歌われない英雄
山川林田
ハバタキの社長である林田は、社用車のライトバンの後部座席をリクライニングさせ、さして旨くもない缶コーヒーを啜っていた。
コーヒーを飲むならば、スタジオのお隣にある『リバーサイド・カフェ』の一杯に限る。
元々、林田はコーヒーの味になど頓着していなかったが、若かりし日に大手アニメーションスタジオで制作進行として働いていた頃、同期で、同職の山川慎吾に「豆がどうの」「産地がどうの」と、やたらに細かくコーヒーのイロハを教わったのが、コーヒーを愛飲するようになったそもそものきっかけだ。
山川もまた、コーヒー好きのベテラン監督にあれこれと教わったものを、そっくりそのまま林田に伝えた格好だったようだ。
初対面の際、林田が自己紹介すると、「山と川、林と田んぼ、あとは海と空があれば完璧だな」と言って、快活に笑った。
お互い忙しく、それほど密に情報交換していたわけではないが、裏表のない、気持ちの良い男だった。
分業制のアニメ制作において、全工程の調整役となるのが「制作進行」というポジションだ。絵も描かず、音も作らず、色も塗らないが、各セクションのスケジュールをたった一人で管理している。
制作進行のおかげで遅滞なくアニメーションが作られ、制作進行の能力次第で作品のクオリティが劇的に変わる。
原画が遅れる、作画監督からカットが出ない、背景があがらない、作業担当者に連絡が取れない、アニメーターが風邪を引いた、通勤中に事故に遭ってしばらく入院、彼女にフラれ、さっぱりテンションがあがらない、といった山のように発生するアクシデントすべてに適切に対処し、スケジュール通りに現場が動くように管理するのがもっぱらの仕事だ。
アニメーションは集団創作である以上、クリエイター一人一人の性格や作風を知るのはもちろん、お菓子の好みや服装まで把握し、普段はどんな作品が好きで、将来どんな作品を作りたいのかをきちんと把握しておかなければならない。
制作進行は車の免許さえあれば誰でもできる業務だ、などと軽んじられることが多いが、なかなか胃の痛い仕事である。いわば裏方中の裏方であり、その苦労は経験したものにしか分からないだろう。
銃弾こそ飛び交わないが、アニメ制作の現場は、紛うことなき戦場である。ほとんどのアニメーターは、その都度集める「傭兵」ないしは「軍隊アリ」のようなものだ。
傭兵たちを束ねる制作進行は、陰に陽に、あらゆる下働きを求められる。現場を支える縁の下の力持ちであり、あくまでも黒子役。
決して陽の目を浴びない、歌われない英雄。
ひとたび制作が滞れば、貶されこそすれ、褒められることのない職務に就く者同士、山川とは戦友のような絆で結ばれていた。
山川は入社以来、精力的に仕事をこなしていたが、ある時期から顔色が冴えなくなった。明らかに寝不足のどす黒い顔をして、ふらふらになっているところに出くわしたが、そんな不健康な人間ばかりの環境に染まるうち、山川が全身から発していた危険な予兆を嗅ぎ取ることが出来なかった。
「なあ、林田。俺が今ここで倒れたら、迷惑がかかるよな」
「お前、疲れてるな。ちょっとは休めよ」
気休めを口にすると、山川はそれっきり神妙な面持ちで黙りこくった。奇妙な沈黙が続いた後、やけに晴れやかな表情に変わった。
「そうだな。サンキュー、林田。俺、ちょっと休むわ」
それが、あいつの最後の言葉だった。
翌日未明、山川はふらりと消息を絶った。
一人暮らしの自宅には、手書きの遺書が残されていた。
文面は簡潔そのもので、「誰にも迷惑をかけない場所にいきます」とだけ記されていた。
本棚には『完全自殺マニュアル』があり、とあるページに付箋が貼られていた。
――誰にも迷惑をかけずに死にたいなら、富士の樹海が最適
たしか、そんな旨の内容だった気がしたが、細部まで目を通したわけではない。胸くそが悪くなって、本を床に叩きつけた。
山川はひっそりとこの世から消え、遺体はいまだ見つかってはいないが、社会的には死亡者として扱われている。
死に向かうことを決めた最大の理由は、「過労」だとされた。
漏れ聞くところによれば、月に六百時間働いていたこともあったらしく、一ヵ月の全時間がどれほどか、思わず計算してしまった。
痛ましい事件が起こった後も、アニメ業界を取り巻く職場環境はほとんど是正されておらず、作品ごとに無謀なインパール作戦を敢行するかのような、玉砕辞さずの体質がすっかり改められた、とは思えない。
林田は、金気臭いコーヒーを啜り終えると、窓の外に目を向けた。
「なんで好きなものを作っている人間が死ななければならないんだろうな」