千冬【美味しくて】
どうせまた目の前から消えてしまうんだから、これ以上兄ちゃんに深入りはしない。兄ちゃんがこっちに戻ってくると聞いてから、そう決心したのに。実際久しぶりに兄ちゃんと会った時はどうだ。
今も自分は変わらずに夏輝のことが好きなのだと、千冬は確信した。
『好きだった』『今も好きで』
隠し通さないといけない想い。これからも隠し通すべきだと思っていたのに。
「どうして帰ってきたの? 兄ちゃんへの想い断ち切れそうだったのに」と、千冬は言葉をこぼした。
断ち切れそうなんて言ったけれど、実際会うと、断ち切れる可能性はほとんどなかった――。
多分兄ちゃんは話をそらすか聞こえなかったふりをするだろう。
「これから……俺の仕事が見つかるまで一緒に暮らすけど、よろしくな」
千冬の予想通りに話をそらす夏輝。言葉は続かない。
鶏肉の焼く音と香りがキッチンに充満していた。
「俺、やっぱりご飯いらねえわ。出かけてくる」
千冬は言葉を投げ捨て、外に出た。
ずっと忘れようと思ってた。
ずっと忘れられなかった――。
最悪だ。兄ちゃんが作ってくれたご飯食べずに外に飛び出した。
最悪だ。あんなこと言うなんて……。
もう、どうすればいいのか分からない。
こんなに動揺させてくるのは、兄ちゃんだけだ。
帰ってくるなよ、マジで。
でも、帰ってきてくれて嬉しい。
ひたすら走り、兄ちゃんとよく来た公園に来た。誰もいない公園。だけど、あの時とは全く違った。
ぼそぼそに生えていた草、塗装の剥げた遊具。
あの時はほっとかれていたこの公園は、丁寧に手入れされて、綺麗になっていた。ブランコも滑り台も、鉄棒も。そしてジャングルジムや、トイレも増えたりしていた。
虚しい気持ちから逃れられないままブランコに座り、小さく漕ぐ。ブランコを漕いでいるとスマホが鳴る。
微かに兄ちゃんだったらいいなと気持ちがよぎる。だけど違った。
「もしもし」
「今暇なんだけど来る?」
「うん、行くわ」
電話の相手は普段つるんでる、キスをしたこともある拓海先輩だった。先輩は、真夜中に外を徘徊していた俺を拾った。
拓海先輩の雰囲気は少し兄ちゃんに似ている。だからその時、家まで着いて行った。先輩の年齢は多分兄ちゃんと同じくらいに見えるけど、興味が無いから知らない。何も知らない。
そんな先輩に今、呼ばれた。
――なんだろう、兄ちゃんに会ったからか、行くのが億劫だ。
そう思いながらも、一人暮らしをしている先輩の家に向かった。
拓海先輩はアパートの2階に住んでいる。鍵はいつでも開いていて、今日も黙って中に入っていく。出会ってから一年ぐらい、ずっとそんな感じだ。
部屋に着く。いつも、あまり会話はせずにしばらくお互い好きなことをして過ごしている。いつも千冬はぼんやりとしながら、テレビを眺めていたりしていた。
いつものように過ごしながら、拓海先輩をあらためて上から下まで見て、それから兄ちゃんを思い出す。今まで似ていると思ってたけど、全然似てねえや。
――兄ちゃんは誰よりも、綺麗だ。
「なんか食った?」と、拓海が千冬に問う。
「ううん、食い損ねた」
「食い損ねた?」
「うん……」
「あっ、もしかして、例の兄ちゃんがきっかけでとか?」
「……うん、そう」
千冬が答えると、拓海は「カップ麺でもいいか?」と言いながら立ち上がり、準備を始めた。
兄ちゃんのご飯を食べれば良かったなと考えながらカップ麺を口にした。食べてる途中に拓海の顔が千冬の顔に近づいてきた。千冬はつゆを飲み干すと立ち上がった。
「ごめん、今日はそんな気分でない。体調良くないから帰るわ」
「……そっか、途中まで送る」
明らかに拓海先輩を拒否してしまった。いつもはそのムードに呑み込まれるが、今日はまるで拓海先輩が近寄ってきた瞬間、先輩を異物のように感じてしまった。
――先輩は、やっぱり兄ちゃんじゃない。
拓海先輩と歩き、再び公園の前を通った時、兄ちゃんがいた。
「あ、千冬、いた」
「何?」
「迎えに来た」
「いや、なんで?」
「なんでだろ……あの時の癖かな?」
あの時とは、幼い時のことだ。
公園でひとりでいる時、いつも公園に迎えに来てくれていた。
ふと、あの時迎えに来てくれた時の幼いふたりの記憶と重なる。
兄ちゃんにとっての自分はあの時のままなのか。
まじまじと千冬は夏輝を、上から下まで見下ろした。
兄ちゃんを見つめていると、距離を感じるからか、兄ちゃんが霞んでみえる。
だけどたったひとりの、兄ちゃん。
――大切な人。
「拓海先輩、ありがとう。兄ちゃん、帰ろ」
「……うん」
夏輝と拓海は会釈し合うと、拓海はふたりに背を向けた。ふたりきりでの帰り道。あの幼い時に弾んでいたふたりの会話が、今はない。
「……ご飯、食べた? さっき作ったおかず、ラップしといた」
カップ麺を食べたから、けっこう腹は膨れているけれど。
「ううん、食べてない。お腹空いた」
「そっか、多めに残してあるから、食べな」
「……うん」
千冬は夏輝の優しさを受け、甘えたくなる。そして優しくされるたびに胸の奥が、ギュッとなる。
千冬は夏輝の後ろを歩き、そっと、小さな時のように手を繋ごうとした。けれど、ぎりぎりまで手をやったものの、手を繋ぐことは出来なかった。
家に着くと、ラップに包んだ鶏肉と、キャベツがテーブルの上に置いてあった。
「ご飯、今よそうから」と夏輝は言い、台所へ行く。
千冬はじっと夏輝の背中を見つめ、心の中で呟く。
兄ちゃん、あの時のままで、兄ちゃんの俺に対しての気持ちも……何も変わらなくていいから、もういなくならないで――。
嫌いになろうと思ってたのに、冷たくしても温かいし、嫌いになんて、なれない。むしろあの時以上の気持ちが、心を支配してゆく。
リビングのテーブルの上には鶏肉と千切りキャベツがあった。ピッタリと丁寧にラップがお皿に張りついている。
「千冬、これ今、温めるな」
「うん」
千冬の視線は夏輝の背中を追う。
「あれ? レンジ変な音がする」
「うん、なんかこないだから調子悪くて」
「そうなんだ……なんか起こると怖いから、使わない方がいいんじゃないか?」
「いや、変な音するけど使えるよ」
「使わない方がいいと思う。新しいの買お? 俺、貯金なら沢山あるから。これ、冷めてるけど、食える?」
「うん、冷たくても平気」
「冷たくて、ごめん。色々、本当に、俺の性格も冷たくて……ごめん」
眉尻を下げ、申し訳なさそうな表情で夏輝は千冬を見る。
多分さっきの思わず吐き出してしまった言葉に対しても、色々の中にふくまれている。
千冬はなんとなく、惨めな気持ちになった。
兄ちゃんは、自身の性格を冷たいと思っている。相変わらず優しくて温かいのに……俺ばかりがこんな態度で、ガキくさい。
鶏肉をほおばる。
冷たさなんて関係なくて、とにかく美味しい。兄ちゃんが作るからこんなに美味しい。泣きそうになるくらい美味しい。泣きそうと言うか、もう泣いてる。
「千冬、どうした?」
「ううん、なんも」
「大丈夫か?」
夏輝に質問され、千冬は頷いた。
***