プロローグ イレギュラー
その部屋の中は相変わらず何も無かった。
突然視力が奪われたような「何も無い」である。
そんな広さも分からない部屋の中、唯一存在するのは俺の目の前に立つ人形のような幼女だけ。
ここはダンジョンの”現在の”最下層、50階層である。
俺は久しぶりにこの部屋に幼女――原初の神を訪ねていた。
以前は週に一度ほど来ていたものだが、最近はティルシアとつるむようになって中々自由な時間が作れなくなっていた。
今日はティルシアがボスマン商会に呼ばれていたので、俺は一人でダンジョンに入り、一ヶ月ぶりにこの部屋まで足を伸ばしたのだ。
原初の神は相変わらず表情の読めない作り物のような無表情な顔で俺を見ている。
いや、実際にこの幼女の姿は作り物なのだ。
本来原初の神に姿は無い。
この部屋に満ちるエネルギーそのものが本体なのだ。
しかし、それでは俺という小さな存在とのコミュニケーションが取れない。
いわばこの幼女は、神の意志を人間に仲介する存在、神の巫女と呼んでも良い存在なのだ。
俺はいつもそうするように金貨の入った袋を放り投げた。
袋は放物線を描いて飛び、くぐもった音をたて地面に落ちた。
幼女が無表情に見つめる中、袋は消えてなくなった。
「少しは力が取り戻せたか?」
俺がこう尋ねるのもいつものことである。
幼女が無表情にわずかに頷く。それだけで恐怖のあまり俺の背筋に戦慄が走った。
こうなるのが分かっていても尋ねずにはいられない。
最早これは俺にとって、ある種の儀式のようになっていた。
その時、幼女がふと目を上げた。
僅かな動作とはいえ、コイツが自発的にこんな動きをするのを見たのは初めてだ。
俺はその事に驚くよりイヤな予感に身を固くした。
それほど原初の神の力は圧倒的だ。
この部屋はいわば原初の神の腹の中だ。コイツの不注意な身じろぎが俺の命を奪う事にもなりかねない。
俺だって地球に戻してくれる約束がなければこんな危険な場所には二度と来ないだろう。
いくら現在は原初の神は力を失っているとはいえ、本来、神の部屋は人間などが立ち入って良い場所ではないのだ。
「何か気になる事でもあったのか?」
俺の質問に幼女は答えない。
ただ俺が「神の声」と呼ぶ、神の情報が一瞬のうちに俺の脳内に流れ込んだ。
それは神が意図した行為ではなかったのかもしれない。
それほどその内容はあまりに支離滅裂で断片的だった。
俺は大量の情報に頭痛を堪えながらも神の意図を探った。
そして答えはすぐに出た。
「ダンジョンでイレギュラーな事が起こったのか?」
幼女はピクリとも動かない。
しかし、それこそが肯定の意志だと俺は受け取った。
これ以上神から情報を引き出すことは難しいだろう。
神はエネルギーの塊であり、情報も神にとってはある種のエネルギーだ。
神は自分の情報――エネルギーを漏らす事を嫌う。
本当はこうやって俺と会う事も、神にとっては苦痛を伴う行為に違いない。
俺は無言で踵を返すとこの場を立ち去った。
挨拶は互いに必要としない。
俺達は味方でもなければ仲間でもない。
互いが互いを利用し合う。ただそれだけの関係だ。
そんな俺達が余計な言葉を必要としないのは当然のことだろう。
ダンジョンの外に出るとすでに夕方になっていた。
俺は突然変わった体の感覚に気が滅入ってしまった。
俺のスキルは”ローグダンジョンRPG”。
ダンジョンの中では天井知らずに階位が上がるが、こうしてダンジョンの外に出ると階位1まで戻ってしまうという能力だ。
水の中を泳いでいて、陸に上がった状態を思い浮かべてもらえば良いかもしれない。
一気に体に重力がかかってダルくなるあの感覚。
あれを何倍にも強めた感覚が、毎回ダンジョンの外に出る度に俺の体にかかるのだ。
それは気も滅入るというものだろう。
俺は自分の気分を紛らわすために、何気なく人の流れを眺めた。
人の流れはデ・ベール商会の雇った労働者達だ。
彼らの向かう先には大きな柵がある。
ここからでは見えないが、柵の中には直径5mほどの穴が掘られているはずである。
このスタウヴェンの町を牛耳るデ・ベール商会は、王都から強力なライバルであるボスマン商会の進出を受けて、現在強い危機感を抱いていた。
正直、俺からすれば、今までこの町で散々好き勝手やってきたのだからいい気味だとしか思えない。
デ・ベール商会はこの危機を乗り切るため、ボスマン商会が本格的に進出してくる前に先手を打つ事にした。
それがこのトンネル工事である。
このトンネルは、何とダンジョンの中まで掘られている。
デ・ベール商会は、このトンネルをこの町のダンジョン産業のボリュームゾーン、ダンジョンの中層までつなげるつもりなのだ。
トンネルが中層までつながった暁には、デ・ベール商会は自分の息のかかったダンジョン夫をエレベーターで直接中層に送り込み、中層の素材を自分達だけで安く独占するつもりなのだ。
正直、俺にはデ・ベール商会が考えているような事が可能かどうかは分からない。
俺はおそらくこの世界の人間の誰よりもダンジョンの事情に精通している。
先程の幼女――原初の神からダンジョンの根幹に関する情報を得ているからだ。
その俺の目には、デ・ベール商会のやろうとしている事はいかにも無謀に思えてならなかった。
最も、この件に関しては町の多くの人間が俺同様に不安に感じているようだ。
デ・ベール商会を恐れて誰も表立っては反対しないものの、みんな工事の進捗状況を苦々しく見つめていた。
(ひょっとして、さっきの原初の神の反応は、この工事に何か関係があるのか?)
トンネル工事が何かダンジョンにとって問題のある部分をブチ抜いてしまったとか?
だとすれば待っているのは破滅だ。
正直、異世界フォスに転移してきて以来、俺はこの世界のヤツからロクな目に合わされていない。
この町には嫌いなヤツしかいない、と言ってもいい。
そんなスタウヴェンの町が壊滅するという想像は、俺にとって中々に胸のすく思いがした。
俺はふと視線を感じてそちらを見た。
俺の視線の先には頬にキズのある陰気な男。
ダンジョン夫として駆け出しの頃に俺の仲間だった男、カスベルだ。
カスベルは俺の視線に気付くと、あらぬ方向に目を反らした。
カスベルはダンジョン夫を辞めて、どういう伝手を辿ったのか、今ではデ・ベール商会の下働きをやっている。
最近ではこの現場の作業員の取りまとめを任されているようだ。
面倒事ばかり多い上に、人に恨まれる割に合わない仕事だろうに。コイツは何が嬉しくてこんな仕事をしているのやら。
ダンジョン協会では俺を見かける度に絡んで来るイヤなヤツだったので、俺としてはいなくなってくれてせいせいしているのだが。
まあ、基本的にはダンジョン夫はクズばかりなので、コイツ一人がいなくなった所で大して変わりはないんだがな。
あまりこの場に長く立ち止まっていては、ダンジョンの入り口を見張る駐留兵に目を付けられるかもしれない。
痛くも無い腹を探られるのも面倒だ。
俺は家に帰るために歩き出した。
原初の神に会うという一仕事を終えた事で、俺は少し気が緩んでいたのだろうか。
この時、俺は気が付いていなかった。
俺はダンジョンを出た時から何者かに監視されていたのだ。




