―4―
流石は剣聖の邸宅というべきか。本来精緻な植え込みや咲き誇る花々で住人の目を楽しませるべき中庭は、そういう無用な装飾などすべて取り払われていた。丁寧に整地され、細かい砂が敷き詰められたそこは中庭と言うよりは決闘場と呼んだ方がふさわしい。
下ろしていた長い銀髪を戦場で見た時のように頭の上でまとめたフレアが、細身の木剣を中段に構えていた。俺の手にも彼女と同じ頑丈そうな木剣が一振り。この程度の剣が、俺の細腕にはずしりと重い。
「それじゃあ、始めようか」
フレアが木剣を握りなおすのと同時に、俺はそれを下段に構えた。意外だったのか、フレアは目をぱちくりさせる。確かにこの場合、下段に構えるのは少々常識破りかもしれない。身長はフレアのほうがやや高く、その彼女は中段の構えをとっている。下段に構えては相手の攻撃にほとんど防御叶わず身をさらすということだ。
「ノヴァ、参るッ!」
自らを奮い立たせるように吠えて、剣を下段に構えたまま駆け出した。全力で走っているつもりなのに、驚くほどに遅い。しかし脚力不足に関してはもうわかりきったことだった。これが本物の戦場なら、初撃を放つまでに無様にてこてこと走っていたのでは話にならない。が、これはあくまで模擬戦。フレアも向ってくる俺にいきなり打ち込むような非道はせず、初撃は防御に徹する心づもりらしかった。
一瞬で、とはいかなかったがフレアに切迫した俺は、剣先が地面を擦るほどの下段から一気に下半身に切り上げる。
そのための下段。口惜しいが、今の俺とフレアの実力からかんがみて、フレアが俺に攻撃を当てようと思えば防御などなんら意味をなさない。ならばと、一撃与えるための構えだった。剣で一番防御しにくいのが下半身だ。ショートソードでは十分に防御できず、ロングソードは逆に取り回しが利かない。
――にもかかわらず、俺の剣は弾かれる。
魔法のような、それこそ滑るような足運びでフレアは一歩後退していた。その位置から綺麗に弧を描いて俺の剣を弾き上げる。そのまま流れるように横薙ぎに移行した剣筋を、俺は辛くも剣の腹で弾いた。
「うん、悪くない動きだね。言うほどへたくそじゃないよ、ノヴァちゃん」
それはフレアが手加減をしているからだ――。手加減などという生易しいものではない。彼女にとっては、この程度の剣戟など子猫とじゃれるようなお遊びに等しい。かつて全力でフレアと剣を交えた俺には、はっきりとそれがわかった。
わかっていてこの模擬戦に臨んだわけだが、あまりにも弱すぎる。俺は一切手など抜いていない。全力の、必殺の剣を放っているつもりなのだ。あの戦場で幾度もフレアの肌を掠めたのと、それと同じ斬撃を浴びせるつもりでいるのに。
フレアの剣の脇をすり抜けるように刺突を放つが、これも容易く防御に追いつかれる。そこからしなやかに返される木剣がわずかにこめかみをかすめ、視界が一瞬歪んだ。ノックバックして距離を取ろうとし、足がもつれてよろめくようにして後ろに下がる。たったこれだけで、止まらない汗のしずくが白い髪を伝って滴った。
「嘘はいい、フレアさん。弱者にとってそれは残酷な言葉だ」
再び刺突。当然のようにフレアの細身に届かない剣身を返し、連続した斬撃へとつなげる。
「嘘のつもりで言ってはいないんだけどな」
ぽそりと呟きながら、フレアは軽く剣と剣を触れ合わせる。たったそれだけで俺の剣は吹っ飛ばされそうになった。奥歯をきつく噛み締めて、構えなおした。フレアも深追いすることはなく、俺が距離をとるに任せる。
「ノヴァちゃんは、どうしてそんなに卑下するの。その年で女の子で、それだけ剣が使えれば十分凄いと思うよ」
「……その年でとか、女の子でとか、そんな言葉に甘えられねぇんだよ」
喉の奥がずきずきと鈍く痛むほどに、体が空気を欲している。常に呼吸を整えることなど基本中の基本なのに、それさえもできずにぜぃぜぃと荒い息を吐いた。そんな喘ぎの隙間に言葉をねじ込む。
「昔、一人の剣士がいた」
フレアは静かに剣を構えたまま、じっと俺を見ている。
「そいつは命よりもなによりも剣の道を究めることだけを求めて、そして死んだ。道を究め終えることなく、死んだ」
動かないフレアの剣先。対して俺の持つ木剣は手の震えに合わせて、小刻みに振動する。
「そんな奴に対して、俺はくだらない言い訳なんてできない。俺のような奴が剣の道を穢した言い訳をしたくない」
初めてフレアのほうから踏み込む。剣をわずかに引いて溜めると同時に、砂塵を巻き上げて瞬きするよりも早く俺との空間を詰める。咄嗟に剣の軌道に自分の剣を重ねて防御を試みる。残像すら残して空気を薙ぐ、剣一閃。
「ふっざけたことぬかしてんじゃねーよッ‼」
鼓膜を叩くフレアの怒声と、身体ごと後方に弾き飛ばす凄まじい衝撃は同時に襲ってきた。先ほどまでのじゃれあうような斬撃とは違う、重く体重を乗せた一撃にいともたやすく背中から地面にたたきつけられる。立ち上がる暇すらなく、気づいた時には白昼の太陽を背にフレアが佇んでいた。
一筋の影と化した真黒な顔の中で、穏やかに微笑していた目が張り裂けそうなほど見開かれていた。そこに浮かぶのは――憤怒?
直後、鳩尾に激しい衝撃が響き渡る。フレアが木剣を振り下ろしたのだと理解すると同時に、苛烈な嘔吐感がこみ上げる。そちらは歯を食いしばって飲み込んだが、涙がこぼれるのだけは自分ではどうしようもなかった。
「どうして――」
質問は許されないらしかった。口を開くや否や、脇腹を重たい刺突が打ち抜く。脇をまるごと抉り取られたような痛みに悲鳴すら上げられず、涙をだくだくと流しながらのたうち回った。その間も、フレアの剣が容赦なく俺を打ちのめす。剣聖とまで呼ばれた剣士が、抵抗もできない少女を木剣で殴り続ける。いたぶるように、嬲るように。
「テメェは泣き言しかいえねーのか、アァ⁉ その道を歩むにふさわしい人間になろうともしねーで、最初から放り出して自分を貶めてんじゃねーぞ、阿呆ッ」
まるで別人だった。そういえばごろつきたちを追い払った時も、一瞬粗雑な口調になっていたことを思い出す。
「剣の道を選んだからには、テメェにだってその剣で叶えたい願いがあったんじゃねーのかよ! 何かを願って、だからこそ命を懸けて剣を振るうんじゃねーのか⁉ そんな大事な願いを、簡単に捨てるとか抜かすな、ボケ‼」
身体に走る衝撃が遠のいた。意識だけが朦朧とした思考の海にぽかりと浮かんでいる。ぼんやりと記憶が浮かび上がった。
薄汚い路地裏で、泥を噛んで涙を流す俺自身。これはフレアに助けられた時の記憶だろうか。否、もっとずっと前、まだ俺が剣を握ったこともなかった幼い日の記憶。今フレアにそうされているのと同じように、何人もの少年たちが俺の体を殴り蹴り、いたぶった。そんな光景が眼前に浮かぶ。俺はぼんやりとそれを、外側から見ている。
そうだ、俺はあの時何かを願った。剣の道に掻き立てられるほどの、何かを。だがどうしてもそれが思い出せなかった。俺は彼らに復讐したかったのだろうか。それを可能にするだけの力を欲したのだろうか。今となってはわからない。
「ッ、思い出せねぇんだよぉぉぉっ‼」
だから吠えた。血と胃液の味に満ちた唾液を吐き捨てて、やはり手放すことができなかった剣を折れそうなほど握りしめて。ぼろぼろの身体に鞭を打って跳ね起きる。もう型も小細工も何もない単なる力任せの一閃。それすらも腕力不足で、元の体とは比べるべくもない速度でしかない。
しかしフレアは確かに微笑んだ。微笑んで、緩やかに腕を振る。俺の剣が彼女の胴をとらえる刹那――、首筋にひやりと触れた。
「勝負あり、だね」
ぴたりと首の付け根に添えられたフレアの木剣。これが真剣ならば、フレアが指一本動かしただけで首の血管が赤い花を咲かす。
ふっと身体から力が抜けた。木剣を地面に転がして、自分もどうと倒れた。太陽の白い光が目に沁みる。
「負けか」
「うん。ノヴァちゃんの負け、完膚なきまでにね」
「そうか、俺の完敗か」
なんとなく笑えた。耐え切れずにくすくすと笑うと、フレアにまんべんなく殴られた全身が燃えるように痛んだ。けれどそれすらも可笑しいような気がした。こんなに気持ちのいい敗北など、今まであっただろうか。
「でもさフレアさん、やっぱり俺はあんたの侍従はやらない。剣も握らない」
俺がそう言うことを予想していたのだろうか、フレアは特別に悲しそうにも意外そうにもしないで頷くだけだった。
「ノヴァちゃんに強いることはできないから。でももし気が変わったら、その時はいつでも待ってる」
きっと俺の顔は汗と涙で目も当てられない様子になってしまっているだろう。対してフレアは汗ひとつ流すことなく、涼やかな顔で微笑んだ。
「思い出せないままでいいの?」
囁くように紡がれた言葉。俺は聞こえなかったふりをして背を向けた。フレアはきっと悲しそうな顔をしなかったろう。俺がそうすることがわかっていなかったわけがない。
「いつかまた剣を握りたくなったら、私を訪ねて。そのときまで、預かっておくから」
何を、とは問わなかった。フレアから借りた木剣を柔らかな砂地に突き刺して、俺は両手を空にした。ずっとずっと剣を握り続けていた掌は、妙に物悲しかった。
「さよなら、フレアさん。もう会うことはないさ」
フレアの返答を聞くこともなく、俺は早足でその場を後にする。逃げ出すような後ろめたい気持ちはきっと、気のせいに違いないのだから。