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その晩から、眠りにつくと夢の中で『教授』によるレッスンを受けました。
教授、とはゆめのさんがつけたあだなです。おじいさんはゆめのさんの名前を知っていたくせに自分は『しがない老いぼれですから』とかたくなに名乗ろうとはしませんでした。なので、ゆめのさんはこの上品なおじいさんには大学の先生が似合うと思い、そう呼ぶことに決めたのです。
教授のレッスンは、拍子抜けするほどレッスンらしからぬものでした。
初めの日でもある昨夜は『さあ、では鬱屈した気持ちを思いっきりピアノにぶつけてごらんなさい!』と譜面を取り上げ、何でもいいから好きに弾くようゆめのさんに言いました。
「なんでも、いいの?」
「ウィ」
「めちゃめちゃでも?」
「そのピアノを汚したり破壊する以外であれば、何をなさってもよろしい」と、教授はきれいに整えてある口ひげを撫でながら頷きました。
「よーし、じゃあ、やっちゃおうかな!」
指は普段レッスンではしちゃだめ、と言われているよくない形、じゃんけんのパーのように突っ張った状態にして、両手をそのまま鍵盤にたたきつけました。もちろん、手首をぐーんと鍵盤より下にすることも忘れません。
和音も何もない、でたらめな音が出ます。それを、何回も繰り返しました。手を突っ張っているのに疲れたら、グーにしたり、肘や腕で弾いたりもしました。
でもそれは五分も保ちませんでした。少しやったら気が済んでしまいましたし、何よりきれいな音に慣れている耳が、それ以上の不協和音を拒否したからです。
そのかわり、指はなにかに誘われるように、今まで習ったレッスン曲を奏で始めました。
指一本で弾いたもの。初めて両手で弾いたもの。これが弾きたい、と先生にお願いして、ずっと『もう少しうまくなったらね』と言われ続けて、ようやく弾けたもの。
どれも、大好きなメロディです。教授も気持ちよさそうに目をつむって聞き入り、時折音に合わせて体をゆすって、一曲終わるごとに「ブラーヴァ」と笑顔付きの拍手をくれました。
けれど、今やっている曲はダメです。どうしても、まだ弾きたいとは思えません。
ゆめのさんが指を止めると、教授は「無理に弾かないでよろしい」と、鍵盤の上で迷子になったような手にそっと触れました。
「内なるパッションが生まれてこそ、演奏です。現れていないものを無理に引き出しても楽しくはないでしょう」
「……でも」
「大丈夫、ゆめのさんのピアノはとても気持ちよいですよ、あなたが失意の底にある時でさえも。だからこそ、これ以上の無理はさせたくないのです」
「それじゃ、間に合わないかもしれない」
発表会は二週間後です。ほかの子たちはもう仕上げにかかっているというのに、ゆめのさんはまだ満足に弾ききったことさえありません。
誰にもこぼしたことのない不安を、ゆめのさんは教授の前で自然にさらけ出していました。
そんな自分を、へんなの、とゆめのさんは不思議に思いました。
教授はゆめのさんの弱音を聞いても平気です。胸を張り、堂々と宣言しました。
「この老いぼれを信じなさい」
そう言って教授がまたウインクをしながら「ゆめのさんは、きっと二週間後、素晴らしい演奏をしますぞ!」なんて自信満々に言うので、ゆめのさんはおかしくて笑ってしまいました。すると、教授は満足げに口ひげを撫でました。
「そう、笑顔。笑顔はよいものです。自分も周りも幸せにする。ゆめのさんは演奏だけでなく笑顔も実に魅力的ですぞ」
「教授、ほめすぎ!」
「賛辞はしすぎて毒になるものでもありませんからな」
そんな風にして、初日のレッスンは終わりました。
二日目の今日も、教授は声を荒げることなく、ゆめのさんを優しく導きました。
「ごきげんはいかがですかな」
「……そう聞かれたらなんて答えるの」
現代日本の小学生女子が『ごきげんいかが?』などと声を掛けられる機会はまずありませんから、ゆめのさんのとまどいはもっともでしょう。
教授は口ひげを撫でながら、「よければよい、悪ければ悪いとそのまま答えればよいのですよ」と目を細めました。
「じゃ、悪くない、かな」
「さようですか」
「うん。今日は、……昨日出来なかったあの曲やりたい」
「しかし、無理は禁物ですぞ」
「うん、でも、やりたいの」
そう答えるゆめのさんの目は、尾を引きながら夜空を流れてゆく彗星のようにきらきらと光っていました。
昨日のお遊びやおさらいも、たまにやる分には楽しいものです。でも、いつまでもそればかりでは発表会に間に合わないし、ゆめのさんの指もゆめのさん自身も、今の曲を楽しく弾いてみたいのです。
昨日は小さくともったその気持ちが、朝を迎え学校へ行き夜になりまた眠る頃には、どんどん大きくなっていました。そして、その気持ちに嘘や強がりはありませんでした。
ゆめのさんの顔をじいっと見て、教授はちいさく頷きました。
「よろしい。では本日は、例の譜面を少しずつ攻略して参りましょう」
「攻略って……ゲームじゃないんですから」
「楽しむという点ではゲームもピアノも一緒ですな」
「いやちがうって!」
笑ってつっこみながら、ゆめのさんはピアノに向かいました。
いつもはこの曲を弾くとなると、まるで断崖絶壁の端っこまで追い詰められて『さあ早く飛び降りろ!』とせかされているような絶望的な気持ちになるのですが、教授と気の抜けた会話をした今日はなんだか楽です。
夢の中でだけ譜面に浮かび上がる罵倒の言葉(起きてから確認した時には、やはり何も落書きはなく、いつもどおりの譜面でした)も、今は気になりませんでした。――きっと、教授がニコニコしながら励ましてくれるからでしょう。
ほんとふしぎなおじいさんだ、と思いながら、ゆめのさんは弾き慣れたフレーズを練習し始めました。
「そこまで」
まだほんのさわりしか弾いていないというのに、教授はストップを掛けました。
「えっ」
「本日は短い一節を何度も反復してみましょう」
「でも、冒頭はちゃんと弾けてるじゃん」
「ミスなく弾くこととちゃんと弾くことはちがいますぞ」
「!」
教授の言っていることはもっともです。
以前のゆめのさんなら分かっていたことですが、最近はうまく弾けないことが多くてすっかりしょげてしまっていて、ミスさえしなければ大丈夫、と思い込んでいたのです。
ゆめのさんは、ぎゅっとうずくまってしまった自分を励ます気持ちで、座ったまま背を伸ばしました。
「……よし、もう一回弾きます」
「いい顔をしていますな」
「いい演奏をしそう?」
「ゆめのさんの演奏がよくなかったことなど一度もありませんぞ」
「もー大げさなんだから……」
ふはっと笑ったら、余分な力が抜けました。
丁寧に。
ゆめのさんが、そう心がけながら短いフレーズを繰り返しいくつか弾くと「先ほどより、よくなっていますな」「素晴らしい」「ブラーヴァ」など、教授はいちいち褒めてくれます。
そして、いつも間違えてしまうフレーズに来ると、教授は「ここはさっきの倍の量をゆっくりと取り組んでみましょう。そうすれば正しいかたちを指が覚えますから」と口ひげを撫でながらいいました。
最初は、やはりなんどもおなじところでおなじ間違いをしました。
けれど自分で自分を傷つけるような罵倒はせずに、教授の言ったとおり、ゆっくりと何度も取り組んでいるうちに、こびりついた汚れのように強力だったミスタッチは、だんだんに薄れていきました。
そして。
「ブラーヴァ!!」
短いフレーズですが、難関だったそこをミスなく、丁寧に正しく弾ききったゆめのさんに、教授は今までで一番の拍手とブラーヴァをくれました。
「ご覧なさい、あなた自身もあなたを認めたのでしょう、例の言葉が消えましたぞ」
「本当だ!」
譜面を見れば乱暴に書き付けてあった『へたくそ!』『もっと練習しろ!』という言葉たちが嘘みたいに消えていて、ゆめのさんはとても誇らしい気持ちになりました。
「さあ、ではこの続きに取りかかりましょう。次も難関ですぞ」
「大丈夫」
こんどはゆめのさんがぎこちないウインクをしました。
「こつこつやってれば、なんとかなる。分かった」
「それは素晴らしい発見ですな!」
そうして、二日目のレッスンも終わりました。
夢から覚めたその日の夕方、ゆめのさんは学校から帰るやいなやピアノに向かって例のピアノ曲を弾いてみました。
あれだけゆめのさんを苦しめていたフレーズが、夢の外でも驚くほどすんなりと弾けるようになっていました。