―8―
空にうっすらと広がった灰色の雲が、朝の日差しを遮る。いつもより薄暗い草原を、無我夢中に駆けていた。微かに雨の香りの混じった風が髪をはためかす。肌寒いくらいの風だが、走り続けて火照った体には心地よかった。
少女の体で生き返った翌日から朝の日課を再開して、今ではずいぶんと体力が持つようになってきた。元の身体には及ぶべくもないが、これくらいの年齢の少女とは比べ物にならないくらいにはなった。
立木と小川の間を二十往復ほどして、朝露に湿った草の上に倒れこんだ。倦怠感でしばらく身体を動かすこともままならず、呼吸も苦しい。が、不思議と気分はいいのだった。汗で湿った麻のシャツに、ひんやりとした朝露がしみ込んで背中を冷やす。人間を緩やかに拒絶するようにピンと張りつめた、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
こうして仰向けになって太陽が昇り切る前の空を見るのがささやかな楽しみになっていた。昼間の抜けるような鮮烈な青さとは違う、白っぽく霞んだ幻のような空。太陽の一筋が白い空を貫く槍のように、一条の光の道を刻む。少しの間そうしていれば、いつの間にか空は鮮やかな青色に変わっている。同時に張りつめた独特の空気が緩み、街では人々が起きだす気配がするのだ。
残念ながら雲のかかった今日は、そんなお気に入りの光景は見られそうになかった。目を閉じて、瞼の奥で記憶にあるまま再現するにとどめる。すべて再生し終えるころには、ひんやりとした風がちょうどよく火照りを冷ましてくれるだろう。空気の香りからして、雨はまだ降りだしそうにはなかった。
目を閉じるということは視覚を遮断するということだ。それは周囲を把握するのに不利なようで、実は一定の利をもたらしたりもする。すなわちそのほかの感覚が研ぎ澄まされる。耳は葉々のこすれ合う微かな音さえとらえ、指先で触れた小石の形状は目で見ているよりも細かく理解できる。
驚くべきことに、それを察知したのは聴覚ではなく嗅覚だった。風の匂いに微かに混ざる、異質な鋭い香り。それが石鹸の匂いだと察するよりも先に、俺はぱっと目を見開いていた。
「はは、気づかれてしまったね」
さらりとした黄金の髪はなんとも上品だ。丸っこい顔の輪郭は少年を思わせ、実際に顔のパーツもどこかあどけなさを宿している。しかしその一方で引き締まった表情は、歴戦の武人をも想起させた。
丈長でたっぷりとした灰色の旅人用マントをまとい、山野を歩き回るのに適した頑丈なブーツをはいた彼は、要するに典型的な旅人装束だった。背中に背負ったのは長い木槍だろうか。殺傷能力に欠けるそれは旅に持ち歩くのに適しているとは思えない。そう思ってよく見てみれば、服のどこにも目立った汚れは見当たらない。旅人らしい土くれの香りの代わりに、さわやか石鹸の香りが香る。
「なんだ、お前。野盗か」
軽薄な笑みを浮かべた馴れ馴れしいしゃべり口のこの男に、口調を偽るのは面倒だった。彼は可憐な少女であるところの俺が男言葉でしゃべることに驚いたようで、目を丸くした。しかしどう解決したのか、すぐにその驚きを掻き消す。
「ふんふん、君はそういう話し方をするんだね。ちょっと意外だったかな」
「にしちゃ、大して驚いてるようには見えねぇけど」
「まあね。知り合いに、女性だけど怒ると君より乱暴な口調に豹変する人がいてね。慣れているわけじゃあないけど、驚嘆というほどではないさ」
「奇遇だな、俺の知り合いにもそういう女がいる」
「案外よくいるってことかな、そういう女性は。それとも同じ人だったりしてね」
さすがにそれはあり得ない。俺の言う知り合いは無論フレアのことなのだから。目の前の男も身分が低い者には見えないが、フレアと接点があるほどの高貴な身分なら一人でこんな郊外に来るはずがない。
「ボクはルベリアス。君は?」
俺は一瞬名乗るのをためらった。ルベリアスとやらの目的がわからない以上、不用意に名前を告げるのは危険ではないか。偽名を名乗るべきだろうか。しかしにこにこと笑いながら俺の返答を待っている童顔の男は、まるで邪気がなかった。殺気と言い換えてもいい。肉体が変わったあとも、感覚的なものは衰えていなかった。殺気を読み取れなければすぐに命を失う戦場で磨き上げられた俺の感覚がそう言っているのなら、間違いはない。ルベリアスが殺気を感じさせないほど熟達した暗殺者という可能性もあるが、それならそれで面白くもあろう。
「ノヴァという。年齢は言わないが、まだ若い。俺を襲おうと思っているならあと十年待ったほうがいい」
ちなみに肉体の年齢は二歳だ。ヘカテが二年前にこの身体を作ったと言っていたので間違いない。何歳の少女をイメージして作ったのかは恐ろしいので聞いていない。
ルベリアスはまじまじと俺の顔を見てから、吹き出した。けらけらと笑う彼はなんだか何も悩みなどないように見えて、とても幸せそうだった。
「いやぁー、汚れてるねぇ」
うれしそうに笑いながら、とんでもないことを言う。俺はさすがにむっとしてルベリアスをにらみつけた。
「悪かったな、汚れた女で」
「いいと思うけどね、俗世間に汚れてるのも。お高く留まった貴族令嬢なんかより、よっぽど人間らしいさ」
貴族令嬢と接点があるくらいには高い身分のようだ。大きな商家の御曹司あたりだろうか。
そもそもルベリアスの目的がわからなかった。正直、最初は本当に少女姿である俺を襲うつもりなのかとすら考えた。だがどうにもルベリアスが、いわゆる悪人とは思えない。
「知らないようだから教えてあげるよ、ノヴァ君。男という生物が女の子と話したいと思うのに理由なんて必要ないのさ!」
ものすごく自慢げな顔で胸を張る。俺はまだ重たい身体を地面から起こすこともなく、仰臥したままルベリアスを見上げた。俗に言う甘いマスク、軽薄な言動。なるほど、どれもルベリアスの発言を裏付ける。だが、
「お前、そういう性格じゃねぇだろ。軽薄な女好きの仮面は似合わねぇよ」
軽薄な言動は意識してやっているわけではなく、彼本来のものなのだろう。けれどルベリアスが今演じようとしているのは、彼本来の性格ではない。根拠はない。ただルベリアスがまとう鋭利な雰囲気がそう思わせた。隠そうとしても隠し切れない、武人の気配。
「へぇ、わかるんだ? それともボクの演技が下手なのかな」
「演技と言えるほどの演技はしてないくせに。台詞だけで謀れると思うなよ」
「ああー、やっぱり雰囲気でバレるのかぁ。さすが、毎日鍛錬してるだけあるね」
驚きに声を失った。俺が毎日ここにきていることを知っている……? まさかどこかから見ていたというのだろうか。自分に向けられる視線があれば、ある程度分かるつもりだったのに。
「いや別になにかしようと思ってたわけじゃないけど、君みたいな女の子が朝早くから身体を鍛えてるのは珍しかったから。ちょっと興味があって、あそこの木立から見させてもらってた」
「いつからだ……」
ルベリアスが答えた日付は、俺が初めてここに来た日と同じだった。あの日から、ずっと見られていたのに気付かないなんて。思い返せば、ルベリアスは俺に近づくとき微かな足音さえも立てていなかった。石鹸の匂いさえなければ、彼の接近に気付かなかったかもしれない。何者かはわからないが、相当な手練れであることは疑いの余地がなかった。
「淑女の朝のたしなみをこっそりのぞくなんて、感心できたことじゃないな」
かつての俺なら、問答無用でルベリアスに斬りかかっていただろう。もちろんのぞかれたことに対する怒りではなく、彼の腕前を知りたいからだ。けれど現在の俺は相変わらず立ち上がりもしなかった。剣士でもない今、ルベリアスがどんな強者だろうと知ったことではない。
「それに関しては自分でも変態くさいなと思うよ。謝罪する、ごめん」
「俺が潔癖な貴族娘じゃなくて助かったな、ルベリアスさんよ」
「はは、その通りだ。もっとも君の言う潔癖な貴族娘は剣なんて振らないから、気になったわけだけどね」
気づかれているだろうとは思っていたが、案の定だった。俺が枯れ木を振る動きが、剣術の鍛錬に倣っているということを。正直なところ、ありがたいことではない。もう剣を握るつもりのない俺が剣士とみなされることは問題しか生まない。
「勘違いする前に言っておくが、俺は剣士じゃないぞ」
俺が全く起き上がるつもりのないことを理解したのか、ルベリアスは俺の隣に座り込む。彼が背中から外して地面に横たえた木槍は安っぽいものではなく、フレアに借りた木剣のような頑丈な材のものだった。
「なんとなくだけれど、君が剣の道を究めんとする者じゃないことはわかっていたよ」
意外な言葉だった。ほかに鍛錬する方法など知らなかったから、剣を振っていた時と同じことをしていた。だから剣士だと勘違いされても仕方がないと思っていたのだ。しかしルベリアスは恐るべきことに、それを看破して見せた。
「なんでわかったのか、不思議かい?」
静かな声で、ルベリアスは問う。
小川のせせらぎが、からからと耳朶を打った。高空を雲が流れていく、ごうごうと。心臓がどくんと一つ脈打った。聞くのが怖かった。それなのに、首は勝手に頷いていた。
「君には、願いがない」
――剣の道を選んだからには、テメェにだってその剣で叶えたい願いがあったんじゃねーのかよ!
フレアと同じことを、ルベリアスはどこまでも冷たく俺に突きつける。霜の降りた刃を首元に突き付けられるような、痛みと恐れ。俺はごくりと唾液を飲み込んだ。ルベリアスは曇りのない表情で、せせらぐ水面に目をやる。
「空っぽなんだよ、ノヴァ君は。限界を超えるほど腕を振らせる力も、体力が尽きても足を前に進める力も、君の中には見えないんだ」
俺はどうしてそれを否定することができただろう。剣の道にすべてをささげると誓ったとき、自分がどんな願いを抱いていたのか思い出せない俺は、何一つ返す言葉を持たなかった。
「ボクはさっき嘘をついた。君が女の子だから興味を持ったんじゃない。君が空っぽだったから興味を持ったんだ。だって何も願わないのに君みたいに必死になれるのは、普通じゃない。少なくともボクにはできない」
思わず自嘲的な微笑がこぼれた。ルベリアスは知らないだろうが、その空っぽの剣士はかつて剣鬼などと呼ばれていたのだ。願いを持たないのに、蒼の王国で最強の剣士と呼ばれていた。
「……あんた凄いな、ルベリアス。俺でさえ最近まで知らなかったことなのに」
剣の道を究めることこそが願いなのだと勘違いしていた、というべきか。ルベリアスは決して誇らしそうにも嬉しそうにもしないで、ほんの少し眉をひそめた。
「案外他人のほうが気付くものだよ、そういうことはね。君にはそれを教えてくれる仲間がいなかった、それだけが不運だ」
不運ではない、自ら招いたのだ。近寄る者をすべて斬り、最後にたった一人で立っていることこそ強さなのだと勘違いしていた。
「――同情か?」
それを初めて出会ったルベリアスに指摘されるのが怖くて、ついそんな言葉を口にしていた。ルベリアスは怒ることもなく、軽薄に笑って首を振った。
「ボクは同情できるほど偉くないさ。それに武の道は誰のためでもない、自分の願いのためだけに選ぶものだ。そこに同情の余地はない」
穏やかな口調だが、そこには静かな拒絶が存在していた。それは言葉なく張りつめた朝の空気に似ている。フレアは剣を捨てると言った俺を叱咤した。しかしルベリアスは決して甘い助けを差し伸べようとはしない。
「俺はただ単に体力をつけたいだけだから、願いとか関係ねぇよ」
本当のことなのに、言い訳めいて聞こえるのはなぜだろう。自分でさえそう感じるのだから、ルベリアスがどう感じたかなど考えるまでもない。それでも彼は追及することなく、感情の読めない瞳で俺を見据えるだけだった。
風に混じる雨の香りが強くなっている。空気が湿り気を帯びてきたのも感じていた。雨が降り始めるのはもう時間の問題だろう。疲れで節々が痛むものの、身体を動かすことに不自由はもうない。だが俺はまだ草の上に横になっていた。なんとなく、ルベリアスというこの妙な男ともう少し話していたかったのだ。
「くだらない話をしよう、ノヴァ君」
そんな俺の気持ちを察したように、ルベリアスはそう切り出した。
「君はどんなときに幸福を感じる?」
薄っぺらで優しげな笑みが、ルベリアスの感情を押し隠す。なんでも見通していて、それでいて目の前のものしか目に入っていないような、賢知と無垢の溶け合った目。
俺はここに寝そべって見上げる空の色を思い出した。ヘカテと一緒に回った病の人々を思った。特に俺の魔力で回復した、ナナルという少女のことを思い出した。
「たとえば争いのない世界、誰も彼もが幸せな世界。そんな子供じみた妄想をする時だ」
「子供じみてはいないよ。ボクもそんな世界を幸せに思うのだから」
悪鬼のように人を斬ってきた俺が言うのも皮肉だが、おそらく現役で槍を扱う武人であろうルベリアスが言うのはますます皮肉めいていた。けれど大真面目に言う彼を、俺は笑うことができなかった。皮肉でも冗談でもなく、ルベリアスは心の底からそれを願っている。あるいは彼の『願い』はそんな世界なのかもしれない。
「ボクは思うんだ、幸福は与えられるのではなく勝ち取るものだってね」
「それは誰かを不幸にすることにはならないのか」
「なるね、きっとそうなる。ボク一人の幸福のために、何人もが不幸になるかもしれない」
「それでも自分の幸福を望むのは傲慢だろ」
すべての人間が、人間以外の種族もそんな風に自分の願いばかり押し通そうとすれば、誰かが幸せになるどころか皆不幸せになる。それを傲慢と言わずしてなんと言うか。
不意にぽつりと冷たいしずくが額に落ちた。しばらく前までは薄雲がかかっているだけだった空は、すっかり厚い黒雲に覆われている。彼方で青白い雷光が閃くと、もっと大粒のしずくが頬を濡らした。やはり雨が降り始めてしまったのだ。
「おやおや、もう少し君と話したかったのに。残念だよ」
ルベリアスは相も変らぬ軽薄さで肩をすくめた。そう言っている間にも、雨はどんどん激しくなる。あれよあれよという間に、霧のように隙間なく雨の筋が草原に突き刺さった。当然そこにいる俺たちにも容赦なく雨粒は降りかかる。せっかく汗の乾きつつあったシャツも、あっという間にずぶぬれになってしまった。
こんな姿で帰るとヘカテはずいぶん不機嫌になるだろう、と思った。しかしそれもなんだか平凡な幸福に思えて笑える。雨の中でくつくつと笑う俺を、ルベリアスは奇妙なものを見る目で見ていた。が、やがて彼もくすりと笑う。
「それじゃ、機会があったらまた」
槍を背負って軽やかな足取りで草原を駆ける彼の背中は、すぐに雨幕の果てに消えていった。
俺は、まだしばらく雨に打たれながら微笑んでいた。