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剣、閃く  作者: 恋川春待
第二章 剣と平和
7/18

―6―

 川霧が白蛇のように川面にうねる。水の精でも住んでいそうな、澄み渡った小川の辺。俺は早朝の張りつめた風を頬に感じていた。

 芽吹いたばかりの柔らかな草をそっと踏みしめる。まだ白の都は眠りの中にあり、街の外壁から少し離れたこの場所まで人々の気配が感じられることはなかった。

 昨夜、ヘカテは俺に何一つ剣のことを聞かなかった。フレアの屋敷に置いてきてしまったらしく、ヘカテの打ってくれたショートソードも無くしてしまったのに。彼女は俺がこの身体の弱さに気づいたことを知っているのに、一言もそれに触れようとはしなかった。それがヘカテなりの優しさなのか、単純に俺が何をどうしようと関心がないのか。

 いっそ彼女が根掘り葉掘り尋ねてくれたほうが、すっきりしたのかもしれない。まあそれでも俺は、今までにないほど安らかに眠り、そして今ここにいる。

「ったく、なんでこんなところまで朝の散歩に出てきちまったんだか」

 自嘲的に呟いた。わかりきったことだ、以前からの惰性に違いない。毎朝誰よりも早く目覚めては、人気のない小川の辺で走り込みや素振りをしたものだった。剣を握らないと誓ったはずなのに、無意識的に足がそんな場所を探していた。

 上流から流れ着いたらしい枯れ木を拾い上げる。長さはちょうどロングソードくらい、重さはその長さの剣と比べれば幾分か軽い。

 軽く振ってみる。遠心力の加わった木の重みが腕を強く引いて、足を踏ん張らないと自分のほうが振り回されてしまいそうだった。しっくりくる感覚を確かめるように、何度もそれを繰り返す。

 さすがの俺にも、これが未練なのだということはわかっている。もちろんもう一度剣を握ろうというつもりはない。しかし今まで生活のすべてが剣術を中心に回ってきた俺にとって、そのすべてをひとつ残らず放り出してしまうというのは不可能に近かった。せめて朝のこの習慣くらいはなぞり続けないと、俺という存在そのものが希薄になってしまうような恐怖があった。

「それにここまで身体能力が違いすぎるのも、正直困るしな。どのみち少しくらいは鍛錬しないといかん」

 剣をとって戦場で戦うのではないから問題ない、とは言えないのだ。俺は今のこの少女の身体で、自分がどの程度のことができるのか全く分からない。だが元の俺の身体との間には、歴然とした差があることは間違いない。その差異を正確に把握し、できる限り小さくすることは、日常生活にも不可欠であると思われた。

 早朝の空気を引き裂くように、無心で枯れ木を振り続ける。あっという間に顎先から汗が滴った。それほど多くの回数を重ねたわけでもないのに、すでに腕の筋肉が悲鳴を上げている。ついに俺は枯れ木を取り落した。しばらく腕を上げることさえできず、草原に寝転がって空を見ていた。

 まだ東の山脈を焦がすほどの位置にある太陽は、朝特有の白っぽい色で淡く輝く。穏やかな小川の流れがほんの微かに地面を震わして、大地に耳をあてがえば水の流れるとくとくという音が心拍のように聞こえた。ヒバリの番が仲睦まじげに、無軌道に空中を横切っていく。

 平和な光景だった。憎しみも怒りも嫉妬も諍いも、何もない。純粋で無垢な草原に、俺は白い髪を二本の尻尾のように広げて横たわる。ヘカテがにやにやしながら俺の髪に結んだ青いリボンが、さわさわと風にそよいだ。

 ああ、思えば俺は初めてこんな風景を見た。本当は幼いころに見たことがあったのかもしれないが、それはもう思い出せないほど昔のことだ。以来俺はずっと戦いの中に自分を見出してきた。血まみれの大地に立ち、屍を踏みつけてはまた屍を生み出す。そんな冷え切った風景だけを目にしてきたのだろう。

 未練は、ある。

 だがこの平和な世界に、俺は安らかだった。

 朝靄を裂いた一筋の陽光が額を温めた。鳥たちが啼き、やがて皆巣へと帰っていく。結局、どんなに争っても世界はこんな平和なものでできているのだ。

 生き長らえて与えられた肉体が、か弱い少女のものだったのは運命なのだろう。剣鬼とは対極に位置するといっていい無力な少女、それは対極の生き方を俺に示してくれる。剣を棄てて普通の人のように、平和に幸福に穏やかに生きること。それでいいではないか。

 俺は笑っていた。初めは唇を釣り上げるだけだったが、次第に声を出して。少女の澄んだ柔らかな笑い声が、誰もいない早朝の草原に楽しげにこだました。なぜ笑うのか、自分でもわからなかった。

 あるいはかつての自分に対する嘲笑だったか。剣の道を追うことに幸せを見出すこともできず、それなのにそれしか生きる意味を知らなかったかつての俺。他人と思えばなんとも愚かしくて滑稽だった。

 ようやく動くようになった腕をもみほぐして、ひょいと草原から立ち上がった。ぽつぽつと屹立する背の高い木の一本を目印にして、俺は駆け出す。走るほうは昨日路地裏を逃げ回るときに、およそ感覚をつかんでいた。けらけら笑いながら、一心不乱に走る。誰かが見たら、恐ろしく異常な光景だったろう。しかし俺は晴れやかだった。やっていることは以前と変わらない。けれどかつて心を満たしていたような焦りに似た気持ちはなかった。

 目印の立木までたどり着くと、まだ足が動きそうなのを確認して折り返す。全力疾走でもとの川辺まで戻って、俺はまた倒れ伏した。今度は足がまるで動かず、呼吸もなかなか整わない。ただおかげで元の身体とどれほど違うのか、おおよそ把握した。そして別のことにも気づけた。

 はぁはぁと肩で息をしながら、俺はすっかり明るくなった空にまた笑いかけた。

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