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 脱獄犯が手掘りで夜な夜なトンネルを作るように、ゆめのさんと教授は少しずつその曲を『攻略』していきました。短いフレーズが全て納得いくように弾けるようになったら、次は短いフレーズを二つつなげて、それが弾けたらまたフレーズどうしを繋げて……。そうして、どんどん長く弾けるようになりました。


「本日は、表現力の拡張ですな」

「拡張って……工事じゃないんだから」

「工事もピアノも同じようなものですぞ」

「いやちがうって」

 今日も今日とて笑いながらそんな会話を交わしながら、するりと小舟を水に浮かべるようにゆめのさんは弾き始めます。

 たまに間違えることはありますが、もう平気です。教授が、「間違えてもよろしい。本番でも『あっ』という顔をせず堂々としていれば、観客は『そういうものか』とだまされてくれますからな」とアドバイスしてくれたからです。おかげで、あと一週間を切りましたが、ゆめのさんはあせることなく練習でも教室のレッスンでもしっかりと弾ききり、先生とお母さんを驚かせ、そしてとても喜ばせました。二人のほっとした顔を見て、やっぱりすごく心配されていたんだなと、すこし恥ずかしいような申し訳ないような気持ちになったことはないしょです。


 表現力の拡張って、一体何だろう。ゆめのさんがそう思っていると、教授は「さて、これを弾いている時、あなたは何を考えていますかな」とピアノの周りをゆったりとした歩調で回りながら問いかけてきました。

「何って……。ここが山場だな、とか、ここはピアニッシモに気をつける、とか」と答えると、人差し指をメトロノームのように横に振って「ノンノン」と教授が言います。

「もっと曲を感じてください。曲のタイトルから何を想像しますかな? 曲の展開はすなわち地図です。読み解いて情景を思い浮かべるのですよ。作曲者は情景や物語を曲にしたのですから、今度はゆめのさんがその逆をすればいいだけの話です」

「いやそんな簡単に言われても」

「ゆめのさんなら簡単ですぞ」

「いや簡単じゃないって」


 タイトルには『海辺』というキーワードが使われていましたから、おそらくそれが作品の舞台です。繰り返されるメロディは、ゆめのさんに寄せては返す波を連想させました。強弱は、波の大きさを。旋律の変化は、夜から朝への時間の経過を。

 白紙だった心のスケッチブックが、少しずつだんだんに色づきはじめます。


 表現力の拡張は、発表会前日まで続きました。教授が『素晴らしいですぞ!』と言っても、弾いている本人のゆめのさんが満足せず、まだ出来る、と思ったからです。

 より緻密に、より広く。ゆめのさんの音の海辺は、少しずつ豊かになっていきました。


 鳥が飛んでいる、まだうす暗かった空のはじっこから光がうまれて、朝になっていく……。読み取った情景を、今度は音符に乗せて指から音にします。

 情景が浮かぶと、ゆめのさんはまるで自分がそこにいるような錯覚を抱きました。

 しめった砂の上を歩きます。潮のにおいが鼻をくすぐります。さむい季節の、人のいない海は、波の音と風の音ばかりが耳に飛び込んできます。

 さびしい。きれい。

 海辺を一人で歩くゆめのさんの心は、とても静かでした。


「ブラーヴァ!!!」

 はっと気付くと、ゆめのさんは演奏を終えていました。

 そうだ、自分は海にいたんじゃない、ピアノの前にいたんだった。

 そう分かってはいますが、ピアノを弾きながらいつしか海にいたゆめのさんは、なんともふしぎな気持ちになりました。

 そして気付きました。

 弾いている時、とても自然に『楽しいなあ』と思っていたことを。


 どこにも失くしてなんかいなかった。私の『楽しい』は、ちゃんとこの手の中にあったんだ。見えていなかっただけで。

 まだ飲んだことのないシャンパンがびんの口からあふれるように、ゆめのさんの胸の中からしゅわしゅわと音を立てて『楽しい』が後から後から湧いて出てきます。

 うれしくて、何だって出来そうな気持ちになりました。

「ゆめのさんはほんとうに素晴らしい!!!」

 拍手を続けたまま、教授がにっこりと笑い、そう言いました。

「ただ言われたとおりに弾いてみただけだよ」

「それが素晴らしいのです。人の言葉に素直に耳を傾け、実行する力がある。まさに、アーティストの鑑ですな」

「大げさ!」

 教授は、うず高く盛ったごはんのようにゆめのさんを褒めちぎるのも忘れません。

「さあ、本番は明日です。今宵はこれくらいにしておきましょう」

 教授はそう言うと、さっさと楽譜を片付け始めました。

 そのぴんと伸びた背に向かって、ゆめのさんは声を掛けます。

「教授」

「なんですかな」

「ありがとう、ございます」

 ゆめのさんは、演奏を終えた人のように、教授に向かってゆっくりとお辞儀をしました。

「教授が一緒にピアノを楽しむ気持ちを探してくれなかったら、こんな風になれなかった。また楽しく弾けるようになったのは、教授のおかげです」

 お礼を言うと、教授は口ひげを撫でながら「なんの」と返します。

「老いぼれが若い人の役に立てたのなら、それ以上の喜びはありませんぞ」

「でも、明日、……まだちょっとこわい」

 ゆめのさんがうつむくと、大きな手が頭を優しく撫でます。

「大丈夫。明日は私も会場におりますから、大船に乗った気持ちでいればよろしい」

「ほんと?」

「ウィ」

 教授お得意の、ウインク付きでそう返事をされました。

「ピアノは孤独な楽器です。ステージに上がったら、もう誰も助けてはくれない。けれど、明日は誰が一番かを決めるコンクールではありません。強いて言うなら、楽しく弾けた人が一等賞です」

「分かった」

 ゆめのさんは、にっこりと笑いました。

「楽しく弾くね」



 そう宣言したゆめのさんでしたが、当日はやはりとても緊張してしまいます。

 それはゆめのさんだけでなく、みんながそうでした。ゆめのさんは教授にしてもらったように、出番を待つ子ひとりひとりに「今日は楽しもうね!」と声を掛けます。そうすると、ひどく硬かった表情が、みんな焼きたての食パンみたいにふわっと柔らかくなりました。


 あんなに聴くのもいやだった自分よりうまい子の演奏も、今日は素直に聴けました。

 やっぱりすごいなあ。じょうず。

 そう思う気持ちに、以前は『なのに自分は下手なんだから』というよくない気持ちがセットで付いてきていたのですが、今はそうではありません。

 私は私で、がんばろう。

 そう思いながら、ステージにむかいます。


 ゆめのさんの名前と曲名のアナウンスが会場に流れました。しん、とした静けさの中、ステージの中央へと進むゆめのさんの靴の音だけが響きます。

 わー、ますます緊張!

 ゆめのさんが泣きたい気持ちのままお辞儀をすると。

『緊張も、しすぎなければわるいものでもありませんぞ!』

 教授がしゃべりそうな言葉が、耳の内側に響きました。

 ふっと笑うと、その幻の声は『そう、リラックス。楽しむ準備は整いましたかな?』と問いかけてきます。

「いつでもその準備は万端だよ」

 拍手の中で小さくつぶやいて頭を上げ、ゆめのさんは椅子に座りました。

 さあ、いよいよ演奏の幕開けです。


 よし、入りはいい感じ。――っと、ミスりそうだった、大丈夫大丈夫、いける。


 ドキドキしながら自分を励まして、ゆめのさんは音の世界に入ってゆきます。


 空が明るくなってきたよ。そろそろ、朝日が昇る。ほら、雲の裏側が光っててきれい。みんなにも、この風景見てもらえるかな。見せたいな。

 寄せては返す波、強い風、濡れた砂、潮の匂い。


 これが、私の作った音です。


 途中、何度かあぶないところもありましたが、ゆめのさんは堂々と、そして楽しく弾ききりました。

 大きな拍手の中、観客にお辞儀をしていると、「ブラーヴァ!」という教授の声が聞こえたような、そんな気がしました。


 その日の夜、家で手巻き寿司――あらかじめ、「発表会の夜は手巻き寿司が食べたい!」と言って用意してもらったものです――を食べていた時、お母さんはぽつりと「ブラーヴァ! ってきこえたから、グランパがいるのかと思っちゃったわ」ともらしました。

「グランパ?」

「私のおじいちゃん、ゆめののひいおじいちゃん。外国かぶれで、自分は弾けないのにピアノを聴くのがとにかく好きな人でねえ、すごくしゃれた人だったわ。私が中学生の時に亡くなったんだから、今いるわけないんだけどね。……よく、日曜日にせがまれて演奏すると『ブラーヴァ!!』って大げさに褒めてくれたなあ」と、懐かしそうにそう教えてくれました。

「そうなんだ……」

 そうか。ゆめのさんは、海苔の上にうんと酢飯をのせ、その上にいくらをたっぷりのせ、なんとか巻いてかじりつくと、ふっと笑ってしまいました。

 教授、発表会に来てくれたんだね。私のこと、弾く直前に励ましてくれて、演奏を聴いて『ブラーヴァ!!』も言ってくれたね。

 なんで聞いても名乗ってくれなかったのか分かったよ。恥ずかしかったんでしょ。自分が弾けないのと、私がひ孫なのが。今度会ったら、『いやはや、ばれてしまいましたな』って照れちゃうかもね、教授。


 ねえ。

 またレッスンしようね。

 次の曲も、そのまた次の曲もいっしょに。


「グランパってどんな人だった?」

 ゆめのさんがまた海苔の上に酢飯をてんこ盛りにしながらそう聞くと、お母さんはしかめ面をして「ゆめの、酢飯のせすぎ!」と言いながら、食べ終えるまでいくつもいくつも教授(グランパ)のことを話してくれました。

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[良い点] 石河翠様の「冬童話大賞」から拝読させていただきました。 いいお話でした。 やりたくて始めて、初めは楽しかったのに壁に当たってつらくなる、ありますよね。 楽しく壁を乗り越えられて、本当に良か…
[一言] 読みました。面白かったです! 何かを頑張った経験のある人みんなに刺さるお話のように思いました。 好きで始めたことなのに、ある時から成長が滞っているように思えたり、人と比べたりして、なんだか…
[良い点] 描写(風景描写も心理描写も)がものすごく丁寧で、まるでその場にいるかのような印象を受けました。ストーリーもすごく緻密で、最後はほろりとさせられる、素晴らしいお話でした。個人的には、『耳をす…
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