11 大切なもの
ふと、目が覚めた。
既に太陽は真上を差し掛かろうとしていた刻限。
床に布を敷いて寝ていた神矢は、朦朧な意識と半眼でのっそりと上体を起こした。隣を見てみれば、ベッドがあるのだが、エナシアの姿はそこにはない。
(何処かへ出かけたんだろうか?)と、神矢は目を擦って立ち上がり、敷いていた色褪せて少し傷んだ薄い布を器用に畳むと、またもやベッドに視線を移した。
「エナシア、畳むの上手すぎじゃね?」
ベッドシーツに皺は皆無、その上に綺麗に折り畳まれた布、そして枕が置いてあった。
素直な感心を零す神矢は、部屋全体を見渡す。
女の子らしい部屋ではなく、言い方は悪いが、物置のように廃れた木材の壁で、点在する隙間から日が覗いていた。軋みを上げるシングルベッド、あちこち欠けている一つのタンス、その向かい側に机と暖炉。
寂寥感溢れる殺風景の部屋に、物理的ではない謎の
だが、そんなことを気にしていても何も出来ない神矢は、最善を尽くして掃除された暖炉に視線を移す。
(そう言えば、エナシアは何処で風呂に入ってるんだ?)
そこへ至った疑問を、神矢は深慮を図る。
(温泉?いや、暖炉から外へ熱を通してお湯を沸かすという事も出来なくはない)
そう予測した神矢は、少しでもエナシアの役にでも立とうと、軽くストレッチをしながら外へ出る。
「さて、薪割りがてらに体を少しでも動かしときますか!」
三日間、寝たっきりでいて恐らく体が鈍っている。それは神矢自身が一番理解していた。
「なるべく大きめの木がいいなぁ」
エナシアの家の周辺をキョロキョロと見渡しながらぶらついていると、やっとの思いで想像していた理想の木を発見した。
「これだ。…………すぅーーー」
神矢は目を閉じると、大きく息を吸って、顔色を真剣なそれへと変えた。
身体強化、腕力向上。
上半身が魔力障壁のような色鮮やかな緑で発光して、神矢は引いた拳を木目掛けて思い切り振り抜いた。
――――――――バフンッ!!
神矢の三倍もの大きさだった木は、近傍に爆発音を響かせながら、歪な形に破壊されて、様々な大きさで転がる。
「ッふぅーー。駄目だこりゃ。完全に鈍ってるな」
想像の斜め上を行く鈍さに、神矢は苦笑いを零しながら、散々に散らばった木を拾い上げていく。
「おいしょっ!運ぶか」
薪割りとしては少し荒く、薪らしい形にはほど遠かったが、神矢は張りきってどんどんと運んでいった。
暫時。
「ふぅー」
腕を組んで満足そうな表情をした神矢は、見上げるほどに積み上がった薪を眺めた後、顎に手を添えた。
「暇だな。流石にこれ以上すると木も勿体ないし、家に居ても正直何もすることがない」
不死鳥の吐息は人によって完治する時間が異なる。神矢は三日で熱が引いたが、実際完治した訳ではなく、少しの頭痛など、それらがある為、滞在している。
一応その事はエナシアも知っていて、この様を見たら恐らく怒る事を神矢はまだ知らなかった。
そこで、神矢はふと、昨日のエナシアの姿を思い出す。
何か思い当たるところがあるのか。神矢は歩き出した。
(神矢、何処へ行ったんでしょうか?)
机にある二人分の食事を前に、エナシアは眉を寄せて心配事を心の中で呟いた。
時刻は午後十時をとっくに過ぎた頃で、エナシアの家の周りには何も無いため、辺りは暗黒世界の如く暗闇が広がっていて、深閑な様子であった。
六時間前に家に帰ってきたエナシアは、食事を用意して二時間、お腹を鳴らしてずっと座っていた。
「もう!神矢は体調不良で泊まっているのに。なんで外出するんですか」
フン!と鼻を鳴らして頬を風船のように膨らますエナシアは、若干怒り気味に一人の空間でそう言う。
すると、扉の開く音が、家に響いた。それは、今さっきまで怒っていたエナシアの表情を一気に輝きへと変える。
「………お、エナシア。まだ起きてたのか。ただいま」
テクテクと嬉しそうに歩いて来るエナシアに、神矢は優しい笑みを向けた。
「お帰りなさい神矢。もう!遅くて心配しましたよ?」
その言う通り、エナシアの胸元には幾つもの赤いオダマキが立派に咲き誇っている。
オダマキ。花言葉『心配』
だが、オダマキは次第に枯れ果てて、それは花びらが外に大きく広がった、紫色のヒヤシンスへと変わった。
紫のヒヤシンス。花言葉『悲しみ』
「それとも、し、神矢は………私に心配される、のは………いやですか?」
眉を八の字に、上目遣いで神矢を見るエナシアを、神矢はぽかんとした表情で見下ろして。
「いいや。心配してくれて嬉しく思うよ」
笑顔でポンポンと頭を撫でる神矢に、頬を染め上げて俯くエナシアは、まんざらでも無く嬉しそうに。
「そう、ですか」
エナシアは自分の服をくしゃりと握って、この上なく嬉しそうにそう呟いた。
胸元には白から紫へと変化するグラデーションの色鮮やかな花、スイートサルタンに変わって咲き誇った。
スイートサルタン。花言葉『幸福』
「ん?俺を待っていてくれたのか?先に食べておけば良かったのに」
手ぶらで帰ってきた神矢は、真っ先に料理が並ぶ机に向かった。
「それは、その………一緒に食べたかったですから…………」
火照った頬を隠すようにそう言って、エナシアは神矢の隣へ寄る。
「なぁエナシア。これ俺のもあるんだよな?どっちが俺のだ?」
そう思うのは無理もない。机の上には二つ、野菜炒めとチャーハンと、異なった料理が並んでいたからだ。
「えっと、…………ど、どっちが美味しそうに見えますか?」
何かに圧されたような少し恐れの混じった声音で、エナシアが苦笑を浮かべて言った。
(分かってる。見た目もどうせ……………)
そんな、自分を卑下するようなことを思うエナシア。その隣で神矢が料理を選んだ。
「んー。これだろ?」
そうして指を差した料理は、野菜炒めだった。
その瞬間にエナシアは驚いた表情で、神矢の顔を見上げる。
「な、なんでこれなんですか!?チャーハンの方が絶対に美味しいですよ!?」
エナシアは無理矢理とチャーハンを推薦して、野菜炒めを避けるようにこっそりと自分の方に引いている。
「じゃあなんで聞いたんだよ。野菜炒め何か駄目なのか?」
少し機嫌を損ねたような顔を浮かべる神矢に正論をぶつけられたエナシアは、自然と目線を下へ向けた。
「その、野菜炒めは私が作った物で、チャーハンは買ってきた物…………です」
なぜか気落ちして悲しそうに言うエナシアの横で、神矢はニッと笑って明朗な声で言う。
「なんだ、それだけじゃん」
「あ、ちょっ!?」
横から野菜炒めへ伸びる手を、エナシアは遮ることが出来ず、その手は一瞬にして口へと運ばれた。(※箸はちゃんと持っています)
「…………」
「…………」
暫時、無言の間が続き、エナシアは諦めた様子で俯く。その目には薄く潤った膜が張っていた。その時。
「ん!美味しい」
口に弧を描いて笑顔を作る神矢は、次々と口へ運んでいく。
「久々にこんなに美味しいご飯食べたよ。エナシアも食べる………か?」
横でじっとしていたエナシアに、声を掛けた神矢は、ぽかんと口を開けっぱに見つめた。
「………ッ。………ひっく。…………ひっく」
嗚咽が肩を定期的に大きく揺らして、下を向いた顔からは床へ滴がポタポタと落ちていた。
「エナシア?」
「………なん、で。…………どうしてそんな嘘を………ひっく、言うんですか?」
その言葉に、神矢は閉口して笑顔を消し、エナシアと野菜炒めを交互に見る。
「エナシア?一回顔を上げて?」
エナシアは涙を拭って、また拭って、流したまま顔を上げた。
「………はい?」
拭う手を止め、綺麗な瞳に涙の膜を張らせたまま涙を伝わせるエナシア。
「はい。あーん」
「え、あ、あーん?」
小さく開いた口に、神矢はそっと、野菜炒めの小さな欠片をそっと入れる。
ゆっくりと咀嚼を続けるエナシアに、神矢は大きく口を三日月のようにして。
「どう?美味しいだろ?」
(………どうして)
エナシアの瞳を覆っていた涙の膜は、咀嚼するにつれどんどんと膨れ上がった。静かに滴っていた涙の玉は、比例して大きくなる。
「………はい。とっても美味しいです」
「だろ?嘘なんか吐いてないって」
そう言ってニカッと笑うと、神矢は野菜炒めをまた食べ始める。
(…………どうして、どうしてこんなに美味しいの?)
隣で次々に野菜炒めを口へ運ぶ神矢に、エナシアは心の中で呟く。
(こんなに、自分の料理が美味しく感じた事はないのに………)
涙を拭き取って、エナシアは美味しそうに食べる神矢に笑顔で言った。
「神矢!半分こしましょッ!」
野菜炒めとチャーハン。その二つの料理を、二人で半分ずつに分けて食べた。
「ふぅー」
火照った顔を手で仰ぎながら、タオルで髪を拭き上げる。
「んー。大夫髪長くなったな」
纏まった髪を触りながらそんな事を言う神矢は、先程のエナシアとの会話を思い出す。
『なぁエナシア。風呂はどうしてんだ?』
『え?あぁ。大変お恥ずかしいんですけど、お風呂は夏の間は川で水浴びをしている程度です。冬は流石に水を沸かすんですけどね』
にひひと苦笑いを浮かべてエナシアがそんなことを言った。
『あ、でも安心してください。今日は神矢が居るので、もう沸かしておきましたよ?』
(確かに。帰ってくる時に外にドラム缶があったな)
『でも、エナシアはずっと川で水浴びだろ?流石にきついんじゃないか?先に入ったら?』
(だから顔色が悪かったのか?)
『いえいえ。神矢はお客様なので、先に入ってください』
その後は言うまでも無く、なかなか懲りないエナシアに根負けして先に風呂に入った神矢である。
更に言うと、この後『体調不良なのにどうしてこんな事するんですか!?』と山積みになった薪を指さして怒られてしまった神矢である。
(風呂がないってヤバくないか?)
家がない神矢には到底言えない事である。が、確かにそうかもしれない。
しばらくベッドの上で涼しむ神矢は、部屋を照らす火をじっくりと見つめた。
すると、扉が開いた。
「ふぅー。久し振りのお風呂は気持ちが良いですね」
肩にタオルを提げた、上下長袖のジャージ姿のエナシアが、火照った顔で至福のため息を吐いた。
「…………」
「ん?どうしました?」
小首を傾げて、見つめてくる神矢に、疑問を抱くエナシア。
(やべぇ。エナシアが可愛すぎる)
「いいや。何でも無いよ」
顔は赤く染まっている訳ではない。だが、そう思う神矢は、エナシアへの嘘に若干罪悪感を抱いた。
「なぁエナシア。ちょっとこっちに来てくれないか?」
神矢はそう言って隣へ座るようベッドを優しく叩いた。
不思議に思ったエナシアは、小首を傾げて促されるままに隣へ座る。
「なんですか?」
「…………」
「………神矢?」
名前を呼んでも反応はない。神矢の、その儚げのある横顔を、エナシアは不思議そうに見上げた。
「…………」
「…………」
無言は続く。神矢が今、何を思っているのかはエナシアには分からない。けど、エナシアはこの時間が嫌とは思わなかった。前までは、いや、今でも人と居ることが嫌だったのに。
「……エナシア」
「はい?」
「どうして、死のうと思ってるんだ?」
その言葉を、一瞬に理解したエナシアが居た。
その言葉を、一瞬に理解したエナシアに気付いた神矢が居た。
「え、えっと、神矢?どう言う事ですか?」
惚けるような、分からない振りをするような、隠すように言うエナシアに、神矢は続ける。
「…………死なないでくれ」
いつもより低い、真剣なその表情と声に、エナシアはすっと顔を下へ向けた。
「………なんで、神矢は――――――」
エナシアの言葉が、神矢の行動によって遮られた。
髪は少し水分を帯びていて、肌もしっとりと湿っている。エナシアの甘美な芳香が神矢の鼻腔を擽った。
「え、えっと………神矢?」
横からぎゅっと抱きしめられたエナシアは、隠しきれない動揺で口を開き、羞恥が顔を真っ赤に染め上げる。
「エナシア。頑張った。今まで良く、頑張った」
頭上で聞こえるその声に、エナシアは神矢の胸で暗黙してしまう。
「俺はエナシアを全く知らない。だけど、分かる。知ってる」
(だって、俺と同じ表情をしているんだから)
「……そ、その」
その声は、脅えでもなく、震えでもない。
「よく、頑張ったな」
その言葉が、エナシアをどれほど楽にさせたか。エナシアの目からは雨のように万斛と涙が頬を伝った。
「ううっ、うっ、ううっ」
声を殺して耐えようと喉を鳴らすエナシアは、次第に崩れていき、神矢に撫でられるまま慟哭した。