復讐の始まり
「私よりその人間の女を選ぶか」
よく通る女の低い声が広間に響く。
「……女王陛下」
男は隣の女を囲うようにし、発言した女を見上げた。
いつも穏やかな目の奥には、強い意志が見える。
意思は曲げぬか――――
女王は冷たい視線で彼らを見つめ、静かに目を閉じた。
「もうよい。どこへでも行け」
◇◇◇
あの出来事から3年後―――
かつて許嫁だった男を失い、女王はがむしゃらに働いた。
周りからは新しい許嫁をと進められるが、もうよい。
女王が治めているこの国は、龍王である女王と、獣の民で紡がれてきた。
獣の形ではあるが、人間の姿にも化けることができ、人間界に自由に行き来することができた。
しかし、人間との交わりは禁じており、掟を破った者は追放もしくは女王の手によって殺される。
これを破った最初の者は、許嫁だった。
許嫁は女王の幼なじみであり、騎士であり、幼い頃から分かち合い、時には慈しみあってきた。
だがそう思っていたのは、女王だけだったのかもしれない。
許嫁は追放の身となり、今ごろは人間の女と幸せにやっていることだろう。
女王は目を閉じて密かに嘆息した。
ある日、国の結界を破った侵入者が発見され、女王は捕らえられた男を謁見の間で顔を会わす。
すると、女王は驚く。なぜなら、男は元許嫁だったからだ。
「女王陛下……」
男の弱々しい声が、女王の耳に届く。
3年前よりもやつれ、常に微笑んでいた男の面影はなかった。
穏やかな緑の瞳も淀み、艶やかな黒髪もぼさぼさだった。
「何故ここにいる。フォイユ」
女王の冷たい視線を受け、男は傷ついたように女王を見上げた。
手を後ろに縛られ、膝立ちをさせられている男は、目にかかる前髪をそのままに女王に媚びるような視線を向ける。
「お願いします。もう私には…ここにしか居場所がないのです」
懇願するように頭を下げた男に、女王は冷たく見下ろし背を向けた。
「この男を牢に閉じ込めよ。私の許可が下りるまで決して出すな」
「はっ」
女王の命令で周りにいた獣たちが、男を連れていく。
「待ってください!女王陛下!私は…」
男の言葉を最後まで言わせず、扉が閉まった。
女王は上座で背を向けたまま、痛む胸を押さえつけ目を伏せた。
何故戻ってきた。フォイユ…。
―――…何故
その夜、全ての公務が終わり、私室に戻ろうとした時、蛇が廊下の奥からにゅるにゅるとやって来る。
女王の目の前までくると、腰まである色素の薄い長い髪に、色素の薄い切れ目の瞳、長身の青年の姿になる。
「御公務お疲れ様でございました。陛下」
丁寧すぎる敬語に、恭しいお辞儀をするこの男は、この国の宰相であり、蛇の属性を持つ。
「ああ。して、何用だ」
「相変わらずつれないお返事。お話ししたいことがございますので、少々よろしいでしょうか」
気味悪い蛇のにっこり笑顔に、女王は悪寒し眉をひそめた。
客間に案内され、青年が女王を探るように見つめた。
「…何だ」
「いえ。あなたはまた同じ過ちを繰り返すのかと思いまして」
「どういう意味だ」
「許嫁が帰ってきたそうですね。何故その場で殺さず、牢にやったのですか?まだ未練がおありですか」
「ばかな」
「でしょうね。再び許嫁にするなどはしないでしょう。今日は忠告にやって参りましたが、あなたが同じ過ちを繰り返すのならば、こちらも考えがございますので」
宰相の笑う顔立ちは苦手だ。
許嫁が追放された後、この青年が次の許嫁にと進められたが、女王は断固拒否した。
そもそも蛇と龍は相性が悪い。
女王が青年の動向を警戒していると、青年はくすくす笑う。
「いやですね。そんなに怯えないでくださいよ。今すぐ喰らいたくなるじゃないですか」
「っ…」
ぞくりとする笑みに女王は扉へと向かう。
しかし、逃げられず背後から腰を抱かれる。
「離せ!」
「エリザベス様。いい加減お覚悟を。蛇は短気なのですよ」
低い男の声が耳元で囁かれ、女王は抵抗を強くする。
すると、あっさりと腰を離され、女王はその隙に扉の外へと出た。
私室に戻ると、女王は一気に力を抜いた。
力を抜いたせいで耳が徐々に大きくなり、魚のヒレのような形に変わった。
本来は龍の姿なのでまだ一部だが、完全な龍になる時は大事な儀式の時だけだ。
はあとため息を吐くと、懐かしい気配が窓の外からしてきた。
この気配…――――
女王が窓まで小走りで駆け寄り、外を見ると一匹の大きな狼がこちらを見ていた。
女王の胸はどきんどきんと高鳴り、窓をそうっと開けると、暗闇の中でも分かる緑の瞳が細められる。
「…フォイユ」
女王の小さな声が、澄んだ空気にのってゆく。
その声を聞き取った狼は、耳をピクリとさせ人間の姿になっていく。
昼間見た淀んでいた緑の瞳は、夜の空気のせいか穏やかになっていた。艶やかな黒髪もさらさらで、前髪が風に揺れている。
狼とは思えないほど、穏やかな目付きをする目の前の青年に、女王は彼に見惚れていた。
「女王陛下…」
「…っ。何しに来た」
青年の心地よい声で女王ははっとなり、慌てて背を向け室内に入る。
しかし、青年は入らずベランダで立ち尽くしていた。
「どうした。入らないのか」
「……では」
おずおずと青年は室内に入り、居心地悪そうに窓際に立っていた。
女王は好きにさせ、自分は服を寛げソファーに座る。
「それで?何用だ。お前が牢から出てくるのは想定外だったが」
「……お詫びを。本当に、本当にすまない。エリザベス」
「今さらだな」
「……」
青年は女王を見ずに、床を見つめたまま黙る。
女王は彼が何を考えているのか読めず、じっと見つめる。
すると、青年がふと顔を上げ、女王を見つめ返すと目を開いた。
「っ…!っ…!」
「…なんだ」
真っ赤になる彼の様子に、女王は訝しげに見た。
口をぱくぱくさせる彼の視線をたどると、開いた服から胸の谷間が大胆にさらけ出されていた。
「ああ、力を抜いたからな。胸が大きくなったのか。別に女の胸など見慣れているだろう」
「っ!そんなわけないだろう!」
顔や耳、首まで真っ赤にさせる青年に、女王は驚いた。
「何を言っている?人間の女と契りを交わしたのだろう?」
「っそれは…。とにかく隠してくれ。目のやり場に困る」
そっぽを向く青年に、女王はおかしな奴だなと思いつつ服を少しだけ正した。
「それで?謝るだけか?」
「違う。戻ってきたのには本当に居場所がなかったからだ」
「馴染めなかったのか」
「違う。彼女が亡くなったからだ」
「そうか。それは残念だったな。で、お前は何しに戻ってきた」
「……もう一度、ここで暮らしたい。都合のいいことだと分かっている。待遇は劣悪でも構わない。こき使ってくれてもいい。ただ…、あなたの側にいたい」
真っ直ぐに見つめてくる瞳に、女王の心は少しだけ動かされたが、青年を見る目は冷たかった。
「…良かろう。私の側でこき使ってやろう。ただし、弱音をはいたりしたら今度こそこの国には入れないと思え。よいな」
「…はい!」
緑の瞳に活気が戻り、青年は大きく返事をし、片手を胸の前に置き敬礼をする。
女王は静かに見つめ、明日からの生活を密かに楽しみにしていた。