その20 お爺様の命令
「この先がダンジョンの最下層――なのか?」
俺は手元の地図を確認した。この地図はティルシアがボスマン商会から入手したもので、20年前にケヴィンが描いた地図の正確な写しのはずだ。
まあデタラメだったんだが。
いや、48階層までは概ね地図の通りだった。だが、49階層はまるっきり信用ならなかったのだ。
ただの描き間違いならまだしも、行き止まりを通れる事にしていたり、罠のある場所をわざわざ通るように捻じ曲げて描いてあったりと、作り手の悪意しか感じられなかった。
ケヴィンの地図を確認に来た騎士団達は、鋼鉄製のゴーレムに阻まれて途中で引き返したと聞いている。
おそらく49階層までは来なかったのだろう。
もしこんな地図を頼りに進んでいたらこの階層で全滅していたに違いないからだ。
俺も最終的には階位14まで上がった身体能力が無ければ、今頃間違いなく死んでいた事だろう。
「この様子だと50階層の地図も全く役に立たないだろうな」
俺はため息をついて地図をポケットにしまった。
そうは言ったものの、俺の予想通りなら50階層に地図は要らない。
『原初の神の一部』が収まった部屋があるだけだからだ。
階段を下りた先にあったのは扉が一つだけ。
俺の見慣れたあの不思議な装飾のされた扉だ。
やはりそうか。
俺は緊張にゴクリと喉を鳴らした。
ここにあるのは『原初の神の一部』。スタウヴェンの町のダンジョンの奥――俺の良く知るいつもの原初の神の部屋ではない。
だが神に触れる行為はいつでも強いプレッシャーを感じるのだ。
俺はゆっくりと扉に手を掛けて――
開いた。
そこにあったのは
「何だここは?」
バスケットコートほどの広さの異様に殺風景な部屋だった。
部屋の中心は何と言えば良いか、一抱え程の広さの範囲に渡ってモヤがかかっていた。
この距離でも感じる独特のプレッシャーから、あれがこのダンジョンを作った『原初の神の一部』なんだろう。
そして部屋の片隅に仰向けに横たえられたミイラ化した死体。
モヤと違って特に何も感じない所を見ると、こちらはただの人間の死体なのだろう。
一体誰の死体だ? 装備品どころか着ていた服すらも見当たらない。骨と皮だけである。
その二つ以外にはこの部屋には何も見当たらない。
俺は肩すかしを食らった気がした。
ここに一体どれほどの秘密が待ち構えているのかと身構えていたからだ。
仕方が無い。見て何か分かるものでもないだろうが、念のために死体を調べておくか。
そういえばマルティンは死体相手にもスキル『鑑定』を使えるんだろうか? だとすれば持って帰った方がいいのだろうが・・・正直気が乗らないな。
俺はそんな事を考えながら死体に近付こうとして――背後から近づく人の気配に振り返った。
「やっぱりハルトだったのね」
そこに立っていたのは青い髪の女。ケヴィンの孫娘アグネスだった。
「ずっと感じてたのよ。ハルトはお爺様と同じ感じがするって。でも今日まで確信が持てなかった。でも今なら分かるわ。今のハルトは私の良く知っている感じがするもの」
「・・・お前は何を言っているんだ?」
どこか嬉しそうに良く分からない事を言うアグネス。
俺は激しく混乱していた。誰かがここに来るなら、そいつはケヴィン以外にいないと思っていたからだ。
だがここにいるのはアグネスだ。何故コイツがここにいる? そして何を言っている?
「でもごめんなさい。お爺様からこの部屋に近付く者は誰であっても殺せと命令されているの。本当にごめんなさい」
そう言い終える間もなく、アグネスは俺に向かって剣を突き出していた。
俺は驚愕した。何だコイツの身体能力は?!
「ええっ! どうして今のを避けられるの?!」
驚いたのはアグネスも同じだったようだ。
俺は咄嗟にアグネスの突きを躱して彼女の側面に回り込んでいた。
いや、それはいいんだ。それよりも今の動き。確かアグネスはティルシアと同じ階位5と聞いている。だが今の動きは階位5の身体能力を軽く超えているぞ。
「アグネス。お前は一体何者だ?!」
アグネスは振り向きざまに剣で薙ぎ払った。関節の可動範囲を無視したそのトリッキーな動きに俺は翻弄された。
「おかしい! 今のも避けるなんて!」
いや、今のは本気でヤバかった。階位14のこの俺が、だ。
どんなずるを使っているんだコイツは。
「このっ! えいっ! どうして当たらないのよっ!」
縦横無尽に振り回されるアグネスの剣はまるで刃のシャワーだ。
俺はたちまち追い詰められ、息もすっかり上がってしまった。
それほどアグネスのトリッキーな攻撃は厄介だったのだ。
そして俺の方はこんな有様だというのにアグネスの攻撃は未だ途切れる事がない。人間の限界を超えたデタラメなスタミナだ。
「くっ・・・ ふざけんな!」
「きゃあ!」
苦し紛れに払った俺のナタが彼女の剣の腹を捉え、アグネスの体が泳いだ。
俺はこの隙に距離を取ろうとしたが、アグネスは不自然な動きで体勢を整えるとすかさず剣を突き出して来た。
マズイ! これは貰う!
咄嗟に俺の体が動いた。
後で考えてもそれは悪手だった。
だがそれ以外に方法は無かったのだろう。
俺の体は勢いよく前に飛び出し、真っ向からアグネスの突きに対してナタを振り下ろしたのだ。
突きに向かって振り下ろしたナタが剣に当たるか? 答えは否であろう。
だが俺の階位14の身体能力が辛うじてそれを可能にした。
ギャリン!
耳をつんざく音を立てて、アグネスの剣は俺の体の外にはじかれた。
逆に俺のナタはアグネスの体の中心に向かってはじかれ――
それは固いゴムを切るような手ごたえだった。
俺の手にしたナタはアグネスの喉元から下、鳩尾の辺りにかけて深く切り裂いたのだった。
「ハル・・・ト? ゴボッ。ゲホッ」
「よせ! 喋るな! じっとしているんだ!」
アグネスの胸元は彼女の流した血で真っ赤に染まっていた。
アグネスは咳き込むと大きな血の塊を吐き出した。
どう見ても致命傷だ。もう長くは保たないだろう。
ただしここにいるのが俺でなければ、だ。
俺はナタを投げ捨てると急いで彼女の体を抱きかかえ、彼女の胸元――大きく開いた傷口に左手を当てた。
初めて抱いたアグネスの体は意外なほど冷たかった。
「ゴボッ。ヒユー。ヒュー」
「そうだ、そのまま大人しくしていろ! 今治療してやる!」
まさか念のために持って来た治癒の指輪を、こんな形で使う事になるとは思わなかった。
俺は意識を集中して左手の指輪に魔力を流した。
「お前には聞きたい事がある。まだ死んでもらっては困るんだよ」
「ヒユー。ヒュー。ゴブッ。・・・」
俺は驚きに目を見張った。
・・・何?! 治癒の魔法が効いていないだと?!
どういう事だ? 何故治癒の魔法が発動しない?
いや、魔法は発動しているはずだ。今も魔力が吸われている感覚がある。
だが、アグネスの体から流れ出す血は一向に止まる気配がない。
喉に血が詰まったのかさっきから呼吸音も聞こえない。
クソッ! どうなっているんだ!
俺は血だらけのアグネスの口に自分の口をつけると喉に溜まった血を吸いだした。
血・・・じゃない?! 何だこの液体は?
俺は口に含んだ謎の液体を吐き出した。見た目はどう見ても血だ。だが違う。コイツは血によく似たまがい物だ。
今も治癒の指輪に魔力が吸われている感覚はある。
しかし、治癒の魔法はアグネスには何の効果も及ぼしていない。
彼女はどんどんと衰弱していく。
今にも死にそうだ。
ヤバい。どうする。
俺は頭の芯が熱くなる程の焦燥感に駆られるが、頼みの綱の魔法が効かないのではなすすべがない。
そしてついに最後の時がやって来た。
アグネスの体から力が抜けて呼吸が止まったのだ。
「アグネス! おい! アグネス!」
彼女の返事は無かった。
そしてその時、俺の階位が14から15に上がった。
人間を殺しても階位は上がらない。
彼女はモンスターだったのだ。