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線上のキンクロハジロ  作者: 神原月人
セーサク、シンコー
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絵も描かず、音も作らず、色も塗らず

山川林田

 林田は、飲み終えた缶コーヒーを捨てにライトバンから降りた。


 樹海のトレッキングルートはいくつかあるようだが、西湖コウモリ穴案内所前の駐車場は、鄙びた観光地のように閑散としていた。


 撮影用機材がごちゃごちゃと乗せられたワンボックスカーが一台、停まっているきりだ。車内をちらりと覗いたが、無人だった。


 ゴミを捨てるついでに案内所脇のトイレに立ち寄ると、スマートフォンが振動した。着信音を聞くだけで、「仕事用案件」と分かる。


 発信者名(ネームディスプレイ)を見ると、付き合いの浅いアニメ制作会社からだった。


「はい、林田でございます」

「大塚さんをお借りできますか? スケジュールがかなりタイトなんですけど、なる早でお願いしたく」


 いきなり用件を切り出した先方は、大慌ての口調だった。


 スケジュールが押しに押しているのは、余裕のない声音を聞くだけで十分に推し測れた。


 おそらくは藁をも掴む思いで、速筆ぶりに定評のある大塚妃沙子を臨時の傭兵として貸し出してはくれないか、という依頼だった。


 電話をかけてきたのは、まだ駆け出しの若い制作進行であり、力を貸してやりたいのはやまやまだったが、あまりにもスケジュールに余裕のない仕事を受ければ、共倒れになる。


 しかし、無下に断るのも気が引ける。


 一応のところ、どんな依頼なのかを訊ねると、宇宙空間での戦艦同士の戦闘シーンを描いてほしいのだという。


 期日は、一週間以内厳守。早ければ、早いほど良し。


 聞いているうち、リサーチ不足だな、と思った。


『ハバタキのキンクロ旅団』には、ハバタキ弐号という戦艦が登場するが、メカ関係を描いているのは妃沙子ではなく、響谷である。


 妃沙子はメカニックな絵は得意でもないし、好きでもない。どんなにスケジュールに余裕があろうと、この依頼は受けはしない。


「申し訳ございません。大塚は現在、休暇をとっております」

「どちらにいらっしゃるのでしょうか?」


 よほど切羽詰まっているらしく、しつこく食い下がった。


 お宅の傭兵は今どこにいるんだ、という問いかけに、まさか素直に「樹海です」と応じるほど、軽率ではない。


「山梨県の方だと聞いております。ご依頼があったことは伝えておきますが、ご期待には沿えないと思います。申し訳ございませんが、他のアニメーターに依頼してください」


 やんわりと通話を終えると、すっかり喉が乾いてしまった。


 自販機でお代わりの缶コーヒーを買い求め、その場で飲み干す。車中に戻ると、樹海の入り口にいるからか、妙な胸騒ぎを覚えた。


 作品制作中に、制作進行が行方不明になることを「飛ぶ」と言う。


 そう頻繁にあることではないが、山川の一件がまさにそれだ。


 さっきの若手も精神的に追い詰められて飛びはしまいかと思うと、だんだん心配になってきた。


 もう山川のような犠牲者を出してはいけない。


 樹海は、山川の生を飲み込んだ、忌々しい魔の森だ。


 この森を舞台に、いったいどんな物語を描けるのだろうか。


 劇場アニメ化のためとはいえ、林田は迷っていた。


 樹海を舞台にすることを条件に、出資を受けたことが正しかったのか、今でもよく分からない。


 制作資金の目途がついたのは僥倖だが、樹海という「異界」を、物語世界の中でどう生かせばいいのか、見当もつかない。


「まあ、それは俺が考えることではないか」


 林田は自嘲気味に呟くと、ブリーフケースから一枚のポスターを取り出した。


 富士山と精進湖の間に広がる樹海を空撮した風景に、「こんなに美しいなんて知らなかった。」という惹句が掲げられている。


 樹海という言葉から想起されるようなおどろおどろしさは微塵もなく、雄々しい富士山、緑にうねった樹々の海は、目を瞠る美しさだった。


 自殺の名所という汚名を返上するため、山梨県福祉保健部が制作したもので、自然が美しいというプラスのイメージを浸透させたい、という狙いもあるようだ。


 福祉保健部の担当者から「樹海を舞台にアニメを作れないか」と、口頭で打診されたとき、林田は吟味することなく断るつもりだった。


 依頼内容も聞かずに断るのも失礼に当たるので、ひとまず詳細を伺うと、ハバタキ宛てにポスターと手紙が送られてきた。


 依頼文冒頭には「青木ヶ原樹海のイメージアップアニメの制作」と記されており、末尾に「福祉保健部障害福祉課・心の健康担当」と添えられていた。


 樹海のイメージアップのためになどアニメは作らないぞ、と鼻白んだが、真摯な語り口の本文を読んで気が変わった。


「自殺や自殺未遂は、本人にとって悲劇であるだけでなく、家族や周りの人々に大きな悲しみと生活上の困難をもたらし、社会全体にとっても大きな損失となります。


 本県の自殺者数は、市町村や関係機関、民間団体の地道な取り組みにより、減少傾向にあるものの、いまだに毎年百名を超える方が尊い命を自ら絶たれるという、誠に痛ましい状況となっています。


 本県では、これまで自殺防止対策として、普及啓発活動や人材の育成・確保、ハイリスク地対策に取り組んでまいりました。


 ハイリスク地対策の一環として、これまで行ってきた青木ヶ原樹海のイメージアップをさらに強化していくため、樹海の魅力を十分に伝えることができるポスターを作成し、正しいイメージの定着を図り、自殺者の減少につなげていきたいと考えております。


 つきましては、ポスター作成の主旨をご理解いただき、重ねて、樹海を舞台にしたアニメーションの制作をお願い申し上げます。」


 担当者との打ち合わせをすべく、山梨県福祉保健部を訪ねると、驚きの出会いが待っていた。


 林田を待っていたのは、死んだはずの山川と生き写しの男だった。


 十年以上も前に死んだはずなのに、まったく老けた様子もない。名刺交換をする手が止まり、狐につままれたような気分だった。


「まさか、山川なのか?」


 死んだはずの男が生きていた、という衝撃は、林田から冷静さを奪い去った。山川と生き写しの男は頷き、わずかに微笑んだ。


「山川安吾と申します。慎吾は私の兄です」


 兄とはひと回り年齢が離れている、と聞いた。


 それにしても、記憶の中にある山川の姿形、話し方、声まで何もかもがそっくり過ぎて、本人が弟の名を騙っているのではないのか、と訝しく思ったぐらいだった。


 山川が生きていた、と勘違いした衝撃が強過ぎて、打ち合わせの際にどんなことを話したのか、ほとんど覚えていない。


 肝心の製作費は後回し、ともかく樹海を舞台にしたアニメを作る、ということだけは合意して、固い握手を交わした。


「どのような物語にするか、持ち帰って検討いたします。制作費については、仮の脚本ができてから、またご相談させてください」


 ひとまずそう伝えたが、林田の頭の中には何の青写真もなかった。


 今でこそ社長という立場だが、実際にやっていることといえば、相も変わらず、泥臭いばかりの制作進行だ。


 何はともあれ、制作を円滑に進行させるのが役割であり、本人は絵も描かず、音も作らず、色も塗らず、物語を紡いだりすることもない。


 そういう創造的(クリエイティブ)なことは、すべてお任せだ。


 強いて言うならば、山と川、林と田んぼだけは揃っている。

 あとは、海と空があれば完璧だ。

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