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線上のキンクロハジロ  作者: 神原月人
セーサク、シンコー
34/100

隠れハルちゃん

奥野登美彦

 ハバタキのアニメーター・奥野登美彦は、コンパス片手に樹海のトレッキングコースをうろうろしていた。

 一歩、また一歩と歩くたびに、スマホに内蔵された電子コンパスとのずれを確認してみるが、ほとんど差異は生じなかった。

「なにやってんの、登美彦」

 ハバタキの誇る“神絵師”こと、大塚妃沙子が胡乱げな目を向けてきた。

 そういう妃沙子は、愛用のクロッキー帳に樹海の風景を速写しまくっており、早くも劇場アニメの舞台となる構図を頭の中に膨らませているようだ。

「樹海って、コンパスが狂うって言うじゃないですか。ほんとうに狂うのかな、と調べています」

「うわー、地味なことしてんのね」

 スケッチの手を止めた妃沙子が呆れたように言った。

「で、どうなの。がっつりずれんの?」

「いえ、ほとんどずれは生じないです。今のところは、ですけど」

「ふーん、じゃあ迷信ってこと?」

 登美彦は曖昧に頷いた。

「そうですね。でも、まだ入り口近くですから。森の奥に入ると、また違うかもしれません」

「なによ、それ。どっちか、はっきりしろっつーの」

 妃沙子にぽかりと殴られたが、そこには愛情らしき親しみが込められていた。

 二十代半ばと若い妃沙子は、登美彦が入社して以来の指導係であり、今は恋人関係にある。

 しかし、当時の妃沙子は鬼だった。

 絵を描くスピードは、登美彦はいまだ妃沙子の足元にも及ばず、彼女の目には「ちんたら描いてんじゃねえよ」という風に映ったことだろう。

 幾度となく「団亀(どんがめ)」と罵倒されたが、本人はあまり覚えていないらしい。

 とにかく作画量をこなさねばならない下請け仕事では、登美彦はほとんど戦力にならず、妃沙子がいちいち手直ししては、「あんた、邪魔。あたしがやるから」と言われ、殺意ある目で睨まれるばかりの日々だった。

 登美彦の三倍速、四倍速とも称される超速で絵を描きながらも、妃沙子の絵はいつだって生き生きとしていた。

 柔らかいタッチの、シンプルな線で描かれた少年は凛々しく、少女は愛らしく、動物は愛嬌があった。

 絵のクオリティを管理する作画監督が、やり直し(リテイク)を命じることなど皆無で、どの絵も文句の付けようのない出来だった。

 コーヒーの街・清澄白河に居を構えたハバタキが、潰れずに存続していられたのは、ひとえに妃沙子の超人的作画量のおかげだ。

 妃沙子の仕事ぶりを見るにつけ、逆立ちしたってこの人には敵わないな、と素直に思えた。しかし、超人にも弱点はあった。

 いつだったか、林田社長がぽつりと言った。

「入れ込み過ぎると、彼女もちょっと目が見えなくなっちゃうことがある。だから奥野君が支えてあげてよ」

 人生百年時代という言葉が一人歩きする昨今にあって、インドア・アスリートであるアニメーターや漫画家は早死にするケースが多い。

 いざ描くとなったら、後先をまったく考えない妃沙子のブレーキ役になってくれ、ということであり、彼女が猛スピードで突っ走ろうとするなら、無理に止めずとも、せめてその行き先が間違った方向でないよう、心を配ろう。それが自分の役割だ、と思えた。

 妃沙子がハバタキの動力源ならば、自分は羅針盤になろう。そう思って方位磁石(コンパス)を用意したのだが、今のところは無用の長物だった。樹海だからといって、コンパスが滅茶苦茶に狂うわけでもなかった。

 ハバタキが下請けを脱する契機となった、自主企画の深夜アニメ『ハバタキのキンクロ旅団』がヒットし、余勢を駆って、次は劇場アニメだ、と意気込んだが、出資者(スポンサー)探しはことのほか難航した。

 カラスによく似た、黒ずくめのカモであるキンクロハジロを主要キャラクターとし、ハバタキに所属するアニメーターら、いわゆる「中の人」までもそのまんまアニメキャラクター化した作品は好評を博したが、所詮は深夜帯での地域限定的(ローカル)な人気だと言われれば、それまでだった。

 ぬいぐるみやトートバッグ、文房具などのグッズ開発に関わった協賛企業(パートナー)は快く出資に応じてくれたものの、さすがに億単位の資金までは集まらず、この構想は頓挫しかかっていた。

「キン、クロ、ハジローの三兄弟を劇場まで飛ばそう」

 冬枯れの清澄庭園で、妃沙子とそう誓い合ったのに、肝心の制作資金が集まらなくては、走り出そうにも走り出せなかった。

 登美彦は林田社長の鞄持ちとして、大口の出資者を求め、全国津々浦々を奔走した。営業の結果を報告するたび、妃沙子は捨てられた子犬のような、悲しげな眼差しをした。

 日に日に妃沙子のテンションは落ちていき、映画化計画が白紙に戻りかけた頃、唐突に神風が吹いた。

 ――樹海を舞台にしていただけるなら、製作費を出しますよ

 そんな助け舟が舞い込むと、林田社長は即決した。

「分かりました。精いっぱい、やらせていただきます」

 担当者とがっちり握手を交わし、その後、脚本担当の藤岡春斗を交えてのプロット会議と相成った。

 春斗は大学生とは思えないぐらいの童顔で、妃沙子と親交のある女性小説家・高槻沙梨の秘蔵っ子である。

 高校在学中にデビューした高槻が数年間に及ぶスランプに陥っていた頃、ささやかな文学的交流をしていたのが、当時中学三年生の春斗だった。

 以来四年間、スランプに喘ぐ師を間近に見続けた春斗は、習わぬ経を読む門前の小僧のようなもので、いつの間にやら師の後を追い、本人曰く、こそっと小説家デビューを果たした。

 師匠に内緒で文藝海新人賞に応募したのが、「こそっと」ということらしい、

 春斗と初めて顔を合わせたのは、彼が高校三年生の時だった。

 その頃はまだデビュー前で、高槻沙梨の背中に隠れてこそこそしている寡黙な少年という、さして目立つところのない印象だった。

 とにもかくにも存在感は希薄で、滅多に口を開かない。なかなか人と目を合わせないところは、警戒心の強い猫を連想させた。

 砂糖の入っていないブラックコーヒーを苦そうに飲み、アップルパイで口直ししていた少年がひとたび口を開くと、誰もが彼の言葉を傾聴した。

 物語の設計図(プロット)を捻り出す才能は、もしかすると師匠の高槻を凌駕しているかも、と思えるほどだった。

 キンクロハジロ、戦艦、波動砲、戦場カメラマンという、およそ組み合うはずのない部品(パーツ)から出来上がったのが、ハバタキを大空へ飛翔させた自主企画『ハバタキのキンクロ旅団』である。

 水中に潜って餌を採るキンクロハジロは、潜ることに特化した身体であるがゆえに体重が重く、それゆえ陸地にあがることは滅多になく、空に羽ばたくのに相当の助走を必要とする渡り鳥だ。

 林田社長は、アニメ制作の下請けに甘んじる現状を変革すべく、社の象徴としてキンクロハジロを起用することに決めたが、そこには物語性がなかった。

 戦艦マニアの響谷は、波動砲をぶっ放す話にしたい、と主張した。

 取材先で行方不明となった戦場カメラマンと道ならぬ恋をしていた妃沙子は、消息不明の交際相手を案じ、せめて彼の断片を物語に込めたいと言った。

 三者三様のリクエストを聞くなり、春斗はあっさりとプロット案を投げて寄越した。

 清澄庭園にぷかぷか浮いていた黒ずくめの潜水採餌ガモは、アニメキャラクター化されて「キンクロ旅団のキン、クロ、ハジロー」の三兄弟となり、公共電波に乗って宙を舞った。

 後日、藤岡春斗は小説家デビューすることとなるが、アニメ内で一足早く、「小説妖精ハルちゃん」として登場。

 妃沙子が明らかに気合を入れまくって描いたハルは童顔でありながら美形という奇跡のバランスを保っており、意図して露出を絞る演出も功を奏した。

 女性ファンからもっと出番を増やしてくれ、との要望が相次ぎ、ハバタキのオフィシャルページがパンクせんばかりの反響を呼んだ。ハバタキが下請けから脱却できたのは妃沙子の作画能力があったればこそだが、大元を辿れば春斗の原案のおかげである。

「ねえ、登美彦。ハルちゃんは?」

 クロッキー帳を手に持った妃沙子が、きょろきょろと辺りを見回した。さっきからコンパスばかり見ていたので気がつかなかったが、そういえば春斗の姿が見えない。

「いませんね……」

 プロデューサー兼作画監督の響谷の姿も見えないが、あの人は好き勝手に写真を撮っているのだろうから心配はない。

 林田社長は、「俺は留守番」と独りごちて、駐車場で仮眠中だ。

「響谷のおっさんと一緒だよね。まさか、遭難なんかしてないよね」

 妃沙子が心配そうな声で言った。

「どうでしょう。そうだといいんですけど」

 春斗は、馴れ馴れしい響谷を鬱陶しがっている節があり、二人が一緒に行動している可能性は薄いように思えた。

「どうしよう。もし遭難だったら、沙梨ちゃんに顔向けできない」

「大丈夫ですよ。たぶんその辺にいますよ」

 いったん落ち着くように宥めるが、妃沙子の顔は青ざめていた。

 妃沙子にとっての春斗は溺愛する息子ないしは弟のようなもので、ちょっと過保護な母親みたいな言動をする時がある。

 小説妖精ハルちゃんのキャラクターデザインは容姿や設定を含め、すべて妃沙子の手によるものだから、自身が生み出した創作物を我が子のごとく愛でる気持ちは分からないでもない。

 加えて言えば、妃沙子は作家性なる掴みどころのないものに滅法惚れやすい性質で、諸々ひっくるめ、春斗をかなり特別視している。

 親友の高槻沙梨からお預かりしている大事な少年でもあるから、これが行方不明であるとしたら一大事である。

 劇場アニメのプロットがどうのこうの、といった話ではない。

「登美彦、電話! ハルちゃんに電話して!」

 アンテナは一本だけだが立っており、樹海とはいえ、一応電話はかけられるようだった。

 妃沙子に急かされ、春斗に電話をかけたが、「おかけになった電話番号は……」という定型メッセージが返ってくるのみだった。

「どうしよう、どうしよう、どうしよう……」

 行方不明となった場所が場所だけに、妃沙子がすっかり取り乱している。

 小説妖精ハルは作中でもよく消え、限りなく透明になるが、人間の目に見えないだけで、シルエットは薄っすらと、画面の端っこに漂っていたりする。

 一部のマニアックなファンの間では、ぼんやりしたシルエットだけの小説妖精は「隠れハルちゃん」の名で親しまれていて、まるでウォーリーをさがせのように、目を皿にして録画したアニメを見返している者もいるようだ。

 制作サイドがまったく意図していない箇所を指摘されることもしばしばで、オフィシャルページ宛てに「隠れハルちゃんの隠れ場所を発見しました」と報告してくる視聴者は少なくない。

 しかし、今回の隠れハルちゃんを見つけ出す捜索範囲は、虚構世界(アニメ)からではなく、現実の富士の樹海だ。もはや、次元が違う。

 妃沙子と離れ離れにならないよう、手を繋いだまま、可能な限り周囲を捜索してみたが、春斗の姿はさっぱり見当たらない。

 もしかして、これは神隠しというやつなのだろうか。

 忽然と姿を消した春斗を探さなくては、帰るに帰れない。しかし、樹海に深入りし過ぎれば、こちらが帰れなくなる可能性もある。

 さて、困った。

 登美彦は、手元のコンパスに目を落とした。

 スマホの電子コンパスと見比べてみると、ほんの一、二度程度だが、若干の誤差が生じているようだった。

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