その11 ダンジョン研究家フロリーナ 悪魔の声は天使の囁き
◇◇◇◇ダンジョン研究家フロリーナの主観◇◇◇◇
宿で今回の調査の報告書を纏めていた私を尋ねてきたのはダンジョンで出会ったウサギ獣人の少女でした。
少女は私の顔を見ると一つ頷きました。
「やはり今日は宿にいたか。」
? どういう意味でしょうか。
「ダンジョン協会には今日も調査の依頼が入っているのだが。」
少女の言葉に私は驚きました。調査自体は昨日終わったはずです。
私の勘違いということはあり得ません。
私に、今日は宿で報告書をまとめるように、とのデ・ベール商会からの伝言を伝えたのはヘールツ本人なんですから。
「どういうことでしょう? デ・ベール商会の方で何か調べたいことが出来たんでしょうか?」
私の言葉に少女は肩をすくめました。
なんでしょうね。いちいち仕草が大人びている少女です。
「それよりちょっと付き合ってくれないか? ハルトがお前を待っているんだ。」
ハルトというのはあの男の人の名前のようです。
少女の言葉に私の心臓がドキリと跳ねました。
「ああ、それと私の名前はティルシアだ。間違っても”ちゃん”付けで呼ぶんじゃないぞ。」
ウサギ獣人の少女ーーティルシアに従って私はすっかり通いなれたダンジョンの中を歩きます。
「何でわざわざダンジョンで会うことにしたんでしょうかね?」
ティルシアは振り返らずに答えました。
「さあ、ハルトの考えは私には分からんな。」
これは嘘ですね。でも私は追及しないことにします。
スキルで見抜いた嘘をいちいち相手に話していては会話になりませんから。
人がどれくらい会話の中に多くの嘘を混ぜるか、観察眼のスキルを持っていない人が知ったら驚くでしょうね。
男の人ーーハルトは1階層を少し歩いた場所にある小部屋で私を待っていました。
!!
何ということでしょう!
そこに存在したのは闇の中を覗き込んだとしか言いようのない濃厚な力でした。
どこまでも暗く深い泉。
圧力という言葉では生ぬるい力の根源とも言える何か。
あの日視た力とは天地の差、全く比べ物にすらなりません。
小部屋の入り口からハルトを見た瞬間、私は貴族の令嬢として学んだポーカーフェイスを総動員しなければなりませんでした。
本当に彼は人間なんでしょうか?!
ーー第二の神々はこの世界に大地を作り出すとその下に最初の神を閉じ込めてしまいました。ーー
私の頭に神話の一節が浮かびました。
まさかこの人は最初の神そのものなのでは?
そんな突拍子もない想像まで浮かんできます。
「呼びたててすまない。来てくれたことにまずは礼を言う。」
ハルトの声は穏やかとさえ言えました。
とてもこの力の権化から出た言葉とは思えないほどです。
悪魔の声は天使の囁きに似たり。以前読んだ本の中の言葉が私の頭に浮かびます。
「前に会った時に、”以前に会った時はこうじゃなかったような”、と言っていたよな。あれがどうも気になったんだ。」
ハルトは両手を大きく広げて私にこう言いました。
「なあ、だったら今日はどう見える?」
私は・・・・
私はこの”化け物”に・・・・
・・・・言ってあげましょう。
「う~ん。やっぱり最初の時の感じとは違いますね。」
私の声は震えていないでしょうか? 抑揚がおかしかったりはしないでしょうか?
私は恐怖のあまり叫び出したくなる気持ちを抑えて、出来るだけ自然に聞こえるように答えます。
ハルトは広げた手を戻すと・・・僅かに肩を動かしました。
「実は最初に会った日は初めてダンジョンに入った時だったので、今思えば少し神経が高ぶっていたのかもしれませんね。」
今の牽制は危なかったです。
危うく反応してしまうところでした。
手にはびっしょりと汗をかいています。いえ、手はいいんですよ、ハルトからは見えませんから。
それより額に汗をかいていないかが気になります。
部屋に緊張感が張りつめます。
ハルトはじっと私の目を見ています。
私は自制心を総動員して、さも何でもない事であるかのように彼の視線を受け止めます。
心臓が早鐘を打つように脈打ちます。
時間が引き延ばされたような感覚に頭の芯が痺れます。
私はいつも自分のスキルで気が付く変化を自分自身に当てはめて振り返ります。
大丈夫、おかしなところは無かった。大丈夫・・・大丈夫。
長い長い時間が過ぎーー実際はわずかな時間だったのかもしれませんがーーやがてハルトは一つ息を吐くと小さく頷きました。
「そうか、わざわざ来てもらった上に変な質問をして悪かった。え~と、俺はそういうのが気になると放っておけないタチなんだ。」
私は安堵のあまり膝が崩れそうになるのを必死に堪えます。
「ハルト、もういいだろう。今日はこれから忙しくなるんだ。」
「そうだな。ティルシアの言う通りだ。済まなかったフロリーナさん。」
ハルトが一歩足を前に踏み出して右手を上げようとしました。
「いえ、私も一度落ち着いてお会いしたいと思っていましたから。それではご機嫌よう。」
私は先手を打って手を振りました。今握手を求められるのは困るのです。
手汗をかいているのがバレてしまいます。
ハルトは上げた手のやり場に困って頬をかいて誤魔化していました。
超越的な存在に似合わない可愛い仕草に私は少しだけ緊張がほぐれました。
私はティルシアにダンジョンの外まで見送ってもらいました。
「本当にここまででいいのか? 宿まで送るぞ。」
「いいえ、結構ですよ。丁度買いたいものもありますから。少しより道して帰ります。」
私はティルシアがダンジョンに引き返したのを確認すると大きく息を吐き出しました。
死んだかと思いました・・・。
痺れるような解放感が私の心を満たしました。
それは甘い生の味。
肺に入る空気すら爽やかな柑橘系の味がしたような気がします。
私はかつてない歓喜に身を震わせます。
しかし、同時に心のどこかに物足りない渇きを感じるのです。
もっとあの危険を味わいたい。濃厚な力と危険をギリギリまで見つめていたい。
一度あの刺激を味わってしまえばスキル:観察眼に映る今の景色のなんて味気ないこと。
悪魔の声は天使の囁きに似たり。
私は悪魔に魅入られてしまったのかもしれません。
次回「流血のダンジョン」




