その33 滂沱の涙
◇◇◇◇◇◇◇◇
原初の神フォスが初めて持った好奇心という感情。
彼女は心のおもむくままに他の宇宙に接触した。
しかしそれが悲劇の始まりだった。
そこにはその世界を統べる神が存在していた。
初めて自分と同種の存在に出会って驚くフォス。
彼女は初めて知る自分以外の存在――他者とどう関わっていいか分からなかった。
言うならばフォスは初めてネットゲームに足を踏み入れた初心者のようなものだった。
彼女にとって不幸な事に、相手の神は悪質な初心者狩りのプレイヤーだった。
彼は仲間の神を呼び集め、面白半分に何も知らないフォスをいたぶった。
神の間のそういった行為がどういうものになるのかは分からない。
人間に例えれば、リンチを受けたとかレイプされたとか、そういった感じだったのだろうか?
フォスは深く傷付き、強いショックを受けた。
彼女は自分の宇宙に逃げ込んだが、荒くれ神共は彼女を逃がさなかった。
彼らはフォスの世界にまでやって来た。
そうして彼女を執拗に追い回した。
自分の世界にすら彼女に逃げ場は無かったのだ。
どれほどの絶望が彼女を襲った事だろう。
瀕死の彼女は、死に物狂いで身を隠した。
それは自分の宇宙にもう一つ別の空間を作って、そこに逃げ込むという方法だった。
苦し紛れの方法だったが、どうやら上手くいったらしく、荒くれ神共はフォスを見失ってしまった。
あるいはあまりに狭い空間に潜り込まれて、巨大な彼らでは手が出せなかったのかもしれない。
彼らはそれからも時々やって来ては、憂さ晴らしにフォスの世界を散々荒らして帰った。
彼女は自分の世界がボロボロにされる中、恐怖を抱えて震えている事しか出来なかった。
やがて長い年月が過ぎ、飽きた彼らはフォスの世界に顔を出さなくなった。
しかし長年に渡って恐怖に支配されてしまった彼女は、安全な隠れ家から一歩も出る事が出来なくなっていた。
こうしてまた年月が流れた。
そしてこの荒れた世界に第三の神が訪れるのだ。
第三の神は善良な神だった。
彼は管理者もいない荒れ果てた世界を不思議に思ったようだ。
彼は丹念にこの世界を観察して回った。
やがて彼はこの世界の管理者――フォスの存在に気が付いた。
二柱の間で何らかの意思の疎通が図られたようだが、流石にその内容までは分からない。
だが、いくら第三の神が訴えても、心に深い傷を負ったフォスがそれに応える事は無かった。
フォスの境遇に同情した第三の神は、この惑星の環境を整えて命に溢れた星へと生まれ変わらせた。
そして最後にフォスのキズを癒すべく、”認知の力”を生み出す知的生命体――人類を生み出したのだ。
本来であれば彼らの生み出す”認知の力”を受けて、フォスは元の力を取り戻すはずであった。
しかしフォスは力の受け取りを拒んだ。
今や彼女はあらゆる他者を否定する事でしか自分の心を守れなくなっていたのである。
第三の神はそれでもしばらくの間は、どうにかして彼女の力になれないか試みた。
しかし彼にもタイムリミットが来てしまった。
どうやら彼がこの世界に留まれる時間には限界があったようである。
彼は後ろ髪を引かれる思いでこの世界を去って行った。
こうして仕える神を失った人類がこの惑星に残されたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
瞬きをする程の間に俺の体を膨大な情報が流れ去っていった。
俺は体中から血を流しながら崩れ落ちた。
呼吸をするだけで胸に痛みが走り、俺は血を吐き出した。
神の巫女の残滓ですらこれほどの情報量を持っているのだ。
もし巫女本体に接触していれば俺は無事では済まなかっただろう。
木端微塵に破裂してしまったかもしれない。
俺は倒れたまま苦痛に喘いだ。
後で思えばこの時の俺は、治癒の魔法の存在すら忘れていたようだ。
いや、これほど濃密なマナが充満した場所だ。魔力をコントロールする事など到底不可能だったに違いない。
俺の目の前に再び妙齢の美女が――神の巫女が姿を現した。
神の情報に接触したことにより、今の俺は彼女が何をやろうとしているのか分かっている。
――フォスが交渉を打ち切ったというのは俺の早とちりだったのだ。
神の巫女が虚空に目をやると細かな振動が空間を揺らした。
たったそれだけの事が、今のボロボロの俺には耐えがたい苦痛をもたらした。
俺は奥歯を噛みしめてうめき声を堪えた。
どのくらい続いたのだろうか。
ふと痛みが遠のくと既に振動は収まっていた。
代わりに目の前にあるのは墨を固めたような艶の無い黒い扉。
いや、違う。ここだけ空間が切り取られているのだ。
光を発してなければ一切の光の反射もないため、俺の目には真っ黒に見えているだけなのだ。
やがて黒い空間に揺らぎが起こった。
神にとっても極度の緊張を強いる作業なのだろう。神の巫女の姿がブレた。
まさか・・・ 本当にやるのか?
俺は体の痛みを忘れて目の前の光景に見入った。
今、フォスが行っている行動。それは俺との契約の履行だ。
一時的に神の巫女の姿が消えたのは、計算に負荷がかかってアバターの制御をしている余裕がなくなったためだ。
そしてさっきの振動はダンジョンが百階層に到達した証拠。
さらに今、目の前で起こっている現象は・・・
「あ・・・ ビルだ」
俺の口からマヌケな呟きが漏れた。
そこに映っているのはどこにでもある日本の風景。
駅前の繁華街の景色だった。
その景色が目に入った途端、俺は滂沱の涙を流した。
これがどこの駅前かは分からない。多分俺の知らない町だろう。
だが分かる。あれは日本の町だ。
建物に、自動車に、自転車に、日本語で書かれた看板に、せかせかと歩く日本人の姿に、コート姿のサラリーマンに、学生の制服姿に、交差点で流れるメロディーに――
俺は全ての景色に強烈なノスタルジーを感じた。
あちらは冬なのだろうか? みんな厚着をしている。
ありふれたダウンジャケットの姿に胸が熱くなる。
俺は溢れる郷愁に心が張り裂けそうになった。
ここには夢にまで見た日本がある。
そう、手を伸ばせば届きそうな距離に。
漂ってくる空気の匂いすら、俺を誘っているかのようだ。
ああ・・・ 夢にまで見た日本だ。
俺の帰るべき世界だ。
原初の神フォスは俺との約束を覚えていたのだ。
だから無理をしてまでこの場所を日本に繋げてくれたのだ。
後何歩か足を前に踏み出せば、俺は懐かしの日本に帰れる。
いや、這ってだってたどり着ける。
俺は日本に帰れるんだ!
俺は体の痛みも忘れて這った。
もう俺の目には日本の景色しか見えていなかった。
俺は引き寄せられるように、懸命に母国を目指した。
次回「青木晴斗の帰還」




