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剣、閃く  作者: 恋川春待
第一章 鬼と聖
3/18

―2―

 フードを目深にかぶってから外に出たが、白昼の陽光が目に突き刺さる。特徴的な白髪はフードの中に収まりきらず、胸の前に垂れている。顔を隠していたところで、これでは身元を隠すのは不可能だろう。ゆえにどちらかといえば眩しい日光から目を守る目的で被ったフードの奥の暗闇から、静かに視線を巡らせた。

 見たことのない街だった。

 ヘカテの住処は外から見れば本当に人が住んでいるのか疑いたくなるような、ぼろぼろの平屋だった。漆喰の壁には無数にひびが走り、よくよく見れば屋根も少し傾いでいるように見える。しかし秩序なく好き勝手に建てられた周囲の家々に埋もれるようにひっそりと建ったその家は、吸血鬼の棲家としてはぴったりかもしれない。

 申し訳ばかりに乱雑に舗装された細い路地を歩きながら、周囲を観察する。辺りの家々はヘカテの住処ほどボロボロではなく、中には頑丈そうな石壁の家まであったりする。けれど煤けたその外観はすっかり威厳を欠いている。おそらくこの区域はごくごく平凡な庶民の住宅が密集しているのだろうと思われた。

 耳を澄ますと、案外近くに喧騒が聞こえた。街の中心部からもそれほど距離があるというわけではなさそうだ。今はそちらに用がないので、あえて喧騒から遠ざかるように進路をとりながら思考を続ける。

 そもそもここはどこの国なのだろうか。時々すれ違う人々の容姿や、彼らが俺の白髪をもの珍しそうに一瞥していくことを考えると、俺が生まれ育った《蒼の王国》からはるか遠くの国というわけではないようだ。だが家のつくりや、人々の服装などに微妙に違和感を覚えるのだから蒼の王国内ではないと思う。

 飛び出す前にそれだけでもヘカテに確かめてくるべきだったかと後悔した。たとえば《赤の公国》では市街での帯剣が禁じられていると聞く。ヘカテが引き止めなかったのだからそうではないと信じたいが、仮にここが赤の公国なら剣を抜く前にお縄になりかねない。

 気づくと周囲の様子はずいぶん変わっていた。

 足元は申し訳程度にすら舗装されておらず、湿った土がむき出しになっている。立ち並ぶ家々もヘカテの住みかと同じ程度にボロボロか、中には廃墟同然のものまである有様だ。どんよりと停滞した空気には、汚物と腐敗の香りが混じっている。崩れかけた石壁に寄りかかって虚空を見つめている老人は、果たしてまだ命があるのか。

 なるほど、貧民街というのはどこの国に行っても共通の姿らしかった。そしてそれならば往々にしているものだ。

「ひぃぃっ!」

 日の光も届かない薄暗い路地から聞こえた悲鳴。迷い込んでしまった旅人だろうか、小奇麗な格好をした男が水たまりに尻餅をついている。路地の出口を塞ぐように陣取り、男に刃こぼれしたナイフを向けるのは、腕に筋肉を盛り上がらせた屈強な三人のごろつきだ。

 あまりにも典型的な「罪のない市民を襲う悪人の図」に、俺は思わず苦笑する。あの旅人には気の毒だが、大都市など少し裏に入ってしまえばこのようなことは日常茶飯事だ。それを知らずにふらふら歩いていた旅人には、有り金すべて奪われる程度の勉強料はいたしかたない。ただ今回彼が幸運だったのは、たまたま俺がそこを通りかかったことだった。

「おい、そこの筋肉ども」

 凄んだつもりだったが、可愛らしい少女の声なので迫力も何もあったものではない。それでもごろつきたちは自分たちのことだとわかってくれたようで、揃って俺のほうを振り返った。

「あん? なんだ、お嬢ちゃん。オレたちになんか用か」

 突然現れた口の悪い少女に、真ん中のごろつきが首を傾げる。ふむ、真ん中のごろつきとか右側のごろつきとか呼んでいると、位置が変わった時に面倒だ。右側からフェルス、ロベール、ノウェンとしておこう。ちなみに前々から気に食わなかった同僚の名前である。

「だんまりじゃわかんねぇぜ、お嬢ちゃんよぉ」

 ノウェンが気色悪い笑いを張り付けながら言う。俺はローブの下でそっと柄に手をかけた。

「へっ、分かったぜぇ」

 不意にフェルスが大声を出す。あまりにでかい声だものだから、ロベールとノウェンもびくりと肩をはねさせた。

「うるせぇな、何がわかったってんだぁ?」

「その女が何かって話に決まってるだろうが。そいつ、娼婦だろうぜ」

 フェルスの言葉に、ほかの二人は納得したように目を丸くする。

「そうかそうか、あんまり若ぇから気づかなかったぜ」

「つまりその薄っぺらいローブの下は……。げへへ」

「だけど悪ぃな、嬢ちゃん。オレたち、見ての通り取り込み中でよ。少し待ってろ、そしたら買ってやるからよ」

 りん、と。剣の鍔が鳴る。

「誰が娼婦だっ、筋肉頭ッ‼」

 全身をひねるようにして一息に抜刀。足をほとんど浮かさない、地面を滑るような運足で急速に間合いを詰め、剣を振りぬく勢いで横薙ぎの一撃を放つ。

 さすがは吸血鬼の剣だ。そのすさまじい切れ味は驚嘆するほかない。なにせまるで手ごたえを感じないほど、ともすれば空振りしたかのような刃の軽さなのだから。

「……なにがしてぇんだ、お前」

 奇しくもヘカテにかけられたのとよく似た台詞が降ってくる。頬をいやな汗が伝った。およそ状況を察しながらも、恐る恐る視線を上げる。

 まったく無傷の三人組。抜刀前と比較しても、誰一人動いていない。彼我の距離は踏み込み一歩で十二分に詰められる程度だった――はずが、俺はその半分も詰められていなかった。当然剣がごろつきたちに届くはずもなく、鋭く空を薙ぐ。空振りしたかのように刃が軽いのではない、空振りしたのだ。

 その身体は見た目通りの能力しかない。ヘカテははっきりとそう言い、あまつさえ身をもってそれを実感したはずなのに。それほどに重要なことがすっかり頭から抜け落ちていたので、どちらが筋肉頭かわからない。

 つまり、俺はおよそありとあらゆる身体技術を失っていた。血を吐くような鍛錬の末に自らの身長以上の距離を一歩で詰められるようになった脚力も、剣に威力を上乗せするための腕力も、なにもかも。斬撃の軌道さえ思い通りでなかったのは、腕力の低下によって剣が重たくなっているからに違いない。

 俺は立ちすくむしかなかった。遠く険しい、運が味方してようやく歩んできた道程を、唐突にふりだしまで戻された。それはこれまでの俺をすべて抹消されたに等しいことだった。

「つーか、だれが娼婦だっ、とか言ってなかったかぁ?」

「わけわかんねぇ奴だな、娼婦じゃねぇならなんなんだよ」

 冷や汗を滴らせながら微動だにしない俺を見下ろして、ごろつきどもは怪訝そうに話し合う。やがてロベールが粘着質の笑みを浮かべて手を打った。

「まああれだ。嬢ちゃんは待てねぇようだから、先にいただこうぜ。金もとらねぇみてぇだしよぉ」

 彼らの興味はもはや旅人から俺へと移っていた。ロベールの言葉に、妙案とばかりにほかの二人もうなずく。

「待たせたなぁ、嬢ちゃん」

 フェルスの脂ぎった顔が目の前にあった。生臭い吐息が頬を舐る。フェルスが汚らしい手で俺のフードを取ろうとした刹那、俺は逃げ出した。

 敵が自ら近づいてきたというのに。一歩も動かずとも剣をふるえば、相手は物言わぬ死骸に成り果てたというのに。――俺は、剣を振れなかった。剣を鞘にしまう暇も惜しんで、死に物狂いで彼らから逃げた。

 それなのに一向に彼らとの距離が開かない。向こうはまるで本気で走ってなどいないのに、むしろしだいに距離が詰められていく。心臓がばくばくと飛び出しそうなほどに拍動して、空気を欲する体に対して呼吸が間に合わない。来た道を辿る余裕などなく、もはや自分がどこにいるのか毛頭わからない。角を曲がるたびに行き止まりでないことに安堵し、すぐ背後に迫っている三人の男に恐怖した。

 そんなギリギリの逃避行は、すぐに終わりを告げる。じんじんと鈍い痛みを訴えていた足が、石畳のわずかな段差に躓いた。受け身をとることもできず、思い切り固い道にたたきつけられる。勝手にこぼれる涙をぬぐうこともできず、それでも剣だけは手放していなかった。

 立ち上がることもできなかった。ただ数分全力疾走しただけで、もう肉体は限界を迎えていた。涙を流しながら剣を抱きしめた。誇りとか、体裁とか、そういうものが涙と一緒に流れ落ちていくように思えた。残るのはただ深い絶望と悔しさだけ。

 先頭をやってきたノウェンの太い指が俺の肩に触れたとき――、銀の風が吹いた。

 ノウェンが手の甲から血飛沫を散らして、驚愕の表情で後ずさる。彼の手に刻まれた真一文字の裂傷。それを刻んだ剣が、火花を散らして石畳に突き立てられる。

 その柄に置かれた、傷一つない美しい手。白を基調としたライトアーマーに包まれたすらりとした長身に、そよ風に揺れる銀の髪が彩を添える。意志の強そうな切れ長の両目が、今は怒りの炎に燃えていた。隙の一つもない完璧な立ち姿で、彼女は薄紅色の唇を開く。

「――とりあえず死ねよ、糞が」

 目にもとまらぬ早業で石畳から剣を引き抜き、銀色の刺突を三度。それぞれ頬、肩、額を浅く削られたごろつきたちは、剣士が二度目の斬撃を繰り出す前に一目散に逃げていく。彼らが何をしようとしたかはさておき喧嘩を売ったのは俺のほうなので、これだけコテンパンにやられているのを見ると少し申し訳なくもあった。

「えっと、大丈夫? ひどいことされてない?」

 先ほど耳にした暴言は空耳だったのだろうか。おどおどとした柔らかな声で、剣士は俺を助け起こす。彼女は俺が無傷なのを見て微笑んで、剣を持っているのを見て目を瞠った。ころころと表情が変わる。そんなことに気付くほど、俺は彼女の顔を凝視していた。

「んと……、どうしたのかな。私の顔に何かついてる?」

「あ、いや、そういうわけじゃ……」

 反射的に返すと、剣士はにっこりと笑った。太陽みたいだとか、女神みたいだとか、そういう風に形容される類のとてもまぶしい笑顔だった。

「よかった、黙ってるからしゃべれないのかと思ったよ」

 ロングソードをぱちんと鞘に収めて、彼女は髪を掻き揚げる。錦糸のような長髪が、銀の雨みたいに彼女の肩に降り注いだ。

「キミが無事でよかった」

 本当に心の底からほっとしている声色に、どきっとした。見ず知らず俺のことを、それほど心配してくれたというのか。

「でも服とか汚れてしまったでしょう。よかったらうちの屋敷まで来ない? 服、貸してあげるわ」

「そ、そんな……」

「遠慮しなくていいよ、迷惑だなんて思わないもの。そうだ、一応自己紹介しておくね。私は――」

「〝剣聖〟フレア・フォン・ローゼンクロイツ」

 俺を殺した剣士が、そこにいた。

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