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剣、閃く  作者: 恋川春待
第二章 剣と平和
6/18

―5―

「ふむ、てっきり路地裏の悪党にでも挑むものと思うておったが、まさか剣聖との再戦とは。おぬしもなかなかに大馬鹿者じゃな」

 巨大な門を出た途端に横から投げかけられた声に、思わず飛び上がった。ガーゴイルの乗った無骨な門柱に背を預けた黒髪の少女一人。ヘカテは片眉を上げて、鼻を鳴らした。

「その様子ではやはり、まるで相手にならんかったようじゃがの」

 言われて自分のさんざんな有様に気付いた。路地裏でドロドロになってしまったシャツの代わりに、フレアから昔稽古着に使っていたという麻のシャツを借りた。それも今の立ち合いで汗まみれになり、濡れて肌に張り付いた表面は砂だらけだ。ヘカテにもらったレザーアーマーについては、泥と砂で見る影もない。

「……じゃが、肌に張り付いておるのは眼福じゃ。その胸当てを外してみぬか?」

 急に目を細めて舐めるように俺を見る。反射的に胸をかき抱いてしまった。

「お前、女だよな……?」

「吾輩たち吸血鬼は自由に姿を変えられるうえ、生殖行動を必要とせんのでな。人間のように男女の別はほとんどないが、少なくとも今は女じゃぞ」

「外見の話だろ、それは。中身はどうなんだ」

 今は俺だって外見は女である。もしかするとヘカテの距離感がやたら近いのも、言動に恥じらいがないのも、中身がエロ爺だからかもしれないのだ。

「ふぅむ、肉体が少女のものになると思考も多少はその影響を受けるのかのぅ」

 ヘカテは急に真面目な顔になって、ほっそりした顎に手を当てて考え込む。

「おまえは何を言っているんだ?」

「いやなに、おぬしならば『剣の道に男女など存在しない!』とか言いそうじゃとおもっとったからの。貞操観念を気にするのが意外じゃっただけじゃよ」

「馬鹿を言うな、剣の道にだって男女の違いはあるさ」

 決定的な違いがある。男だった俺と、少女になった俺。その間には覆しえない巨大な壁がある。正直なところ、俺にはなぜ女であるフレアが俺を敗ることができたのか、想像もつかなかった。

「ところでお前、どうしてこんなところにいるんだ」

 枯れ草色のマントをまとったヘカテは、額に手を当ててため息をつく。

「おぬしの帰りが遅いから心配で来てやったんじゃろうが。わからぬのか」

 信じがたくてヘカテの顔をまじまじと覗き込んでしまう。あからさまに疑う俺に、ヘカテは不機嫌にそっぽを向いた。

「悪かったの、吸血鬼風情が気を利かせて」

「あーすまん。吸血鬼ってもっと極悪非道な種族だと思ってたから、意外と人間らしいんだなと思ってな」

 ヘカテが俺を生かしたのも、彼女の言葉通りほんの気まぐれに過ぎないと思っていた。だからわざわざ探しに来るほど心配してくれたのに驚いたのである。驚き、そして少し嬉しかった。

 小さく肩をすくめて、ヘカテはマントを羽織りなおした。特に付いてこいとも言わずに歩き出した彼女の後を、俺は慌てて追いかける。フレアの屋敷とヘカテの住処との位置関係が全く分からない俺では、また裏路地に迷い込んでさんざんな目に遭うことは想像に難くない。

「そういえばお前、なんで俺がここに居るってわかったんだ?」

 俺はヘカテにどこに行くと言ったつもりもないし、そもそもフレアの屋敷など俺自身も来るつもりがなかった。ヘカテは大股で歩きながら、こちらに目も向けずに答える。

「おぬしは吾輩の創造物じゃ。いや、創造物というよりも吾輩の分身と言った方がよいか。ゆえに吾輩はおぬしがどこにおるかなど、簡単に分かるわい」

「お前の創造物ってのは分かるんだが、お前の分身ってどういうことだ」

「言っておらんかったか、ホムンクルスは無からは作れぬ。基礎となる血肉がどうしても必要じゃ。吾輩はおぬしの肉体を作るのに、自らの右腕を使った。ふむ、すると創造物というよりも分身というよりも、右腕といったほうが近いのかの」

 俺はヘカテの右腕を観察する。衣服に覆われてはいるが、ちゃんと血の通った腕に見える。少なくとも一見した限りでは、義手のようには思えない。そんな俺の視線に気づいて、ヘカテはからからと笑った。

「いくら見ても腕は腕じゃよ。忘れたのかや、吸血鬼は高い再生能力を持っておる」

「じゃあお前の右腕は、一度なくなってまた生えてきたってことか……」

 こくんと頷くヘカテ。失った部位を取り戻せるなど、想像もつかない。吸血鬼の再生能力のことは知っていたが、それほどまでとは。なるほど、不死の種族といわれるわけである。

「とはゆうても痛みがないわけではないからの。腕一本切り落とすのは、難儀じゃったわい。だからおぬしに簡単に死なれては困る。それだけじゃ」

 どこか誤魔化すような言いぐさで、どうやらヘカテは俺を探しに来た言い訳をしたようだった。雪よりも白い頬にうっすら朱が差している。ひょっとして照れているのだろうか。案外純粋な反応に、くすりと笑いが漏れた。

 ヘカテが真紅の瞳でキッと俺を睨む。血のような沈んだ赤眼で睨まれると、ヘカテの整った顔であっても怖気を抑えられない。そういえば赤目は吸血鬼特有の特徴だが、彼女の右腕から作られたという俺はどうなのだろう。

「別におぬしが吸血鬼というわけではないからのぅ、ごく一般的な茶色じゃよ」

 確かにヘカテのような鋭い牙も持ってはいない。吸血鬼の血肉を持っていても、彼らそのものになりはしないようだ。

「じゃが少しは吾輩たちの特性も引き継いでおるぞ。先刻話した再生能力とか」

「なっ、腕を切り落としても戻るのか⁉」

「そこまでではないわい。致命傷にならない傷じゃったら、すぐに塞がるかもしれんが」

 吾輩も初めてじゃからようわからん、と言う。それだけでも十分に凄まじい力には違いないが、保証がない以上下手に試さないほうがよさそうだ。

 とりとめもない会話の間隙にふと耳を澄ますと、街の喧騒が随分近かった。足元の几帳面な石畳もこの先が中心街であることを暗示する。ヘカテはと言うと、それを気にする様子もなくかつかつと鋭く石畳を進み続けた。

「おい、お前の家はもっと中心から離れたところだろ」

「ついでに買い物じゃ。あまり頻繁に外に出たくないのでな」

「……吸血鬼も何か食べるものなんだな」

 何をいまさらと言いたげに、ヘカテは鼻を鳴らして冷笑する。その時一段と人々の声が大きくなり、俺たちは狭苦しい細道から解放された。

 行き交うさまざま格好の人々。ちょっとした広場ほどの幅がある大きな道には両脇はもちろん、道の真ん中にも雑多な屋台や商店が軒を連ねている。商人の高らかな売り口上、楽しそうに商品を選ぶ連れ合いの笑い声、なんとか値切ろうと粘る客と商人の賑やかな掛け合い――、多種多様な声と音がまじりあって一つの喧騒を作り上げている。俺は戦場以外でこれほどの多くの人が集う場所を初めて見た。

「おぬしは初めてじゃろう? これが有名な《白の商道》じゃ」

 曰く、白の帝国の首都《白の都》の中心を貫くその道で手に入らぬ品はない。曰く、生涯で最も多くの人間を目にしたいのならその道を一巡りしてみよ。

 そもそもここが白の都であったことも初耳ではあったが、目の前に広がる光景に圧倒されそれどころではなかった。驚嘆したまま立ちすくむ俺の手を、ヘカテが気だるげに引っ張る。

「ほれ、いつまで突っ立っておる。早う済ませて帰るぞ」

 それで呪縛からは解放されたが、やはり驚きは隠せない。人ごみではぐれないようにとヘカテに無理やり手をつながれながらも、俺はきょろきょろと辺りを見回してばかりいた。

 繰り返すようだが、壮観である。道行く人々をよく見てみれば、その中には少なからず人間でない者たちも混ざっているのがわかる。薬屋で膏薬を買っている、群青の髪を腰まで垂らした魔術師風の男は、水人(リューノー)だろう。色鮮やかな果実を売りさばいている小柄な商人は、髪の代わりに瑞々しい草が頭から生えている。初めて見たが草人(ノルムル)だ。確かにこの中では一人や二人の吸血鬼が混ざりこんでいても、誰も気づかない。

「おい、店主よ。この腿肉は幾らじゃ」

 俺の手をぐいぐいと引っ張って止まらせると、ヘカテは店の奥の暗がりに向かって問いかけた。なんとも不気味な店だ。店先には血まみれの肉が無造作に置かれているだけで、飾り気は全くない。偶然日当たりの悪い場所に屋台を設置してしまったせいで、なにやら暗澹とした雰囲気が漂っている。店の奥は真っ暗な闇に包まれており、そこにいるであろう店主の姿は見えなかった。

「何を居眠りしておるのだ、値段を言わぬか」

 ヘカテが苛ついた声で急かすと、その闇がゆらりとうごめいた。おぼろな光の中に姿を現した巨体の店主を見て、俺は息をのむ。

 筋骨隆々の大柄な男で、背は見上げるほどに高い。暗褐色の肌は動物の毛皮をはぎ取っただけのような原始的な衣服に、辛うじて隠されている。広い額から突き立った黒い角は、槍の穂先のように鋭い。つまり、店主は洞窟鬼(デヴラル)だった。戦士として重宝されるが、その外見ゆえに恐れられることも多い種である。

「八百ディリス」

 地獄の底から響くような、低く重々しい声で洞窟鬼の店主は肉塊の値を告げる。ここでの相場は知らないが、俺が知る限りでは高すぎる。

「なんじゃと⁉ この程度の肉にそんな金が払えるわけなかろうが。百ディリスじゃ」

 案の定ヘカテは値切りだす。しかし彼女が口にしたのは、あまりに安すぎる金額だった。その値段で肉が買えるはずがない。突飛な値段提示に店主は目を丸くして、巨大な肩をすくめた。

「七百九十九ディリス」

「一ディリス減らせなどとは言うておらん。男じゃったらガツンと減らせ。百一ディリス」

「七百九十八ディリス」

「……吾輩とやりあおうというのじゃな?」

 これだけ強面の店主に、値切りともいえないほどの値下げを迫る客はいまい。しかもそれがかなりの美少女と来ている。誰ともなく二人の戦いの行く末を見物する者が増え始め、次第に人垣ができてきた。

 とてもそうは思えなくてもヘカテは吸血鬼だ。しかも赤目と尖った牙という吸血鬼の特徴を隠してもいない。そんな彼女が大衆の視線にさらされるのはまずかろうと、俺はそっとヘカテのマントを引っ張った。

「なんじゃ、今吾輩は忙しい」

「諦めるか、せめてもう少し常識的な金額を要求しろ。人が集まってるぞ」

「それがなんじゃ、見たい者には見せておけばよい。おぬし、暇ならそのあたりを勝手に見ておって構わんぞ。ほれ、これでも使え」

 ぽんと銅貨二枚、占めて二十ディリスを俺の手の平に乗せる。それなら二十ディリス分譲歩してやれと言いたかったが、ヘカテは値切りあいに戻ってしまっていた。

 仕方がないので、ヘカテの言葉通り近くの店をぶらぶらと覗いてみることにする。俺の汚れた格好と少女であることから買うつもりはないと踏んだのか、どの店でも声はかけられなかった。しかし何気なく細い路地の前を通った時、かすれた声が俺を呼び止めた。

「そこを行く白い髪のお嬢さん、未来を知りたくはありませんか」

 奇妙な台詞にふと足を止める。路地の薄暗がりにむしろを敷いて、汚れた服を着た童女が座っていた。ぼさぼさの金髪は全く手入れされた気配がなく、不揃いな前髪が彼女の目を半ば覆っている。まったく開く様子のないその目に、盲目なのだとすぐに分かった。

「なぜ俺が白い髪だと分かった?」

「わたくしの目は未来だけを見ます。この路地の前を通る貴女の姿を、過去に見たのです」

 ただ頭がおかしいとか、金をせしめるための嘘だというには不思議だった。彼女の盲目が偽りであるように見えない。とすれば、本当に未来を見ているというのだろうか。どちらにしても興味をひかれた。

「未来を知りたいか、と言ったな。頼めば教えてくれるのか」

「もちろんです。それがわたくしの商売ですので。二十ディリスいただければ」

 まるで俺の持っている金額を正確に知っているように、ぴったり要求してくる。やや逡巡してから、俺は言い値を払うことにした。以前の俺ならば、こんなインチキな話に金を払うなどありえないことだった。しかし死から逃げ延びるという奇跡を経験していることもあり、未来が見えるということもあるかもしれないと思ってしまう自分がいる。少女の汚れた手に銅貨を握らせると、指先で念入りに数を確かめている。やはり目が見えないのは嘘ではないようだ。

「確かに二十ディリス、いただきました。それでは、何か知りたい未来はありますか」

「知りたい未来?」

「はい。思い人との行く末から寿命まで、お望みのものを」

 なんでもと言われて、俺は困惑した。こういう予言者というのは普通、見る未来を選べないのではなかろうか。あまりに便利すぎる能力に、一度は好奇心に塗りつぶされた疑念が再び頭をもたげるが、もう遅い。金を払ってしまった以上、彼女の予言を聞こうと聞くまいと返金は望めない。

「なんでもいい、俺に一番必要なことを教えてくれ」

 あえて少し意地悪く答えた。本当に未来が見えるのなら、今後の俺が最も知っておくべき未来もわかるだろうという考えだ。

 少女は慌てる様子も驚く様子も見せず――未来が見えるのなら当然だ――、静かに頷いた。次の瞬間、俺は凄まじい悪寒を感じる。背中を無数の虫が這っているような、気持ちの悪いぞわぞわとした何か。特に少女が何をしたわけではない。彼女はただ閉じた目を俺にまっすぐ向けただけだ。その不可視の視線が、俺の奥深くまで見通すような恐ろしさで背中を這い上がった。

「つい最近捨てたものはありませんか?」

 しばらくして少女はふっと視線を外して口を開いた。

 捨てたものなど、あまりに多すぎてわからない。例えば元の体であり、元の地位であり、単純に言えば持っていたすべてだ。問うておきながらも少女は俺の返答ははなから期待していなかったようだ。口を開く前に、次の言葉が紡がれていた。

「それを拾い直すことができなければ、貴女の母が死ぬでしょう」

 ああ、やはりインチキだったか。落胆と同時に安堵もした。俺の母はとうの昔に他界していて、今更死ぬわけがない。

「おい、俺の母親はもう死んでいるぞ」

 さすがに動揺するだろうと思われた少女は、しかし落ち着き払った様子で口元を(ゆが)めた。見えてなどいないはずの目を俺に向けて、少女は(ひず)んだ笑みを浮かべる。

「貴女にはもう一人母親がいるのではありませんか、血を分けた女親が」

「何を言っている。継母というならまだしも、血のつながった母親が二人もいるわけないだろ」

 よほどこの詐欺に慣れているのか、彼女自身が信じ切っているのか。少女は本当に冷静に俺の言葉を聞き、答えを返す。この様子ではどれほど文句を言い連ねたところで返金してもらえそうな気配はなかった。どのみち、使い道のなかった小遣いだ。見世物でも見たと思って、少女に進呈してやっても構わない。

「とにかくあまりホイホイ物を捨てるなってことだろ? 案外含蓄深いな。気を付けよう」

 自分の予言を侮辱されたと思ったのだろうか、少女は黙って俺が立ち去るのを見送った。しかし路地から大通りへ戻る刹那、

「――もう、貴方は捨ててしまった、イスファリア卿」

 そんな呟きが聞こえたような気がした。

 とっさに振り向く。俺は少女に名乗ってなどいないし、仮に名乗ったとしてもノヴァとだけ名乗り、姓を言うことはあり得ない。ならば、盲目の少女はどうして――!

 振り返った先の薄暗い路地には、誰もいなかった。少女どころか、彼女が座っていたむしろすら残されていない。盲目でなくとも横道のないこの路地から、一瞬で姿を消すことなどできようがない。しかし俺の懐からは確かに二十ディリスの銅貨が消えており、少女との邂逅が白昼夢ではなかったと証明している。

 インチキだとすれば見えない目でどうして俺の髪の色を知ったのかも、わからないままだ。もしかすると少女は予言者などではなく、駆け出しの魔術師か奇術師の類だったのかもしれない。魔術を引き出してくればたいていの奇跡は説明がついてしまうので、俺はそれ以上考えるのをやめた。なんにせよ、二十ディリス程度のことでずっと思案させられるのはもったいない。

 もらった小遣いも使い果たして懐も軽くなったので、ヘカテのもとに戻ることにした。彼女と洞窟鬼の店主の値切り合戦がいまだ決着しないことは、小山のように膨らんだ人垣ですぐにわかる。

「ぬぅぅ、五百じゃ、五百! これでよかろう!」

 ヘカテの甲高い声だけが、野次馬のざわめきにも負けずに届いてくる。店主は相変わらず低い声で短く応答しているのだろう、ヘカテが一人芝居をしているように聞こえる。

 それにしてもずいぶんとたくさん人が集まってしまったものだ。客だけでなく暇な屋台の店主たちまで見物に来ているらしい。バラバラの格好、バラバラの種族が押し合いへし合い、洞窟鬼の強面にも怯えずに白熱した値切りを展開する少女を見ようとしていた。

 草原小人(クヮントゥール)石食い(ボルドロ)など背の低い種族の者は、飛んだり跳ねたりして必死だ。対して水人をはじめとした長身の種族が群衆から頭一つ飛び出しているのが面白い。ふと青髪の水人ではなく、フーデッドローブから消し炭色の髪をこぼしている人間を見つけた。人間で水人に負けない背丈とは、かなり長身の部類だろう。その人物はちょうど興味が失せたのか、踵を返して人の群れから抜けようとする。痩せ型の割に力はあるようで、ずんずんと人波を掻き分ける。

 ヘカテの元まで行きたい俺はそれを利用することにした。偶然長身の人物は俺のほうに向かってくる。その通ってきた道筋を行けば、自ら人垣をかき分けるよりは幾分か楽に違いない。そうして人物の横をすり抜けるとき、かすかにフードの奥の顔が見えた。痩せこけた頬と、青ざめた顔色の不健康そうな男。左目を完全に覆った消し炭の髪が野暮ったい。

 一瞬、その顔にわずかな引っ掛かりを覚えた。既視感といってもいい。この男を、どこかで見たことがあるような――

「おいお前、どこかで……」

 言いかけて思い出した。もし会ったことがあっても、向こうに俺がわかるはずがない。運よく俺の呼びかけもざわめきに掻き消されて、彼には届かなかったようだった。もどかしい気持ちを抱えながら、その後姿を見送ることしかできない。ただ一つだけ、その痩せた頬に張り付いていた歪んだ微笑みが気味悪かった。そういえば、先ほどの予言少女も似たような笑みを浮かべていたような。

 けれど俺の思考は、沸き上がった巨大な歓声に遮られた。

「五百二でよいのだな⁉ 本当じゃな⁉」

 叫ぶようなヘカテの声が高らかに響く。相場より百ディリスほど安い。店主は面白くないだろうが、まずまず常識的な値下げ幅だ。初めからその程度の金額を要求していれば、もう少しすんなりいっただろうに。大きな肉塊を安く手に入れてご満悦のヘカテだが、その間に衆目にさらされていたことを忘れてはならない。

 もともとの強面をさらに仏頂面にした店主に向かって、自慢げに胸を張ってにやにや笑うヘカテのマントを俺は強く引いた。大きな葉で包まれた肉塊を抱えて満足そうなヘカテは、上機嫌で振り返る。

「買い終わったなら、早くここ離れるぞ」

「ん? なぜじゃ」

「周りを見ろ、吸血鬼なのにこんなに人集めていいのかよ」

「………………マズいのぅ」

 無言でぶあつい人垣を見回してから、ぼそりとつぶやいた。さすがのヘカテも理解したらしい。これだけの人数がいれば、中には彼女が吸血鬼であると気づく者もいるかもしれないということに。

「うむ、ダッシュじゃ」

 何か憑き物が落ちたような朗らかな顔で、ニカッと笑う。次の瞬間、ヘカテは目にもとまらぬ速度で俺の腕を掴むと、風のように人垣を駆け抜ける。人の合間を器用に縫っていく彼女はいいが、よく分からないままそれに引きずられていく俺はあちこちに身体をぶつける。

「もういいだろ! 放せ!」

 人垣から随分外れた路地で、ようやく俺は解放された。驚異的な走りを披露したばかりだというのに、ヘカテはまるで息を切らす様子もない。吸血鬼は人間よりも強靭な肉体を持つというが、それも本当らしかった。

「吾輩としたことがついつい余計な注意を引いてしまったわい。肉以外も買いたかったのじゃがな」

 いかにも口惜しげに雑踏を見返って、ほぅとため息をつくヘカテ。走るときに強く握りすぎたのか、肉塊を包む葉の隙間から、赤々とした血液が零れ落ちていた。鮮烈な紅がヘカテの真っ白な手をしとどに濡らす。

「お前、その血を飲んだりしないのか」

 グロテスクで奇怪に美しいヘカテの姿は、おとぎ話に出てくる女吸血鬼を強く想起させた。たった一人で太古の魔術大国《黒の魔国》を滅ぼしたといわれる、伝説の女吸血鬼。そんな連想から、俺はふとヘカテに尋ねた。

 ヘカテは初めて気づいたように、自らの両手を赤く染める血液を見つめる。やがて血よりも赤々とした長い舌でぺろりと手の甲を舐め、顔をしかめた。

「予想通りの不味さじゃな。まったく牛の血なぞ、飲めたものではないわ」

「やっぱりお前も人間の血を飲むわけか」

「人間も悪くはないがの。吾輩は――、いや秘密じゃ」

 中途半端なところで止められて、他愛無い質問のはずが好奇心が頭をもたげる。吸血鬼と言えば人間の血ばかり飲むものとばかり思っていたが。

「折角じゃからヒントだけはやろう。吾輩はもう数百年、血を吸っておらん」

 にたりと妖艶な笑みを張り付けて、ヘカテは言う。そのヒントとやらからはヘカテが何の血を好むのかはわからなかったが、彼女がもうずっと吸血していないという事実は俺をほっとさせた。彼女が定期的に住民を吸血して死に至らせるような、悪辣な吸血鬼だったらどうしようかと思っていたのである。

「そういえばおぬしに渡した二十ディリス、余っておるなら返せ」

 生活に必要なものはすべて吾輩が用意してやるのだから小遣いは必要ない、と断じて手を差し出す。俺はやんわりとその手を押し戻しながら、首を振った。

「余ってねぇよ、一ディリス残らず使っちまった」

 予言少女にぽんと渡してしまった二十ディリスだが、実はそう少なくない額だ。何せ二ディリスもあれば、一人が一日食いつなげる程度の黒パンが買えるのだ。肉というのは都市部では希少なため高額なのであって、それゆえ洞窟鬼の肉屋は閑古鳥が鳴いていたのだろう。

 そういうわけで二十ディリスの大金は、多少市場で買い食いしたくらいで使い切る金額ではない。それを一ディリスも残さず使ったとのたまう俺に、ヘカテは疑るように眉をひそめた。

「何か大きなものを持っとる様子もないし、おぬし一体何に二十ディリスも使ったのじゃ?」

「占いというか、奇術というか、未来を教えてやると言われてな」

 瞬間、ヘカテの表情にわずかな緊張が走ったのを俺は見逃さなかった。変わらず白い手から牛血を滴らせながら、ヘカテは長い牙で静かに唇を噛む。

「それを言ってきたのは、盲目の人物ではなかったか」

 感情を押し殺したような平坦な声での問いだった。質問の形をとっておきながらも、ヘカテはもはやそれを確信しているような。俺は彼女から伝染した緊張に包まれながら、小さく首肯した。ヘカテの牙が浅く彼女の唇を裂く。顎を伝って一筋垂れ落ちた血の滴は、牛血と混じって見分けがつかなかった。

「あくまで可能性の話じゃが、そやつは吸血鬼かもしれぬ」

 あまりに想像外の言葉に、俺は二の句が継げなかった。人間の街に、しかも白の帝国の首都であるこの街に紛れ込む吸血鬼など、当然ヘカテ一人と思っていたのに。

「いや、そう驚くでない。可能性の話じゃと言うたであろう? むろんただの詐欺師である可能性のほうが圧倒的に高い。じゃが――」

 ヘカテは言いよどむ。口に出してしまってそれが本当になるのを恐れるかのような、彼女らしくもない逡巡だった。

「もしそやつが《凶事の予言者(カサンドラ)》なら、この街は――いやこの国が消えるかもしれぬ。あやつはどの吸血鬼よりも、人間を嫌っておる」

「国が、消える……?」

 確かにかつて単騎で一国滅ぼした吸血鬼は確かに存在したという。しかし人間は太古の昔よりは確実に力をつけている。魔術を究め、武術を磨き、吸血鬼一人にこの白の帝国が滅ぼされるとは思えなかった。

「いやそれも可能性の話じゃ、忘れて構わん。それよりもおぬしはどんな未来を聞いたのじゃ」

「なんでもいいから俺の役に立つ未来をって言ったんだが、よく分からないんだよな」

「む、難解じゃったということかの」

「ああ。最近捨てたものを拾うことができなければ母親が死ぬとかなんとか。俺の母親はもう死んでるんだがな」

 小さく唸って、ヘカテは顔をしかめる。どうやら彼女にもこの無意味にも思える謎かけの答えは見つけられないようだった。

「……一つだけ忠告しておこう。吸血鬼カサンドラの予言は、回避しようとすればさらに悪い結果になる」

「それは未来が見えていながら、嘘を教えているということか」

「いやそうではない。あやつは嘘は言わぬ、ただあやつの教える未来は必ずしも最悪の未来ではないということじゃ。ひとり死ぬという未来を回避しようと行動すれば、逆にその者自身も死ぬことになる。そんな最悪の未来はあえて教えぬのだ」

 だがそう言われたところで、俺はあの少女が俺に何を伝えたかったのか全く理解できていないのだった。したがって回避しようとすることも、甘受することもできようがない。

「じゃが、その予言少女とやらが本当にカサンドラなら、そんなわかりにくい予言をするとは思えん。やつはそれを回避しようとしてほしいわけじゃからな」

 それはそれで、俺は何の意味もない詐欺に引っかかっただけではなく無用な心配まで追わされる羽目になったわけである。とんだ不運にもほどがある。

「まあよいわ。カサンドラがこの街におるなら、いずれ動くじゃろう。無為に気を病む必要はないわい」

 手から絶え間なく滴り落ちる牛血を振り払って、ヘカテは空を見上げる。夕焼けが空一面に広がり、ぽかりと浮かぶ雲片さえ血をぶちまけたような赤に染め上げられていた。東の山の端に吸血鬼の瞳によく似た真紅の満月が早くも浮かんでいた。

「なんていうか、不吉な夕暮れだな」

 ヘカテは答えなかった。ただつまらなそうに視線を外して、俺を置いてさっさと歩いていく。歩行速度ですら彼女に劣る今の俺は、慌ててその後を追った。

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