書き分け
先日、活動報告にも挙げたのですが、書き分け限界ってあると思うのです。
もちろん、長いお話をつくると、二十人、三十人と登場人物は出てきます。
それら、一人一人、一応、違う人間と認識して、書くようにはしていますが。
キャラがきちんと考えて動いているかどうか、読者がどんな人間か把握できているか、となるとなかなか難しいものがあります。
さて、小説において書き分けで大切なのは、やはり口調だと思うのです。漫画なら当然の外見は、もっとも低い優先順位。だって、『見えません』からね。髪が黒かろうが、茶髪だろうが、それこそつるっぱげだろうが、描写を丁寧にしなければ見えないことです。
一番、書き分けが必要なところというのは、複数の人間が同じ場面に存在する時。
その時に『読者がわかりやすい』見分けポイントは、外見とは違うと思うのです。
黒髪「りんごがいい」
茶髪「キウィがいい」
ハゲ「ぶどうがいい」
まあ、これでも区別はつきますけど。
「私は、りんごがいいな」
「僕はキウィ! 断然、キウィ!」
「ぶどうに決まっているだろっ」
口調と多少個性をつけてみました。なんとなく、こっちのほうがいきいきしている気がします。とりあえず、言葉を発した人間が、違う人間に見えると思います。
ところで。書き手としての能力は別として。多人数がいっぺんに出てくる作品というのは、読者的にもなかなかつらいのであります。
アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を、最初から、島に来た人間全員を把握できた読者は少ないのではないでしょうか。あるいは『オリエント急行殺人事件』でも良いのですが。
もちろん、クリスティ作品は巧いので、ゆっくりと人物を紹介しながら事件を展開していきますから、最初に把握する必要は皆無ですが。
私自身、自分が読むとしたら、一場面で把握できる人間は、どんなに上手い作者でも、十人が限界。せいぜい3から5人というところが、わかりやすいです。
それを踏まえて。たとえば映像作品でも、学校のクラスの風景とか、軍隊とか、かなりの人数が『映像』的にはある光景でも、名前と顔認識されて、セリフがあるのは、せいぜい十人が限界。作品の後半になれば、二十人、三十人と識別されるようにはなりますが、そのためには、丁寧にひとりひとりが紹介され、ばっちり把握された後の風景ですね。
もっとも、昔の戦争映画、たとえば『史上最大の作戦』(1962年アメリカ)などは、人を描くというより、戦争を描くという観点で描いていますので、役者本人で識別する、という感じです。それぞれに人生は背負っていそうだけど、作戦の何を担っているかだけで描かれています。
ドキュメント性の高い作品なら、符号のように人が動いても良いのかもしれませんね。
ただ。一般的にライトノベルでは、キャラ重視ですから、そういった書き方はあまり好ましくないように思えます。
少なくとも、物語が目指す何かがはっきりしない作風で、キャラがぼやけていたら、面白いとは言い難い作品になります。
とはいえ、場面によって、たくさんの人数が出てくるシーンはあります。授業中の光景とか、ライブ会場や、お祭りもそうですね。
そんな場面で、大人数がいっぺんに話している言葉の場合の処理はどうするのか。
そこにいるのが聖徳太子じゃないなら、ふつーはカオス処理です。
ようするにガヤってやつですよ。たまーに意味あるセリフが聞こえてきても、それは、顔認識不要です。
「エー、それってムセキニン!」
「だって、おやつは五百円までいいって話じゃん」
「責任者どこだ―」
「それより、腹減ったぞ」
私は、全てを聞こえないふりをして、会議室を出た。
まあ、こんな感じで充分。あたりまえのことですが、書き分け段階で、書き手が混乱していたら、読者は理解できません。これは視点にも通じるお話になりますけどね。
言うは易し。実行は、とても難しいのですけれども。
今日も私は、反省室へ。実行は難しいのです。