉も乾いた。まさか樹海で迷子になるなんて予想もしなかったから、こんなことなら腹持ちの良いカツ丼でも食べておけばよかったな、と後悔する。
春斗は、ふう、と物憂げな溜息をつき、緑に覆われた空を眺めた。
青い空も、白い雲もなく、世界は古色蒼然たる緑と茶色に占拠されている。どこもかしこも色褪せた緑と茶色ばかりで、目にも鮮やかな色は存在を許されないかのようだ。
なんともなしに退廃的な色合いばかりに囲まれていると、精神もついつい低空飛行になる。生憎、もともとのテンションが低いので、これはこれで意外と心地よかった。
さっきから雨がぽつぽつと降り出したようで、静かな雨音だけが聞こえてくる。雨は樹々の天井に遮られ、春斗の身体を濡らすことはなかった。
歩き疲れた春斗は、蛇がうねうねとくねったように折れ曲がった、奇怪にカーブした樹の根っこに腰を下ろした。座ってみて、ごく自然に視線が下がったからか、樹の根が剥き出しになって、網の目のように複雑に絡んでいるのに気がついた。
歩いているときは、こけないように注意するだけだった。
「へえ、不思議……」
樹の根っこは土に埋まっているものである、という思い込みがあったが、樹海の樹の根ははっきりと地上に露出し、周囲の樹の根と相互に連絡し合っている。いつの間にか再開発が進んで、さながら地下迷宮のようになった、東京駅周辺の地下通路のようだ。
なんで根っこがこんなにもくねり、地面に露出しているのだろうかと考えると、そもそも樹海には「土」がないことに思い至った。
あるのは、苔の生えた岩ばかり。まともな土がない。
土がないから根っこは大地に根を下ろせず、横方向にくねるしかない。だけど行く手には固い岩があって、それらを迂回しなくては根を伸ばすことができない。そのため、よけいにぐねぐね曲がる。
なるほど、樹海の樹々の根がかくも偏屈に折れ曲がっているのは、岩ばかりの環境のせいなのか、と思うと、妙に腑に落ちた。
樹の根が地下通路だとするならば、聳える樹々は高層ビル群だ。
ひとたびそういう目で見ると、樹海の樹々はいっそ不自然なほど、高さが均一に揃っている。飛び抜けて高い樹も、低い樹もない。
高さ制限を設けられた建築物みたいに、ほぼ一定だ。
これが人間であれば、背の高い、低いは、はっきりと存在する。
春斗は幼稚園児の頃から、背の順では常に先頭だった。同い年の子供でさえ、発育にはひと目で分かるほどの差が生じるのに、樹海の樹々には、こと「身長」の面では、さしたる差異がない。
なぜこうも樹の高さが揃うのだろうかと思うと、不思議だった。
「まあ、だからどうしたって感じだけど」
春斗は半笑いを浮かべながら、独りごちた。
どうでもいいことばかり気になるのに、樹海からどうやって脱出するか、という根本的な問いからは目を逸らしている。
百貨店の迷子センターみたいなものが樹海にもあったらいいのに、とぼんやり思ったが、いざアナウンスされたら、それはそれで気恥ずかしい気もした。
「ピンポンパンポン、樹海にお越しのお客様に迷子のご案内をいたします。クリーム色のパーカーを着た藤岡春斗君のお父様、お母様、春斗君を保護しておりますので、至急迷子センターまでお越しください。繰り返します、大学生の藤岡春斗君が……」
脳内にこっぱずかしいアナウンスが流れ、鏡なんかなくても自分の顔が赤面していることがよく分かった。
迎えに来るのは、父でもなく、母でもない。沙梨先生だ。
しょうがないなあ、という顔をして、目尻を優しく下げながら、実の母親よりもよほど母親らしく、迎えてくれるのだ。
沙梨先生の顔を見た途端に童心に返り、心ならず肉体までも幼稚化し、ふっと安心して大粒の涙をこぼし、人目も憚らずに泣きじゃくるのがオチだ。
迷子になって、迎えに来てくれた保護者に慰められて泣くなんて、そんなことが許されるのは、せいぜい小学生までだろう。
「ところで、春斗君はいくつになったんだっけ?」
そんな無慈悲なことを沙梨先生は決して口にはしないだろうけど、たぶん、心の奥底では思っているのだ。
中学生の頃から、いつまでも成長しない子だな、と。
いまだに中学生に誤認される童顔も、沙梨先生と変わらぬ高さの身長も、お子様扱いされる要因であり、そういう外見部分は、もうどうしようもない。
でも、せめて頭の中身は、特に小説を書くという一点に関しては、沙梨先生と過ごした四年間のうちに、ちょっとは成長したはずだ。
沙梨先生の背中に追いついて、出来ることなら並んで歩きたいのに、その部分の成長さえも認められないならば、もう本気でどうしようもないので、大人しく首を括る。
ふと見上げれば、首を括るのに手頃な樹が無数にある。どれもこれも高さはほとんど同じだ。差がなさすぎて、選びようもない。
「春斗君、どうして迷子になったの?」
沙梨先生の胸に抱かれているのは、幼稚園児サイズにまで退行した幼い春斗だった。ようやく泣き止み、ぐすぐすと鼻を鳴らした。
あくまでも脳内映像であるはずなのに、音質も映像もやけに鮮明で、現実にこんなことがあったのだと思えてくる。
「あのね、カケスを見たの」
「……カケス?」
この嘘吐き小僧め、と脳内映像に突っ込みを入れた。
たしかにカケスは見たが、迷子になったのは、たんに尿意をもよおしたからだ。不思議の国へと誘う白ウサギを追いかけるように、カケスを追って、樹海深くに迷い込んだわけではない。
「目がぐりぐりしてて、頭がギザギザしてて、青いマフラーをしてたの。追いかけたら、ジェー、ジェー、って鳴いたんだよ」
なんだか語彙力まで幼稚になっている気がしたが、脳内沙梨先生はひたすら聖母のように微笑んでいる。
「へえ、青いマフラーかあ。素敵な表現だね」
翼にある、鮮やかな青い縞模様のことを言っているのだろうが、いかんせんその他の描写が子供っぽ過ぎる。小学生作文コンテストならば入選しそうだが、小説家としてはあっさり落第だろう。
「春斗君、どうして樹海になんて行ったの?」
沙梨先生の声音が、わずかに叱責の色を帯びた。
「ごめんなさい」
半べそをかきながら謝るも、沙梨先生は許してはくれない。
「どうして樹海になんて行ったの?」
「それは……」
ぼくもよくわからない、と言いかけたが、途中で止まった。
幼い春斗は不満げに唇を尖らせて、ぷいっと視線を逸らした。
「こらっ、ちゃんとママに言わなきゃだめでしょう」
「……ママ?」
五歳しか離れていないはずなのに、どうして沙梨先生が「ママ」になっているのだろう。もしかして両親が離婚して、父さんが沙梨先生と再婚したという設定なのだろうか。
いろいろと謎過ぎて、頭の中で考えていたことが一気に吹き飛んだ。
なにも答えられないでいると、沙梨先生が悲しそうな顔をした。
「春斗君は私のこと、お母さんと認めてくれないのね」
なんだこれ、子連れ再婚の設定なのか、と思い至ったが、言葉がうまく出てこない。幼い春斗は、取り繕うように口をぱくぱくさせている。頭に渦巻く単語の群れが素直に声にならず、もどかしい。
沙梨先生は沈鬱な表情をしており、なにか言わなきゃ、なにか言わなきゃ、と気ばかりが急いた。
「コケタラクビヲククルシカナイネ」
春斗は、まるで呪文でも唱えるように早口で言った。
「……え?」
「コケタラクビヲククルシカナイネ。コケタラクビヲククルシカナインダカラ」
沙梨先生が首を傾げた。頑張って伝えようとしたのに、うまく伝わらなかったのがショックだったのか、幼い春斗はぎゃんぎゃんと泣きわめいた。
――コケたら首括るしかないね
――コケたら首括るしかないね
――コケたら首括るしかないね
樹海を形成する樹々、一本一本がざわざわと揺れ、幼い春斗の口を借りて言わせたかのようだった。