その8 謎の鍵
構成を間違えてしまったので今回の話は少しだけ長目です。
翌朝、朝早くに目を覚ました俺は腹の傷に手を当てた。
石を飲み込んだような重い不快感はあるものの、昨日のような痛みはもう無いようだ。
この分なら無理さえしなければ体を動かしても大丈夫そうだ。
俺は腹の傷に負担をかけないように、慎重にベッドの上に体を起こした。
机に置かれたポットから水を一口飲むと、途端に尿意を感じた。
考えてみれば昨日一日俺はトイレに行っていない。
起き上がってトイレに向かう事も考えたが、俺はこの建物のトイレの場所を知らない。
何気なく部屋を見渡すと、部屋の隅に蓋をされた陶器製の壺が置かれていた。
あれにしろというのだろうか。どうせ体が動かせるようになったのなら落ち着いてトイレで用を足したい。
俺は机に置かれたベルを手にした。
ボスマン商会の買い取った建物はやはり俺の知っている建物だったようだ。
俺は昨日の朝見かけた少し頼りなさそうな男に手伝ってもらいながら、建物の外に作られたトイレへと向かった。
この辺の建物の人間が使う一種の共同トイレだ。
最近作られたものなのか割と新しい。
俺がその事を言うと男は
「ウチが作ったトイレですから。」
と、当たり前の事のように答えた。
どうやらこれは、ボスマン商会の若き跡継ぎマルティンが言い出したらしい。
実はマルティンは日本人転生者なのだ。
やはり元日本人としては、この異世界フォスの衛生環境には我慢できないようだ。
大変結構な事なので、マルティンには是非これからも頑張ってもらいたいものだ。
用を足して部屋に戻ると、中年の男ーーサンモが朝食の粥を持ってやって来た。
「そろそろ何かお腹に入れたくなる頃だと思いまして。」
正直、腹も重いし食欲は無かったが、好意を無下にするのもどうかと思って一先ず粥を受け取った。
ところが一口すすると途端に食欲が湧いてきて、あっという間に一皿平らげてしまった。
麦と雑穀を煮込んで塩で味を付けただけの酷いシロモノだったが、今の俺にはこの上ないご馳走だったようだ。
「もっと召し上がりますか?」
正直サンモの言葉は非常に魅力的だった。
だが、空腹の腹に急に大量に詰め込んでも消化に良くないだろう。
ましてや俺は腹を刺されているしな。
腹が膨らんで内臓の傷が開いたりでもしたら目も当てられない。
「いや、もう十分だ。それより昨夜した話なんだが、今からで大丈夫だろうか?」
俺はサンモに手伝ってもらいながら今度は建物内の倉庫へと向かった。
倉庫は事前に聞いていた通り、何もないガランとした部屋だった。
高い位置に作られた明り取り用の小さな窓には、商品の盗難防止のためか鉄格子がはめられている。
前の持ち主も倉庫として利用していたのだろう。部屋のあちこちには商品を詰めた箱が当たったと思われる漆喰の剥げが目についた。
「この通り、何もない部屋ですが。」
俺は男の手を離れて自分で部屋の中を歩き回った。
壁や床、時々あちこち触ってはどこにも異常がないのを確認する。
(ダメだ、ここはただの空き部屋だ。小さな鍵穴すら無い。)
やはり部屋の中には何も無かった。
俺はポケットに入れた漆黒の鍵を握りしめた。
俺は諦めるとサンモの方へ振り返った。
「もう十分だ。妙な事を頼んで済まなかった。」
サンモは俺の言葉に少し不思議そうにしながらも、俺に手を貸そうと近付いて・・・ふと何かに気付いた様子で立ち止まった。
「あ。そういえばこの部屋のちょうど真下に地下室がございます。」
地下室は一度外に出て建物の中庭から入る作りになっていた。
「資材や、普段は使わない物を入れていたようですね。」
地下室の中は、しゃがんで入らなければ頭を打つほど天井も低く、狭くて埃っぽかった。
前の持ち主が放置していった丸太だの屋根瓦だのが無造作に押し込まれている。
足元も土がむき出しで、地下室というより穴倉と言った方がしっくりくる作りだった。
そんな穴倉には当然明り取りの窓など無い。俺は暗い穴の奥に薄っすらと見える扉を指さして言った。
「あの扉の向こうはどうなっているんだ?」
そんな俺の言葉に、サンモは不思議そうに答えた。
「扉ですか? どこの扉でしょうか?」
サンモの目は俺の指さした先を見ていたが、彼には俺に見えている扉が見えていないらしい。
ここだ! 間違いない!
俺は無意識にポケットの中の鍵を強く握りしめた。
俺はサンモに地下室の外に立って人払いをするように頼むと一人で穴倉の奥へと向かった。
薄暗い地下室の奥、扉は遺跡か何かで見かけるような地味な石製の扉だった。
・・・あった。
俺が石の扉の表面を指でなぞると、そこには小さな鍵穴が見つかった。
ゴクリ
緊張に俺の喉が鳴る。
俺は震える指で鍵穴にカギを差し込んだ。
スッ
重そうな石の扉が音も無く奥に開いた。
奥にはこれも石製の下りの階段が続いている。
周囲の石そのものが光ってぼんやりと周囲を照らしていた。
俺はこの不思議な発光現象を知っている。
毎日のように見ていたからだ。
それは俺の現在の仕事場。
そしてこの異世界から日本に戻るための唯一の場所。
俺は衝撃的な光景に愕然と立ち尽くした。
「馬鹿な・・・ここはダンジョンだ。」
ショックのあまり俺がその場から後ずさると、扉は自然に閉じて元の状態に戻った。
俺は慌てて扉から鍵を抜くとポケットにしまい込んだ。
その後、俺はサンモの手を借りてベッドへと戻った。
サンモは俺の酷いうろたえように何かしらの疑問を持ったようだが、あえて俺に訊ねる事はなかった。
正直、彼の判断は非常に助かった。
この時、もし彼に訊ねられていたとしても、俺にはどう答えれば良いか分からなかったからだ。
そのくらいその時の俺は混乱していたのだ。
俺はベッドに横になって考えた。
先ず大前提として、この町のダンジョンはさほど大きなものではない。
町の下まで広がっているなんて事は絶対にあり得ない。
その事はダンジョンの入り口が町の郊外にある事からも分かる。
ダンジョンはスタウヴェンの町にとって重要な産業だが、それでもモンスターのうろつく得体の知れない場所である事に違いはない。
つまりこの町はダンジョンからは利益を得たいが、危険な場所にはなるべく近付きたくない、そういったギリギリの距離の上に作られているのである。
こうなると考えられる事はただ一つ。
ダンジョンが広くなったのだ。
そう考えるだけの根拠はある。
ダンジョンの構造、それ自体は変化するものだからだ。
ダンジョンの最下層に存在する原初の神は、俺の手伝いで徐々に力を取り戻していっている。
実際に今までも、神はその取り戻した力でダンジョンの構造を地下に地下により深く成長させていた。
俺は数日前に神の巫女ーー幼女に会った時の事を思い出した。
あの時、確かに幼女は何かに反応していた。
それはひょっとして階層の広さの変化に反応したのだと考えられないだろうか?
ここからは俺の想像だが、階層が下に下に増えすぎたためにダンジョンの構造バランスが悪くなり、全体の土台となるべき上層部分がそれに耐えられなくなったんじゃないだろうか。
その崩れたバランスを補うために、ダンジョンの上層部分がより大きく広くなるように変化したとは考えられないだろうか?
そう仮定すれば、町の下までダンジョンが広がっている、というこの異常現象に一応の説明が付く。
ダンジョンの広がりはこの町を揺るがす一大事だ。
何せほとんどの人間はダンジョンが変化する事すら知らないのだ。
町にどれほどの影響があるか計り知れない。
現在、いち早くこの変化に気が付いている人間はどれだけいるだろう?
先ず、ダンジョン夫の多くは中層を仕事場としている。
この変化が上層に留まっているなら、彼らが気が付かないことは十分に考えられる。
そして上層を仕事場にする駆け出しは、彼らがダンジョンに詳しくない上、そもそもダンジョンの地理自体にも疎い。
余程大きく地形が変化しなければ、何も気が付かないんじゃないだろうか。
もちろんダンジョンの変化がまだ上層に留まっている、というのはあくまでも俺の予想に過ぎない。
実際はすでに中層にも変化が起こっているのかもしれない。
しかし、それにしては町の様子が普段と変わりなさすぎる。
さっきも言ったがダンジョンはこのスタウヴェンの町の重要な産業だ。
ダンジョンの変化という重大事件に町の人間がここまで無関心だとは思えない。
まだ誰にも知られていない、と考える方が筋が通るだろう。
とはいえ、これらも全て俺の予想に過ぎない、というのもまた事実なのだ。
「くそっ! ダンジョン協会に顔を出せないのが痛いな。」
俺はベッドの上で、この重要な事態に一人だけ何も情報を知らずに取り残されているかもしれない、という焦りを抑えきれずにいた。
俺がダンジョンの変化に対して焦燥感に駆られている間にも時間は流れる。
「・・・いつの間にか寝ていたのか。」
俺はベッドの上に身を起こした。
どうやら朝から建物の中をあちこち歩き回った事で、傷を負って消耗した俺の体は思ったより疲れていたようだ。
気が付くといつの間にか眠っていたらしい。
時間は丁度昼のようだ。相変わらず胃は重いが、朝食の例もある。軽くでも何か食べておく方が良いだろう。
俺は机の上のベルを鳴らして食事の用意を頼んだ。
食事を摂ると、もう俺にする事は無い。
体の調子が良くなって来たのは良いが、こうなってくるとベッドでただ横になっているというのも割と苦痛なものだ。
ダンジョンの事を考えると気が急いて仕方が無いが、今の俺にはどうすることも出来ない。
仕方なく俺は窓の外に流れる雲を眺めながら悶々とする時間を過ごしていた。
ノックの音で俺の意識は覚醒した。
どうやら少しウトウトとしていたようだ。
「何か?」
俺の返事にドアの外からサンモが応えた。
「ティルシア様がいらっしゃいました。」
部屋に入ってきたティルシアの様子に俺は思わず眉をひそめた。
ティルシアはさっきまで戦った者特有の剣呑な気配を纏っていたからだ。
何かあったのか?
俺はざっとティルシアの姿を観察したが、特にケガをした様子も見られなかった。
その事にひとまず俺は安堵した。
ティルシアは俺のベッドのそばまで来ると、部屋の外に振り返って声を掛けた。
「入って来い、シャルロッテ。」
シャルロッテ?
俺の目に入ったのは、申し訳なさそうに部屋に入ってくるロッテの姿だった。
シャルロッテがロッテの本名なのだろうか。
それはさておき、何故ティルシアは彼女をここに呼んだんだ?
俺はシャルロッテの姿に目を見張った。変わったのは呼び名だけでは無かったからだ。
シャルロッテは顔かたちは前と変わらないのに、あのおどおどとした所が消え、まるで別人と見紛うばかりに存在感溢れる女になっていた。
俺は今まで彼女のどこを見てあんなに地味だと感じていたのだろうか?
シャルロッテの突然の変化に戸惑う俺に対し、ティルシアが口を開いた。
「先ずは私達の話を聞いて欲しい。その上でハルトには判断をして欲しい。」
俺は目の前の厄介ごとの予感に、せっかく治りかけていた腹の傷が再び痛みだすのを感じるのだった。




