予期
突然静寂を破るものがあった。左手に持った読みかけの書物から、目を上げて、一呼吸置き、首を右に動かして視線を向けると予想通り、電源を落とした大型テレビの前を占める、テーブルの角に揃えて置いたスマートフォンが振動している。
俺はふいの着信を喜ばない。電話は無論、LINEが鳴るのを待って寂しく時を過ごすという事もない。用がある時はこちらから通知する。自分の思惑の外から連絡が入るのをむしろ厭い苛立つほどである。
しかし今日は期待していた。俺から連絡を入れたわけではないが、きっと来ると、書物に表れた思想を頭に反芻するうちに、心は微かに、けれど確かに待っていた。
ページに右手の人差し指を挟んで閉じ、背をもたせていた午後の窓から離れて向かう。スマートフォンの前に立ち、一度目を閉じて、開けて、前かがみに腕を伸ばして依然鳴り響く電話を掴んで見ると、画面は『高橋詩織』と表示している。
俺は期待していた。だが高橋詩織の声を待ってはいなかった。俺が切望するのは佐々木美菜である。今着信が鳴って、胸は忽然凱歌に高鳴るのを落ち着いた足取りに紛らせて、表面は努めて心が浮き立つのを抑えながら名前を確かめてみれば、予期を裏切る結末に出会ったのである。
俺は手でふるえる機器へ、ぞんざいな一瞥をして、そっと長方形のテーブルの角に揃えて置き直した。なお画面は光り振動している。機器が場から動くほどではない。応答するつもりはない。かけ直すか、否か、今はその決定を保留したい。躊躇するのではない。先延ばして、のちの気分にその選択権を譲りたい。
高橋詩織は第一の女である。だが今俺が求め欲していたのは第二の女であった。詩織が本妻なら、美菜は側室と言っていい。ただ本妻も、側室も、自分一人が愛されていると思って何も知らないだけ、事情を異にするかもしれない。
今ふいと側室を本妻に繰り上げるというのを考えてみる。俺と同様未だ若く美しい本妻については、無論嫌いはしていないが、そろそろうるさく、そして穏やかにも飽きが来ている。俺は結婚していない。適齢期ではあるが、これは勿論譬えである。
もし本妻をその地位から追放して、のちは付かず離れず、安らかな間柄へと移行することは可能だろうか。それは難しい。だいぶ覚束ない。いざこざもなく、どんなに穏やかに別れても、それからさき以前のように連絡を取り合って、時々食事を共にするという仲にはどうもなれそうにもない。一度切れてしまえば、その紐帯は形を変えて結び合わされることもなく、放っておかれたまま、もう顧みられることもなさそうである。果たしてそれを望んでいるだろうか。ひとまず保留したい。
今一つ、美菜の側室から本妻への配置換えを、本気に望んでいるだろうかという、議題が湧き起こる。
直観の伝える結論をいえば、側室の地位に慎ましくいるために、美菜を溺愛するのではなかろうか、という思案を否定し去ることが出来ない。本妻になった美菜をこれまで通り可愛がり愛せるかどうか覚束ない。可憐な美菜はこの先も側室の椅子に座らせたままにして置きたい。
ここまで考えてみて、美菜への恋慕が今一層強まるのに反して、詩織へ向けられた心や視線が、さらに熱を去り、冷ややかに遠ざかってゆくのを、これまた冷ややかに意識せざるを得ない。
覚えず微笑がこぼれて、ふっと気がつくと、しんとした静寂の中で、いつかテーブルの上に開いた書物が、あけた窓から吹き入る涼風にさらさら翻っている。
読んでいただきありがとうございました。