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週に一度、土曜日の午後に、ゆめのさんはピアノのレッスンを受けています。幼稚園の年少さんで通い始めましたから、今年でもう八年目になります。おちびさんの多いこの教室の中では、すっかりお姉さん的存在です。
ずっと、ゆめのさんにとってピアノは、ごはんや睡眠やスイーツやおしゃれと同じくらい、なくてはならない、楽しいものでした。
でもいつからか、その楽しさは冬の夕暮れのようにだんだんと短くなってしまい、この頃は家での練習にも身が入りません。せっかくレッスンを受けていてもうまく弾けたところよりうまく弾けなかったところばかり気になり、以前は教室でグランドピアノで弾けることがあんなに楽しかったのに、今ではレッスンが早く終わることばかり考えてしまいます。
レッスンは個人で受けていますが、少し早目に行って、自分の前の人の演奏を聴くのがこの教室での約束事です。そうすると他の子と親しくなったり、お互い刺激を受けたりしますからね。
――でもそのことが、最近のゆめのさんを苦しめる原因の一つにもなっていました。
土曜日、いつものようにゆめのさんはレッスンの開始時間より早く教室へ行き、前の人のピアノを聴きます。
その子は一つ下の学年の、ゆめのさんよりも遅く教室に通い始めた子で、なのに今ではゆめのさんより難しい曲に挑戦していました。
演奏に合わせて、先生が「……そう、そこはもっと大きく、もっと!……そう!」「今のところ、よく出来てた!」など、アドバイスと感想をこまやかに伝えているのが聞こえます。
それらは決してゆめのさんにあてつけでそう言っているのではないと、ゆめのさんが誰よりよく分かっているのです(そしてまた先生も、あてつけを言うような人ではないと、ゆめのさんはよく知っています)が、短調だけのメロディになってしまったような今のゆめのさんの心では、どうしてもよくない風にとらえてしまいます。
ゆめのさんが、年下の子の快進撃にあせったり、先生の言葉に敏感すぎるほど反応してしまうのには、わけがあります。
もうすぐ、教室の発表会があるのです。
自分の前の子や、自分のあとの子は、どうやら順調に仕上がっているようです。けれど、ゆめのさんだけが、なぜか一人つまずいています。
七年間と少しやっていて、こんなことは初めてです。上手く弾けなくて楽しくなくなってしまったのか、楽しく弾けないからつまずいているのか、それも分かりません。
悩んでなやんで、――今日はとうとう、家でピアノに触れさえしませんでした。
先生とすでに相談済みなのか、ピアノの練習をしないで遊んでいるのに、お母さんは何も言いません。そのことすらゆめのさんは、『言いたいことがあるなら言えばいいのに!』なんてとげとげしく思ってしまいます。
そして、ピアノへの楽しい気持ちがまた少ししぼんだまま、眠りにつきました。
気が付いたら、ゆめのさんはピアノを弾いていました。けれどそこは慣れ親しんだアップライトのピアノの他には何もなく、ただただ白い、どこまでの広さがあるのかも分からないくらい大きいお部屋のようでした。
なのに弾いているのはいつもと同じピアノ、いつもと同じパーカーにジーンズの自分。へんなの、と思いながら演奏していると、指は勝手に動き、勝手にもつれていきます。
ああもう、へたくそなんだから。ゆめのさんは乱暴に舌打ちしたい気分になります。先生もお母さんも、だれもゆめのさんに『へたくそ!』なんて言いません。けれど、だからこそ余計に気になって、ひとつ間違えるたびにイライラしてしまいます。たくさん間違えながらなんとか曲の終わりまで弾き切った時、頑張った! と満足するより先に、悔しさと悲しさで心がいっぱいになって、ゆめのさんは自分を叱りたい気持ちになるのです。
この日もそうでした。
楽しいと思う気持ちはいつものようにどこかへじょうずに隠れてしまい、弾く前も弾いている時も『やだなあ』『はやくおわらないかなあ』と何度も思い、さいごの仕上げに『へたくそ!』と自分を罵倒することまで忘れずにトッピングして、ゆめのさんはまたひとつ、ピアノに対していやな気持ちを増やしてしまいました。
もう、やめようかな。
何度弾いてもよくならない自分の演奏に、弱気がちらりと頭を横切りました。そんな自分を遠くへ投げ捨てるように頭をぶんぶん振ります。
やめたくない。もっとうまくなるんだ。自分よりあとに入った子になんか負けない。
そう心を奮い立たせますが、そうすればそうした分、『好き』だとか、『楽しい』からは遠ざかって、ただ意地だけが、今のゆめのさんの中にはありました。
散々な気持ちで弾ききったピアノから指を下ろし、座ったままうなだれていると。
ぱち、ぱち、ぱち、と、乾いた拍手が突然部屋に響きました。音のする方をぱっと見れば、そこには知らないおじいさんが立っていて、「ブラーヴァ!」と手を広げながらこちらへ近づいてきます。
「……なにそれ。ふつうブラボーじゃないの」
ゆめのさんがびっくりしながらそう答えると「ノンノン」と、おじいさんは立てたひとさし指をメトロノームのように横に振りました。
「女性への賛美は、ブラーヴァですぞ」
「女性って」
ゆめのさんは、ぷすんと空気がぬけるように小さく笑いました。女の子とか、女子とか言われることはあっても、女性あつかいされたことなどありませんでしたから、みょうにくすぐったいような気持ちになったのです。
「小さくてもレディはレディ。今の演奏、なかなかよかったですよ」
「……どこが?」
ゆめのさんは、先をうんととがらせた鉛筆のように、ぎらりとしたするどい気持ちになりました。座ったままの足を大きく広げて座面に手をつくと、猫背の、わざと悪い姿勢に座り直します。
「へったくそでしょ。それに、ちっとも楽しくない、こんなの」
「そうでしょうな」
「!」
穏やかに肯定されて、むっとしてしまいました。そんなゆめのさんに、見知らぬおじいさんは、譜面を指さします。
「ごらんなさい、ここに、書き込みがありますでしょう?」
「……なにこれ……ひどい……」
弾いている時には何もなかったはずなのに、譜面には『へたくそ!』『もっと練習しろ!』などといった目を覆いたくなる言葉が、乱暴な字でいくつも書き連ねてあったのです。
ぼうぜんとしているゆめのさんに、おじいさんが「ひどい、とはおかしな話ですな」と静かに声を掛けました。
「どうしてよ」
「だって、あれはあなたの心の声ですから」
「えっ!」
そう言われてみれば、譜面にあったのは確かに今まで自分が自分に向けてぶつけた言葉たちばかりです。
ゆめのさんは、しばらくじっと譜面を眺めていました。いくら眺めていても消えない言葉たちに、涙と本音が自然とこぼれ落ちてきました。
「楽しく弾きたい」
上手になりたいも、やめたくないも負けたくないも、確かに本当の気持ちの中にあります。けれど、一番は楽しく弾きたいと、強くそう思いました。
一体、楽しい気持ちはどこにあるのでしょう。どこに隠れてしまうのでしょう。
ゆめのさんが不安に顔を曇らせていると、おじいさんが「音楽は、音を楽しむ、と書きますからな。どれ、この老いぼれが助太刀いたしましょう」と言いました。
「すけだち?」
ゆめのさんがこだまを返せば、おじいさんは片目でじょうずにウインクをしてみせます。
「ゆめのさんが、音楽の楽しみを探すお手伝いですよ」
そう言うと「善は急げ! さっそくレッスンと参りましょう」と、ゆめのさんの返事も聞かずにピアノの横へ立ちました。
ゆめのさんは泣いてしまったショックや本当の自分の気持ちに気付いたことや、名乗らなかったのにおじいさんが自分の名前を知っているという驚きも覚めやらぬうちに「さあさあ」とせかされ、何が何やら分からないままピアノに向き直りました。
けれど、すっきりした胸の中には、消えていたと思っていたピアノへの気持ちが、確かにふたたびちいさく灯っていたのです。
ぴぴぴぴ、と目覚ましのアラームが鳴って、ゆめのさんは目をパチッと開きました。
「……夢か」
見知らぬおじいさんにピアノのレッスンをしてもらうなんて、さすが夢だね。突拍子なさ過ぎる。
そう思いながらも、ゆめのさんは知らずにほほえんでいました。
おじいさんとは、今夜も夢の中でレッスンをする約束を交わしてあります。
夢なのに起きても覚えてるなんてへんなの、と思いながら、ゆめのさんはそれをもう楽しみにしていました。