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第33話  頬

 母さんと日菜に帰宅を告げた後、僕は自室へ戻った。


「今日はありがとうございましたって……何に対してだ?」


 部長の唇の感触を思い出す。


「食事だ! 食事だ! 懐かしいフランス家庭料理をご馳走になったことだ! それ以外あるものか! そうだ! 月曜日にあったら、もう一度【お食事】ご馳走さまでした! って言うんだ!」


 いや……やめておこう。

 なかったことにするんだ。

 こちらには何もやましいことはない。

 ない。

 ない。

 ない。

 断然ない!


 僕はベッドにあるクッションを手に取ると、


 ――ぼすん!


 もう一度ベッドに叩きつけた。


「まったく! あの人は何を考えているんだ? いつもの気まぐれなんだろう!」


 冷静になると、この考えが実にしっくりとしてきた。

 なんだ。いつものことじゃん。焦る必要なんてないさ。

 いつものことなんだ。うん。


「お兄ちゃん。どうかした?」


 日菜が心配そうにのぞき込んでいる。


「日菜……」


 僕は日菜を呼び寄せようとした。

 日菜と話すと心がほっと落ち着くんだ。


 今までは……。

 今は?


「うーん」


 僕が考え込んでいると、日菜がするりと部屋に入ってきた。


「ふみゅー?」


 目をくるりとさせてこちらを見ている。


「日菜」


「どうかしたの? 大きな音がしたわよ」


「なんでもないよ」


 あれ?

 いつも通りだ。

 やっぱり落ち着く。

 日菜の優しい笑顔。いつも通りだ。

 

「なんでもないんだよ。行きつけないお店に行って、ちょっと緊張したんだ。それに上級生相手だからね」


「そっかー」


 日菜は納得してくれたようだ。

 

 あれ? どうかしたのかな?

 何か言いたそうだ。


「日菜こそ何かあったの?」


「うん。日菜じゃなくてね。フランちゃん」


「フラン?」


「うん。今度高等部との交流会があるの。それでね、日菜たちのクラスはお芝居をすることになったの」


「へぇー」


 日菜は小等部のとき、中等部との交流会でフランス語の詩の朗読をしている。


「何をやるんだい?」


「『青の王国』というお芝居なの。これはね中等部のレパートリーみたいなものなの。高等部の生徒が書いた脚本を定期的に上演しているの」


「へぇ〜。そんなのがあるんだ」


「うん。私が小等部のとき朗読した詩もそうだったの」


 なるほど。伝統ってやつか。


「それでね。フランちゃんが主役の『青の女王』に決まったの」


「そりゃーよかったね!」


 ようやくフランの鬱憤が晴らされる日がくるんだ。

 よかった。よかった。


「……でも……」


 日菜が浮かない顔をしている。


「でも?」


「フランちゃんの。『青の女王』の衣装があまり素敵じゃないの」


「あちゃー!」


 それじゃ、フランス人形になれないな。元々無理だけど。


「フランちゃん泣いていたわ。寸劇の衣装を用意したのが、小等部から来たばかり先生なの」


 小等部の先生が用意したって?

 【ポスト】復活か!?

 小等部時代の不格好なセーラー服が、地の底から這いだすのか?


「先生にはお願いできそうもないの? もう少しお洒落にしてほしいとか」


「ううん。そうでもないの。先生はね。そういうことに気が回らない人で、それでいいと思っていただけなの。フランちゃんの悲しそうな顔を見てうろたえていたわ」


 フランの勿忘草の瞳で見つめられたら威力は強そうだ。


「本当ならば、もっと早くできているはずだったのに、昨日ようやく届いたの。今からでは作り直せないって……」


「交流会はいつ?」


「来週の土曜日」


「ふーん」


 僕は考えた。


「お兄ちゃん?」


 日菜がのぞき込んでいる。


「うん。その衣装を見せてもらえるかな?」


「いいの!?」


 日菜の顔が期待に輝いた。


「作り直すのは無理でも、リメイクならできるかもしれないだろ?」


「ホント!? フランちゃん喜ぶわ! ありがとう! お兄ちゃん! お兄ちゃんに相談すれば何とかしてくれるかもしれないと思ったの!」


「でも、昨日の話だろ? もっと早く話せばよかったのに……」


 僕が言うと、


「だって……」


 日菜が下を向いて口ごもる。


「何?」


「……だって、お兄ちゃん。なんかそわそわしてたから……」


 上目づかいで僕を見る。

 頬をぷっと膨らませ、口元をとがらせている。

 日菜の不機嫌な時の顔だ。

 なぜ?

 なぜ不機嫌なんだ?


 それに。

 僕。そわそわしていた?

 いや。そんなことないから。

 絶対ないから!


「それはね。約束の間際まで連絡がなかったからだよ。すっきりしないだろ? 約束だけして連絡ないのって」


「そうなの?」


 膨らんだ頬が、とがった口元がもとに戻っていく。

 日菜がくるりとした目を僕に向けた。頬には屈託のない笑顔が浮かんでいる。

 いつもの日菜だ。


「そうなのね」


 日菜がもう一度言った。


「うん。そうだよ。衣装の持ち出しのことは月曜日に先生に相談してごらん」


 僕は自分に言い聞かせるように日菜に言う。


「わかったわ。ありがとうお兄ちゃん。今日は疲れたわよね? 遅くまでごめんね。おやすみなさい」


 そう言って日菜は部屋を出ていった。


「ようやくゆっくりと休めるぞ。この2〜3日落ち着かなかったからな」


 ベッドに入り、日菜の膨れた頬を思い出した。不機嫌そうな顔。それがあんなにかわいく思えるなんて。

 僕はいつの間にか眠りについていた。


 明日から、フランの衣装のリメイクについて考えよう。

 まだ実物は届かないけれど、算段だけはつけておきたい。

 だから、部室に顔を出す暇はない。

 もともと手芸部はそういう所なんだ。都合のいいときにだけ行って、途中参加、途中退場ありの緩い部なんだ。


「お礼はちゃんと言ってあるし」


 別れ際にちゃんと言ってあるんだ。


 僅かな疚しさを心に残して、数日間が過ぎていった。 


 








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