―7―
あまり外に出たくないと言った割には、ヘカテは今日も外出した。ついでに暇だろうという理由で俺も同伴させてだ。
彼女は昨日と同じ枯れ草色のマントを羽織って、悠々と石畳を闊歩する。その数歩後ろを足を引きずるように、こちらも結局レザーアーマー姿の俺が追いかける。早朝の走り込みのせいで足が鉛のように重いうえ、パンパンに膨らんだ背嚢を背負わされているのだから、当然ヘカテとの差は広がるばかりだ。
「おいヘカテ、もっとゆっくり歩けないのか。少しは俺のことも考えてくれ」
いよいよ距離をあけられてきた俺はたまらず懇願する。ヘカテは髪をさらりとひらめかせて、軽やかに振り返った。真紅の瞳が意地悪そうに細められている。
「なんじゃ、もうへたばりおるか。朝早くから鍛えに行っとる成果はないようじゃな」
むしろその鍛錬のせいで足の疲れがたまっていることは言わないでおく。言えばそれをネタにされることがわかりきっているからだ。それにしても以前の身体なら、半日も休めばこの程度の疲労はたちまち回復したのだが。そういったところでもまだ、今の肉体とは違いがあるようだった。
「そもそもお前のほうが圧倒的に体力あるんだから、荷物を俺に持たせることねぇだろ」
「おぬしは少々浅慮が過ぎるぞ。よいか、傍目から見て吾輩らがどう見えるか考えてもみよ」
「同年代の少女二人組だろ?」
俺が即答すると、ヘカテは嘆かわしいと言わんばかりに天を振り仰いだ。
「吾輩は魔術師として診療に赴くのじゃぞ、魔術師と従者に決まっとろうが」
そうなのだ。この少女吸血鬼ときたら大胆にも市井の魔術師の看板を掲げて、病人の治療やちょっとしたまじないを請け負っているらしい。確かに魔術師業は実入りがいいし、吸血鬼なら人間が使う魔術など朝飯前なのだろうが……。俺はヘカテがちゃんと正体を隠す気があるのか、はなはだ不安になってきた。
「従者が手ぶらで、主人が荷物を背負っていたのでは、客が混乱するじゃろう?」
「客のところに着く直前に交代すりゃいいじゃねぇか。限界なんだが」
「――あとはおぬしが《無銘》をなくした罰じゃ」
初めてヘカテの口から剣の話が出た。ほとんど絶え間なく浮かべている様々な微笑をすべて消して、ほんの少し翳のある口調でヘカテの唇は剣の銘を紡いだ。
「いや、あれはなくしたわけじゃ……」
「おぬし、あの剣が何からできておったか知らぬであろう」
黒っぽく、光の加減では血のごとき赤にも見えた不思議な刀身。少なくとも普通の金属ではなく、相当に希少な材料であることはおよそ予想がついていた。そもそも吸血鬼がわざわざ剣を打ってくれるのに、単なる鋼を用いるとは思えない。しかしながら、実際のところそれが如何なる金属かということは考えもしなかった。俺が鍛冶職人だったならば気にしたのかもしれないが、俺は所詮剣を振るうだけの剣士だったのだから。
「今更言っても詮無きことじゃがな。あれと同じ剣はもう二度と打てぬ」
「……すまない」
フレアが俺のおいていった剣を処分してしまうとは思えないから、彼女に頼めば返してもらえるだろう。しかし俺はあの剣を取り戻そうという気はなかった。あれはヘカテが俺に打った剣。俺が剣を振るわない以上、取り戻す意味はない。
「構わぬわ。言うたじゃろう、おぬしがどんな道を選ぼうとそれは自由じゃと」
急にヘカテの真意が問いたくなった。彼女がなぜ俺を助けたのか。その理由が、きまぐれでは説明が足りない気がしたのだ。俺に何も求めず、居場所と食べ物を与えてくれる。そこに吸血鬼ならではの、人間には計り知れない理由があるのだろうか。
けれど俺はそれを問うことはできなかった。ちょうどそのとき、今日ヘカテに病人の治療を依頼した客の家に到着したのだ。
ヘカテの住処より少し中心街に近く、周囲の家々も整然と並んでいる。依頼人の家は大きくも小さくもなく、一般的な商人の家といってよさそうだ。煉瓦の壁は長い年月を経て煤けているが、いまだ堅牢に風雨をしのげそうだった。
俺がよたよたと隣に並ぶのを確認して、ヘカテは木戸を叩く。待ちかねていたように、すぐに扉は開いた。疲れた表情をした商人風の中年男が、白髪交じりの頭をしきりに下げる。
「お待ちしておりました、フェネスール様。どうぞ、中へ」
耳慣れない名前だったが、ヘカテが黙頷したので彼女のことなのだと分かった。怪訝な顔をしていると、ヘカテが男に聞こえないように「念のため一番知られておらん名を使っとるんじゃ」と耳打ちした。
事前に知っていたのか、ヘカテが少女であることに驚く様子もなく、男は緊張に肩をこわばらせながら俺たちを招き入れる。家の中も小奇麗に片付いており、男がそれなりに裕福であることを感じさせた。
「ナナルは――娘はこちらでございます」
そう言って男が俺たちを導いたのは、寝室だった。ずいぶん高級そうな真っ白なシーツが木のベッドを覆っている。膨らんだシーツ越しにわかる病人の体は、小さくそして痩せていた。胸が絶えず苦しげに上下している。枕もとの椅子に座ってベッドから延びる骨ばった手を握っていた女が、翳った顔で黙礼した。
「すまぬが母君、そこを退いてはいただけないか」
ヘカテの老獪な口調に女は少し目を丸くしてから、素直に従った。この外見でどう信頼を勝ち得たのか知らないが、ヘカテはちゃんと魔術師としての地位を確立しているようだ。
女が譲った椅子に腰かけて、ヘカテはベッドに横たわる人物の顔を覗き込む。彼女がシーツを下にずらしたおかげで、後ろに立った俺にも病人の姿が見えた。
熱にうなされて真っ赤な顔をした少女。年齢は俺やヘカテの外見より、幾分か幼い程度。栗色の巻き毛が汗で頬に張り付き、乾いた唇はひび割れて血が滲んでいる。
「ナナル嬢はいつからこの状態かね」
この少女の両親なのだろう、夫婦は顔を見合わせる。小声で話し合ってから、男が答えた。
「ひと月は経っていません。何人か薬師にも見せましたが、わからないと」
「一人目の薬師が役に立たなかった段階で、吾輩を呼んでおくべきじゃったの」
薬師は薬草を用いて様々な効用の薬を調合し、売り歩く商人だ。多くが病の知識に精通しており、軽い病であれば薬師が適切な薬を処方すれば治ることも多い。一方で魔術師は薬はもちろん、時には治癒の魔術をも用いて治療を行う。彼らの手にかかれば大抵の病は治せるが、一方で高額な代金を要求される。
多少裕福そうとはいえ、夫婦にとって魔術師を呼ぶのはぎりぎりの決断だったのだろう。それを決断するのにひと月近くかかったのも、仕方のないことではある。夫婦はヘカテの言葉に、うつむくばかりだった。
「けどおかしいな、俺にはただの熱病に見えるぜ。蒼の王国ではよく見る症状だが、こっちでは珍しいのか?」
難しい顔をして少女の顔を見つめているヘカテに尋ねる。病人が体力のない少女という点は厄介だが、蒼の王国なら駆け出しの薬師でも十分対応できる一般的な症例に見える。ヘカテは小さく唸って腕を組んだ。
「確かにおぬしの言っておる熱病は白の帝国では珍しい。じゃが見ないわけではない。それに薬師はふつう国々を渡り歩くものじゃ、知らぬとは思えん」
とその時、苦しげに眠っていた少女が不意に目を開けた。虚ろな茶色い瞳と目が合って、俺は目を疑った。熱っぽくうるんだ丸い瞳の中央に、絡み合う蛇のような奇妙な文様が浮かんでいる。それを、俺は見たことがあったのだ。
「呪い……⁉」
思わず口に出した俺を、ヘカテは意外そうに見る。
「なんじゃ、おぬし知っておるのか」
「あ、ああ……。これでも兵士だったからな、敵の呪いでやられた味方の一人や二人いるさ」
じわじわと相手を弱らせ、苦しみの末に死をもたらす悪辣な魔術。それで苦しみ死んだ兵士の瞳には必ず、少女と同じように奇妙な文様が浮かぶ。呪われた証なのだと、魔術師が言っているのを聞いたことがあった。
「これはなるほど薬師にはわかるまいよ。病ではないゆえにな」
「あの……、それは治るものなのですか……?」
少女の母親が心配そうにヘカテに尋ねる。呪いなどという聴き慣れない言葉を出されては、不安になるのも当然だ。ヘカテはその不安を払拭するように、ニカッと笑って大きく頷いた。
「安心するがよい。吾輩ならば呪いを解くことなどたやすい」
自信しかないようなヘカテの様子に、母親はほっと息を吐いた。彼女の不遜な態度で客と衝突しまいかと思ったが、案外治療師としては適役なのかもしれない。
俺に背嚢を下ろさせると、パンパンに膨れたそれをごそごそとまさぐる。やがて二色の液体が入った小瓶を一つずつ取り出して、少女に向き直った。また目を閉じてしまった少女の頬をヘカテは優しく撫でた。まるで慈愛に満ちた母親のような手つきで。
「我、汝に捧ぐ 深き淵の如き目覚めにくき眠りを 胎児の如き安らかな眠りを 汝、一時苦しみより解き放たれ幸福に眠れ 我が汝の魂を抱く限り 恐るることなく眠れ 然らば我、汝を守らん」
ヘカテの指先が仄かに光る。朧な陽光にも似た、安心感を抱かされる光はじわりと少女に染み込んだ。やがて荒かった少女の呼吸はゆっくりになり、表情も穏やかなものに変わった。まるで病が治ったかのような少女の姿に、両親はぱっと表情を明るくする。今にも娘に駆け寄ろうとする彼らを、ヘカテは片手で制した。
「焦るでない。治療の邪魔にならぬように、一時的に深い深い眠りに誘っただけじゃ。これからが本当の治療じゃ」
言うが早いか、小瓶の中のねっとりとした液体を指先につける。膏薬のようなそれを、ヘカテは鮮やかな指さばきで少女の顔に塗っていった。と言ってもべたべたと塗りたくったのではなく、指先を使って複雑な文様を描くのである。魔術師が呪いを解く光景も何度か見たことがあったが、俺も初めて見るやり方だった。
「おぬしが思っておるより、この呪いは強力じゃ。本気でやらねば解けぬ」
赤と緑の液体が、少女のあどけない貌を覆い尽くすように這っていく。ヘカテの白い指先が描き出すそれは、不思議と穏やかな愛情を孕んでいるようだった。風にそよぐ草にも、大海の波頭にも見えるそれを描き終えて、ヘカテは俺を見る。
「おぬし、少し魔力を貸せ」
唐突に言われて、ぽかんとしてしまった。莫大な魔力を保持する吸血鬼であるはずのヘカテが、なぜ俺に魔力を貸せなどというのか。
「吾輩の魔力は純度が高すぎるのじゃ。人間に対して流し込みすぎれば、拒否反応が起こるやもしれぬ。その点、おぬしは少なくとも魂は人間じゃから、問題ない」
そもそも魔力を貸すということの意味すらよくわからず戸惑っていると、小さく舌打ちしてヘカテは俺の手を握った。柔らかでひんやりとした、ヘカテの小さな手が俺の手と重なる。そして次の瞬間、身体の中心から何かが流れ出すような強い疲労感に襲われた。
「我、汝を視る 我、汝を知る 我、汝を捕らう 我、汝を破る この者を穢れより解き放ち、我が網に魂を委ねよ 昼夜廻りて交わらず 光陰喰らいて共存せず 歪みて交わらば、此れ過ちなり 即ち万物正しき姿に還りて 不浄を放逐すべし 縛りし縄ぞ今解かるるべし 然らば我、汝を網せん」
少女の肌に描かれた文様が、不穏に赤黒く脈動する。同時に俺の中から何かが急速に失われる。刹那、ふっと文様が消えうせた。ヘカテに手を離され、俺は思わず膝を突く。
「思っておったよりも多く使ってしもうた、すまぬ。大丈夫かや?」
肉体的な疲労とはまた少し違う、全身が均等に酷使されたような奇妙な疲労感。さして心配そうでもない声色のヘカテを睨みながらも、首肯だけはする。それで俺に対する興味は失せたようで、ヘカテは少女の顔をじっと覗き込んだ。
よろよろと立ち上がって、俺もベッドに横たわった彼女を見る。まだ多少頬は赤いものの、熱っぽさは感じられない。呼吸も穏やかで、表情にも苦しそうなところは見受けられなかった。
「安眠の術はすでに解けておる。成功じゃな」
ヘカテがにやりと笑ってそう言うと、両親は半信半疑な歓声を上げる。何人も薬師を呼んで治らなかった病を、魔術師とはいえこんな少女が一瞬で治したといわれて、まるっきり信用できる方がおかしい。
ヘカテは黙って椅子から立って、ベッドから離れた。彼女の意図を察して、俺も背嚢を抱えて隣に移動する。両親は確かめるのが少し怖いような、そんな怯えを一瞬見せたものの、すぐに娘のもとに駆け寄った。母親がおそるおそる赤みの引いた頬に指を伸ばしたその時、
「おかあさ……ん」
なんという偶然か、少女がゆっくりと瞼を開けた。それも先ほどのような何も見ていない虚ろな目ではなく、しっかりと目覚めて母親の姿を認めていた。看病の疲労で隈が刻まれていた母親が、表情を崩す。その目から幾筋も涙が伝い、少女の頬に落ちた。両親にきつく抱きしめられて、少女を不思議そうな顔をしている。その視線が俺をとらえて、なぜか少女はにっこり無邪気に笑った。
「おぬしの魔力を感じ取ったのじゃろう。あの娘の中には今多少じゃが、おぬしの魔力が流れておる。ほれ、笑い返してやらんか」
ヘカテに促されて笑い返すと、少女は幸せそうにまた目を閉じた。
なんだか、不思議だった。少女を直接的に救ったのは無論ヘカテなのだが、魔力を提供した俺に少女が笑いかけてくれること。あの小川の辺で感じたのと同じ、甘やかな郷愁のような何か。心をそっと愛撫してくれるような、優しい温かさが染み入ってくる。
「人が無条件に善を成せることがあるのは、おぬしの今感じておる気持ちを感じられるからなのかもしれぬな」
どこか寂しげに微笑しながら、ヘカテは抱き合う家族の姿を見つめていた。子を成さない吸血鬼には一生訪れない、家庭という温もりを。彼女はやはり人間臭い寂しさを伴いながら、観察しているように見えた。
「悪いもんじゃないな。誰も殺さず、誰かを幸せにできるというのは」
俺らしくもない、と思った。かつての俺なら絶対に口にしなかった、馬鹿みたいに正しい言葉。ヘカテは何も言わなかった。
「ありがとうございました、フェネスール様。本当にありがとうございました」
涙をぬぐいながら、何度も何度も頭を下げる父親をヘカテは無表情で見据えた。あまりに冷ややかなその赤い瞳に、小太りの体がびくりと震える。
「金をもらっておるのじゃから、礼はいらぬ。それより心当たりはないのか」
「心当たり、と申しますと……?」
少女の呪いを見事に解いたというのに、ヘカテはあまり機嫌がよさそうではなかった。少女の回復を喜んでいないようには見えない。何かほかにもっと気にかかることがあるようだ。
「わからぬのか、おぬしの娘御は呪いにかかっておったのじゃぞ。呪いは病とは違う。かけられた者がおるなら、必ずかけた者がおるはずじゃ」
完全に失念していた。ナナルというこの少女はたまたま病にかかってしまったというわけではないのだ。呪いは特定の一人を指定して用いることしかできないと聞く。つまりナナルは意図的に狙われた、何者かに。
「これほどに幼い娘が呪いを使えるほどの魔術師から恨みを買うとは考えにくい。とすれば、おぬしら親が恨みを買っておると考えるのが妥当じゃろう」
「し、しかし、恥ずかしながらわたしの商売などせせこましいものですから……。魔術師の方とお会いしたのは、フェネスール様が初めてでございます」
父親は何か隠している風にも見えなかった。本当に心当たりがないのだろう。吸血鬼が本気を出さねば解けないと言うほどの強力な呪い。それを成せる魔術師ならば、仮にも商人であるこの男が忘れるはずがない。
「本当に、心当たりはないのじゃな?」
彼女も無駄だとわかっているだろうが、念を押すように父親を問い詰める。けれどやはり彼は戸惑い顔で首を振るばかりだった。ヘカテは釈然としない表情のまま、やむなく引き下がる。
「とにかく今後も身の回りには気を付けたほうがよい。吾輩の世話にならなくてよいようにの」
苦虫をかみつぶしたような表情のまま、大股で部屋を出ていくヘカテに両親は深々と頭を下げている。俺は重たい背嚢を背負ってよたよたと部屋を後にした。魔力を奪われたせいもあるのだろうか、ここに来た時よりも背嚢を背負って歩くのがつらい。
「なぁ、ヘカテ」
料金は先払いで受け取っているため、わき目も振らずに依頼者の家を後にするヘカテ。その横に必死に並びながら問いかける。
「呪いって間違って別人にかかることとかはあり得ないのか」
しばらく沈黙してから、ヘカテは躊躇うように口を開く。
「ないことはない。対象の髪と思って媒介にしたら別人の髪じゃった場合などな。むしろ呪いにおいて対象間違いはそう珍しいことではないわい」
「じゃあ、あの子も間違えて呪いをかけられたんじゃないのか?」
なぜヘカテがその結論に至らないのか、俺にはそちらのほうが不思議だった。彼女がその可能性に気づいていないはずがないのに。
ヘカテは難しそうに眉根を寄せて、ため息をつく。自分の疑念を払おうとするかのような、深い深いため息を一つ。
「おぬし、蒼の王国の騎士団に所属しておったのじゃったな?」
「ん、蒼炎騎士団か? 一応騎士団所属ってことにはなってたが。それがどうした?」
「そこに魔術専門の部隊などなかったかのぅ」
蒼の王国の話などして、ヘカテは何が知りたいというのだろう。彼女の意図がさっぱり読めないまま、俺は質問に答える。
「蒼炎騎士団にはなかったが、騎士団とは別に蒼穹魔術師団という組織がある。騎士は魔術は使わず、魔術師は武器を握らないっつー決まりがあるからな」
武器も魔術も使える人間による反乱を恐れた国王が制定した、つまらない法だ。おかげで国内勢力が手柄を取り合うようになり、戦場での連携も糞もあったものではない。俺が死んだ戦いでも、開戦早々に蒼の王国の魔術師が召喚した魔神が両国の騎士を大勢屠った。そのうえその魔神は、白の帝国を総べる《白の皇帝》に単騎撃破されたのだから話にならない。
「けど蒼の王国の魔術師連中は呪いなんて好まないぜ。あいつらはとにかく召喚魔術が大好きだからな」
「はん、おぬしら人間が生み出した魔術でも召喚ほど忌まわしいものはないぞ。魔神などと呼んで無理やり従わせておるが、彼らは異界の神じゃからの。いつか報復をうけるじゃろうて」
愚かしいといわんばかりに肩をすくめて、すぐに表情を戻す。
「それはともかく、吾輩はあの娘にかけられた呪いは蒼の王国の魔術師の手によるものだと思うたのじゃ」
そう予想する根拠は大体俺にもわかった。蒼の王国は白の帝国と戦争中だ。ナナルを狙ったにせよ、誤って彼女に呪いをかけてしまったにせよ、白の帝国に対して呪いを使う理由はある。それから呪いによって発生した少女の病。呪いの効果は「病を発症させる」というところまでで、どんな病かは術者が決められるらしい。するとあの熱病を思いつきやすいのは蒼の王国に暮らす魔術師だろう。
「うむ、まあそういう論理的な根拠もあるのじゃが、なによりも術式の組み方が蒼の王国式じゃった」
俺には知る由もないことが、ヘカテの最大の根拠だった。まさか組み上げた術式を読み取られることまで想定して呪いをかけるとは思えない。すると呪いをかけた魔術師が蒼の王国に関係していることは間違いないといっていいだろう。
「しかし引っかかるのじゃ。あれはただの呪いではなく、呪いをかけた上からその術式を保護するような魔術が重ねてあった。あのような繊細な技が、召喚魔術の使い手に可能とは思えぬ」
「呪いをかけた魔術師だけじゃないと?」
「わからぬ。保護の魔術は特徴が何もなかった。かけたのが一人なのか、二人なのか、それ以上なのか、判断するのは不可能じゃ」
なんだか相当にきな臭いが、その割には一般人の少女一人を病に伏せらせただけだ。術者が蒼の王国の魔術師だとしても、それほどの脅威ではないだろう。第一俺は白の帝国の民でもないのだから、気にする必要もない。
「そうじゃな、所詮は呪いをかける程度のショボイ魔術師じゃ。気に病むこともあるまい」
ずっと不機嫌に顔をしかめていたヘカテが、ようやくそのこわばりを解く。多少引っかかるところがあるにしろ、彼女は少女を一人救ったのだ。もっと幸せそうにしても罰は当たらないと思った。
「それでは次の家に向かうかの」
ずしりと背中の背嚢が重たくなったような気がした。ヘカテが人の悪そうなにやにや笑いを向けてくる。こいつ、意図して言わなかったのか――!
「わざわざ出かけたのじゃ、一度に依頼をこなしておかねばもったいないじゃろう」
荷物のない彼女は軽やかな足取りで入り組んだ細道をたどっていく。急に魔力を奪われていたことを思い出した。忘れかけていただるさで、足が重たくなる。
岩のような背嚢を背負い、幽鬼のような足取りで歩く俺。ヘカテはそんな俺を振り返ることすらしてはくれなかった。やはりあいつは、冷酷な吸血鬼だ。