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短編小説集 à la carte

解体

作者: 篠崎フクシ

 老婆の呻き声のような、かすれた音が耳奥を刺す。鷹の爪が獲物を捕らえるように、油圧ショベルのクラッシャーが窓枠を掴む。音はベリベリと拡大し、建物全体が豆腐のように柔らかく揺れた。

 二階の、窓枠下の板壁が猫の舌のようにべろりと剥かれ、人がかつて生活していただろうことを想像させる痕跡が、あらわになる。畳の、絨毯の敷かれていた場所は、新鮮な白さを浮き上がらせ、藺草の細くならぶ目が波打っている。


「あ、工事中だから、勝手に入らないでくれる?」

 交通誘導の老人が赤い手旗を振り、侵入者の行く手を遮る。現場から離れた場所にいた仲間も、異変を察知して、急いで近づいてくる。面倒くせえな、と呟きつつ、羽咲ミツルはショベルカーの運転席に向けて走った。


「ちょっと、待ったー!」妙な男が近寄ってきたので、慌てて運転手は機械を止めた。「待ってくれ、中にまだ人が一人居るんだよ」

「マジか? 不動産屋から、誰も居ないって……!」

 くわえ煙草の運転手は困惑した様子で、闖入者の姿を一瞥してから、ま、いいやと言って外に出てきた。黒い安全靴の爪先が、鉄の扉にゴツンとぶっつかった。どうした、どうしたと、他の解体業者の連中も駆け寄ってきて、ちょっとした騒動になりそうだった。

 ミツルはその場に居合わせた者らを制止するようにさっと右手を挙げ、中空の、朝の冷たい空気の塊に掌をかざした。


「皆さん、お騒がせしました。実はまだ、このアパートの廃屋の一隅に、僕の家族が居るんです」たぶん、と言いそうになったが、自分の悪い癖だと思い、言葉を飲みこんでから、続けた。「大家さんも気づかなかったらしく、たった今それを聞いた僕はこうして馳せ参じたわけです!」


 が、あ、あ……。さっきのくわえ煙草が大きな欠伸をして、分かったよ行け、行け、と芋虫のような赤黒い指をばらばらと躍らせ、若僧を追い払うような仕草を見せた。ミツルは埃っぽい空気に目をしばたたいて、くるりと向きを変えたかと思うとすぐに走り出した。


「まだ人が居るってのに、こんなに壊しちゃって……。まったく、酷いことするなぁ、世間てやつは」

 入り口付近に散乱する角材やら鉄パイプやらベニヤ板の破片やらをひょいひょいと跨ぎ、ミツルは軽い足取りで目的地へと向かった。まるで、障害物競走でも見せられているみたいだ、とくわえ煙草は思った。それから頭に巻いた白手拭いをほどき、青空を仰いでから口笛を吹いた。それは解体現場に似合わない音楽だった。その場に居合わせた誰もが、聴いたことのあるようで、それが何かを想い出せない、そんな音楽だった。宗教的な、何か。どこかの教会で歌われていたような、賛美歌のような口笛の音楽が、鬱血した分厚い唇の先から流れていった。


 ーー、salvatio、というラテン語の断片をミツルは思い出す。救済、だっけか? とてもあやふやな知識が眼裏をかすめ、すぐに消えた。でもいったい、誰が誰を救えって? 沈黙する扉を前にして、しかし、躊躇するわけにはいかなかった。

 ドアノブを回して手前に引くと、わずかに開いたので、鍵が掛かっていないことは分かる。ところが、油圧ショベルの威力のおかげで、五センチほどの隙間しか生まれない。ミツルは、おーい、と奥の暗闇に声を掛けてみる。が、返事など期待できるはずもなかった。それで、引いてもダメなら、押してみた。押してもダメなら……、思い切り蹴りを入れた。

 解体工事が中断された、長閑な青空の下に、カッツん、ガッツん、と扉を蹴破る音が響く。う、ふぅ……。また一つ、くわえ煙草の中年男は、欠伸をかみ殺す。

 なんとか人が一人入れるくらいの空間が生まれ、ミツルは蟹のような格好で玄関に滑り込んだ。


 懐かしさで、胸が押しつぶされそうになった。

 狭い2DKのアパートの内部は、随分前にミツルが出ていった時と一緒だった。柱の傷や、冷蔵庫に貼った、子どもの頃に流行ったキャラクターのシールも、褪せてはいたがそのままだった。キッチンから一つ目の部屋にはテレビと箪笥が埃をかぶってそのままだ。そして最後に、一番奥の部屋の襖を開ける。

 瞬間、ムッと、凄まじい異臭が鼻をつく。


「迎えにきたぜ、兄弟」ミツルは無理に笑顔を作り、背中をこちら側にして座り込んでいる大男に話し掛けた。頭からすっぽりと布団を被っているので、余計に大きく見える。まるで、深海の海月くらげが、何万年かぶりに海面から顔を出したみたいだ。あるいは、たこ焼き。


「ずっと一人ぼっちで、寂しかったろう? 親父が先週、入院先で死んだよ。肺の癌がね、全身に転移していて、気付いた時にはもう、手の施しようがなかったって、担当医が言ってた。あ、でもさ、親の死は悲しいけどさ、兄貴には俺がついてるから、もう寂しい想いはさせないよ。黙ってるってことは、兄貴も俺とおんなじ気持ちなんだね? だって、十年前、俺たちは一度、母さんの死を経験しているんだから。俺たちはまだ、十四歳の子どもだった。なあ、兄弟、あれからだよな、あんたがこんな穴倉に引きこもっちまったのは」


 ミツルは、盛り上がる布団の向こう側に回り込み、その中を覗き込んだ。彼は暗闇を確認して、寂しそうに微笑む。

 

  ✳︎

 

 二月の、突き抜けるような蒼穹の眩しさに、くわえ煙草は目を細めて、半分解体された木造アパートの、あの若者が入っていった先に想いを馳せる。どんな事情があるか分かりゃしないが、ま、今夜の酒の肴くらいにはなるかな、とぼんやり思う。


「あのぉー、いま、大きな身体の、若い男性がこちらにお邪魔したんじゃないかと……」

「あんた、だれ?」

 今朝は珍客が多い。ヒュー、と口笛を鳴らしたくなるほどの若い女性が、息を切らしてこちらを見詰める。吐く息は白く、瞳は潤んでいる。


「区から委託を受けております、精神保健福祉士のカシワギと申します」女性は、白く細い首からPSWと印字されたIDカードをぶら下げていて、それをスッと持ち上げ、相手に見せた。ブルーの紐が、薄桃色のハーフコートにはミスマッチだった。くわえ煙草は、美人が台無しだ、と彼女の自己紹介を他所よそに考えた。「実は彼、グループホームを勝手に抜け出してしまって……。最近、ご家族に不幸があったものですから、この数日、落ち着かなくて」

「グループ……、なんだって?」

「あ、いや、いいんです、そんなこと。とりあえず、若者はどちらへ?」


 あっちだ、と赤黒い芋虫のような指が、解体途上のアパート一階の、半開きの扉を指す。汚れた爪は、薄くひび割れていた。

 

  ✳︎

 

 締め切ったカーテンの隙間からは朝の光が差し込み、小さな埃の一つ一つの粒が星のように輝き宙空に静止している。


「よお、兄弟。ここはなんて暗いんだ」

 布団の中は、もぬけの殻だった。まるで雪国のカマクラのような、空洞になっていた。布団の生地も中身の綿も、長年沁み込んだ人の汗や脂が乾き、カチカチに硬化している。ミツルはしゃがみ込んで、聖なるものに対して祈るように、掌を合わせた。そして、salvatio、salvatio、と、自分でもよく分からないラテン語の断片を呟いた。


「気が済んだ? ミツルさん。ここはもう解体されるのよ。でもね、解体されるのは建物だけで、あなたが病んだ十年間も、家族の想い出も、すべての優しい記憶も、ずっと解体されることはない」

 ソーシャルワーカーのカシワギが、腕を組み、厳しいまなざしをミツルに向ける。

「解体じゃなくて懐胎だな。俺とあんたの間に、何かが産まれようとしてる」

「その台詞、あなたじゃなければ、今すぐセクハラで訴えるところよ。さあ、甘えんぼうの時間はこれでお終い。結局、進むしかないんだよ、あなたにしかできないことをやり、あなたらしい人生を送り続けること。私たちにできることは、そのためのささやかなサポートだけ。これから始まるのよ、よく分からない何かが、ね」

 カシワギは片目を瞑り、唇をゆがめる。ミツルは目にいっぱい涙を溜め、最後の独り言を呟いた。

「カシワギさん、いつもあんたの言うことは、意味不明だ。なあ、そうだろう、兄弟?」

 

 ーー、相変わらずの青空の下には、沈黙するショベルカーとくわえ煙草の男が、じっとそこに在り続けていた。まるで、項垂れた首長竜とその飼い主が、砂漠のオアシスでくつろいでいるように見えた。【了】

 

 

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