12 エナシアの心情、或いは過去
幸せだった。少なくともそう感じていたのは私がまだ五才の頃。
記憶は今はもうあまりない。お母さんとお父さんと旅行に行ったくらい。
お母さんとお父さんはとても優しかった。特に、お母さんは私のように緑色の髪をしていて目も同じ色をしていた。兎に角すごく優しくしてくれた。
お母さんもお父さんもとても仲良しで、本当に幸せな家庭が築かれていた。けど、それは呆気なく突然に終わった。
旅行帰り、馬車で帰っていた私達三人はその時事故にあった。相手の馬車を引く馬が暴れ出して、言うことを聞かずそのまま私達が乗った馬車へ追突してきた。これが事故の原因。
私とお父さん。向かい側にお母さんが座っていて、損傷が激しく、馬車の後ろ側が大きく潰れた。
咄嗟にお父さんは私の身体、目を手で覆ってくれたけど、その手は大きく震えていた。それを鮮明に覚えている。その事故で、私のお母さんは亡くなった。
それから一年後。
お父さんは人間じゃなくなった。と言っても、ちゃんとした、人間じゃなくなった。
『お父さん?その、今日はお母さんのたんじょう――――――』
『黙れ!!母さんの事を口に出すな!!』
その時、初めてお父さんから叩かれた。頬が真っ赤に腫れて、涙も泣き声も止まらなかった。
それから私はお父さんと会うことをなるべく避けてきた。けど、毎回呼び出されては叩かれて、とっても痛かった。だから、私は言った。
『お父さん!!痛い!!』
『何だと!?誰に向かって口きいているんだ!!』
―――――――――パンッ!!
これを最後に、私は捨てられた。
それから私はずっと歩いた。歩き続けた。死にたくなかったから、足掻きに足掻いて、何をしてでも生きたかった。
それでも、私はまだ六才で何も出来なかったから、路地に転がった食べかけや、ゴミ箱に捨てられた生ゴミを探す事しか出来なかった。
誰かに強請れば、『気持ち悪い』だの『汚い』だの散々に言われて、蹴られて、殴られて。
だから、私は国を出た。住んでいた国の人が嫌いになった。
すると、私を呼ぶ声がした。
優しい、甘い声。美味しそうな感じがした。
誘惑するような、助けて欲しいようなその声に釣られて、私は歩いた。
そしたら、地面にあるものが埋まっていた。
何の花の形かは知らない。けど、色んな色や形の花びらがついた綺麗な機械のようなもの。
その花は何の迷いもなく私の胸へすんなりと入った、
そして、こう教えてくれた。
『神器 愛欲華表』
それがあっても何の変化も無かった。身体に害がある訳でもないし、空腹が満たされる訳でもない。
がっかりした私は、気落ちのままに、ただひたすら歩き続けた。
すると、私を拾ってくれた人が居た。親の知り合いでも親戚でも何でも無い。
見知らぬ優しいおばあさん。
そのおばあさんは何でもしてくれた。
ご飯もくれた。寝床もくれた。服もくれた。長い髪を梳かしてくれた。
とっても優しいおばあさんに、私は涙が出てきた。それと同時に、人の胸に咲く花が見えた。
それから私の人生はもっと狂ってしまった。
その花は私にしか見えず、人に話せば、不審がられて嫌われる。前に感じた感覚が、また私を襲った。
ついにはおばあさんまで、私を避けるようになって、また、捨てられた。
私は泣いた。今まで以上に泣いた。二回も捨てられて、散々に言われて蹴られて殴られて。
もう人全員が嫌いになった。もう嫌になった。あの事故以来から私の人生はめちゃくちゃになった。
だから、生きたくなくなった。死にたくなった。楽になりたかった。これ以上痛い思いをしたくなかった。
だけど、無理だった。全然勇気が出なかった。怖い。身体に何か凶器を刺すのが怖くて出来なかった。高い所から飛び降りようとしても足が竦んで出来なかった。
ただひたすら涙が止まらなかった。死にたいのに死ねない。
自分の所為だと分かってた。自分に勇気が無いから死ねないんだって。
でも、そんな私に手を差し伸べた人が居た。
旦那様。
突然目の前に現れて、私を拾ってくれた。見知らぬ若い人。
旦那様に拾われてから以来、私は生活が出来るようになった。
今も旦那様の所でずっと働いているし、今住んでいる所だって貸してくれてる。
とっても優しい人だと思った。でも、それでも人を好きになるなんて事は一切無かった。
それから暫く、私は花の事を打ち明けた。ただ、私は神器の事を知らなかったから、花が見えるとしか言えなかった。
それでも旦那様は私を捨てたりなんかしなかった。
拾われてから十年、今でも旦那様のところでずっと働いている。
でも……………………………………。
エナシアの慟哭が神矢の胸元で響き続ける。目から零れる涙は既に神矢の服を大きく濡らしている。
「うん。分かった。エナシアは良く頑張って生きてきた」
酷く濡れた顔を胸元へ埋めるエナシアの髪を、優しく撫で続けて、大事に抱きとめた。
(俺と、同じか。死にたいのに、死ねない)
神矢と状況は違う。神矢は呪いにより本当に死ねないが、エナシアは精神的に辛く死ねなかった。ただ、それがとても辛苦だという事を神矢は大事に受け止めた。
「辛かったな、今まで。分かる。その気持ちは良く分かる」
それからも暫く、エナシアが落ち着くのを待ち続けて、ひっくと肩を揺らす程度になったところで、神矢はエナシアの顔を見る。
「…………」
「……ひっく。……ひっく、………ひっく」
目尻が赤く腫れて、まだ浮かび残る玉の涙を拭き取って、神矢はエナシアへ言った。
「エナシア。甘えたい時は、甘えて良いんだぞ?」
「……ひっく。ひっく。………いいん、ですか?」
上目遣いで見上げるエナシアに、神矢は優しく、淡い笑みを零す。
「あぁ。知ってるか?人間甘えないと、ボロボロになるんだぞ?」
泣きの余韻が残るエナシアは、一度恥ずかしそうに視線を下へ向けて。
「じゃ、じゃあ、私と、一緒に寝てください」
恥ずかしそうに耳先まで赤く染めるエナシアの、その子供のような雰囲気に、神矢は優しく頷いた。
「うん。でも、添い寝な?」
「な、なんで、ですか?」
ちょこんと服を摘まんで、寂しそうにそう問うエナシアの眉が八の字に寄った。
「だって、エナシア可愛いから、俺の理性が保たないかもしれん」
瞬間、エナシアの顔からポフッと湯気が立つほどに紅潮した。
「そ、そうですか」
(私、は…………別に良いですけど)
そう言えるはずもなく、もう夜は遅いため、照らしていた火を消した。
神矢は肘を立てて頬杖をついて、その胸元で布に包まり小さくなって寝るエナシア。
「…………神矢?」
「ん?」
優しいその声が、エナシアの心を太陽のように温めた。
「ありがとうございます」
こてん。とエナシアのおでこが神矢の胸にくっついた。
「うん。楽になったんなら、問題ない」
「………にひひ」
嬉しそうに笑うエナシアの吐息が神矢に掛かる。それは熱く、甘いもの。
(これが、好きって気持ちなんだ)
神矢を想えば想うほど恋しく、胸が熱くて止まらなくなる、なんだか焦れったい感情。
それからエナシアの吐息は、一定の間隔で息をするように変わった。
「………泣き疲れたか」
「くぅ、くぅ、くぅ」
赤くなった目尻に浮かぶ涙を、神矢はそっと拭って、そこを退こうとする。
「……ん?」
服が優しく引っ張られる感触に、神矢が視線を落とすと、エナシアがちょこんと掴んでいた。
「……………」
「くぅ、くぅ」
「……不安か」
神矢は、自分に言い聞かせるように忠告がてらパン!と両頬を叩いた。