世界が変われば。
実は、先日、同ネタで3本小噺を書くという、鬼畜なことをいたしました。
作品違い、キャラ違い、人称違いでどこまで違って見えるのか。軽い実験を兼ねてやってみたわけですね。
まあ、この作品違い、現代恋愛ものだったら大した差は出なかったとは思うのですが、ファンタジー作品だったせいか、随分と違う雰囲気になりました(当社比)
キャラ違い、人称違いだけの作品は、多少、違って見えるけど、作品違いほどではなかったです。
これでわかったことは。作者が同じでも、『世界設定』さえ作りこんで変えれば、『汎用シナリオ』はそこそこに違って見えるということです。
たとえば、『ももたろう』。桃太郎が金髪碧眼、サル、キジ、犬が、それぞれ人間だったら、それだけで別の物語に見えてきますよね。
もともと、いわゆる『王道』と呼ばれるストーリーは、古今東西問わずして、わりと似たり寄ったりな訳です。
かつてのステレオタイプのヒロイックファンタジーにありがちな姫を助けて勇者が活躍という構図は、神話でも良く見られる、アンドロメダ&ペルセウス型。
正直、このタイプ、今でも現役。昨今は、ヒロインも戦うパターンも増えましたが。
前にも書いたかもしれませんが、黒澤明監督の『七人の侍』を原作とした『荒野の七人』という西部劇。
同じシナリオでありながら、ラストが『越えられぬ身分差』で終わる『七人の侍』の悲恋と対照的に、『荒野の七人』では、結ばれる若者たちの恋。これは、日本人が悲恋好き、というわけではなく、舞台設定の違いから生まれるラストシーンの違いであります。
四谷怪談のお岩さんも、現代女性なら、父親が死んだからといって、素行の悪い元夫と復縁したりはしないでしょうし、お岩さんの妹のお袖さん、結果として不義密通が原因で夫に殺されるけど、いや、離縁はされても、現代なら殺されはしません。殺したら犯罪ですから! まあ、歌舞伎の演目と言うのは、とにかく『かたき討ち』『密通』『近親相姦』などというのがあったりして、現代人には『クドイ!』『その設定は、いらんやろ』というやり取りも多いのですが……『なろう式』の西洋ものに置き換えたとしたら、お岩さんが『ざまあ』して、スカッとおわるかもしれません。
そんなお岩さん、ちょっと読んでみたいなあと思って見たり。
世界が変われば、雰囲気だけでなく、同じ骨格でも、ストーリーが変化する。そんな気がします。