―1―
微かな喧騒が聞こえる。薪が爆ぜる鈍い音が響いた。淡い衣擦れの音と、何者かが忙しく動き回る気配。
瞼が重い。まるで今まで一度も開かれたことがなかったように、きつく視界に蓋をしている。それを無理やりにこじ開けると、飛び込んできた鋭い陽光に目が眩んだ。生まれて初めて光というものを目に入れたように、白い光が引いていくまで随分と時間がかかった。目を光に貫かれたせいか、こめかみに疼痛が宿っていた。
光に目が慣れてようやく自分が質素なベッドの上に寝かされていると知る。高い位置に作られた窓は少し煤けてはいるが、十分に真昼の日光を取り入れて部屋の中を照らし出している。家具と呼べるものは俺が横たえられているベッドと、やや傾いた書き物机、半分以上の引き出しが開きっぱなしのチェストだけ。だというのに、部屋はまったく整った印象がない。所狭しと積み上げられた無数の書物や、正体不明の液体や粉末の詰まった瓶。それらが積まれていない場所も、複雑な文様やら流麗な走り書きやらが真っ黒になるほど書きつけられた羊皮紙におおわれている。
ベッドに吸い付くように重たい身体を何とか起こそうと腕に力を込めかけた時、大きく軋みながら部屋に一つだけの扉が開いた。
「おや、目覚めたかの」
顎に触れる程度の短さだが艶やかな黒髪が、はらりと流れる。窓から差し込む日光よりもなお白い肌に、意図せずも視線は縫い付けられる。しなやかで若々しい肢体を薄衣一枚で覆って、その少女はにやりと笑った。
「どうじゃ? 美しかろう、吾輩は」
十三、四と見えるその容姿に似合わぬ老獪な口調で、少女は俺をからかっていた。底意地の悪い笑みを浮かべていても、決して醜悪に傾かないのは元の容貌の美しさゆえか。
少女は何も言わず目をそらした俺を見て、くすりと笑う。けれどそれ以上は何も言わず、枕元に湯気を立てる木の椀を置いた。香辛料の混ざり合った美味そうな匂いに、口中に唾液があふれる。
「粥じゃ、食うがよい」
だが、俺の中に渦巻く疑問が食欲すら抑え込んだ。ここはいったいどこなのか、お前は何者なのか、あの戦いはどうなったのか、そして――
俺は、なぜ生きているのか。
間違いなく俺はあの乾いた戦場で《白の帝国》の女剣士に胸を貫かれた。その結果は剣を受けた俺自身が一番よく分かっている。どんな魔法薬を使っても助からない。確実に、絶対的に、俺は死んだはずだった。
「どうして――」
目の前の少女に問おうとして発した声は、ひどくしわがれていた。もう何年も声を出していなかったか、生まれて初めてしゃべるかのように。しかしどんなにしわがれて掠れていてもわかる。
俺の喉から出たのは、俺の声ではなかった。
「何の冗談だ、これは……」
俺の声とは似ても似つかない、高くどこか甘くもある声。そんな声を出せるのは俺のような大の男ではもちろんなく、少年ですらなく、思い当たるのは少女しかなかった。
「声だけじゃと思うなよ、己をよく見てみよ」
血のように紅い目を細めて酷薄に微笑する少女の言葉に促されて、俺はベッドに横たわる自分自身の姿を見た。
飾り気のない純白のネグリジェに包まれた細い肢体。狭いベッドにそれでも随分余裕があるほど小さな身体。剣を握り続けたゆえに分厚くなっていた手のひらは面影もなく、青白く血管が浮かび上がる綺麗な両手があった。丁寧に切りそろえられた爪は薄桃色で、ほっそりした指の輪郭はまるで芸術品のようだ。俺のごわついた黒髪とは似ても似つかない真っ白な長髪が二本の尻尾のようにまとめられて胸元に零れている。極めつけはその胸元で、怖くなるほど薄い胸板の上にささやか双丘が確かに自己主張していた。
簡潔に言うと、俺は少女になっていた。
「…………なるほど、ここは地獄か」
確かに少なくない数の人間を斬ってきた。死後に地獄に落ちるくらいは覚悟してしなければならないだろう。けれどこの罰はいくらなんでも、陰湿すぎやしないか。
俺が可愛らしい少女の声でぶつぶつ呟いていると、俺ではないほうの少女がくすりと笑った。ここが地獄ならば、こいつは悪魔か。
「悪魔、とは言いえて妙じゃな。当たっておるようで外れておる」
謎かけのような言葉を繰り返しながら、少女は真っ赤な舌で唇をなめる。ちらりと覗いた彼女の犬歯は、まるで獣のように鋭くとがって長かった。
「まあ、その話は後回しにするとしよう。まずはおぬしの誤解を解いておかねばな」
妖艶に目を細めて、少女は俺の顔を間近からのぞき込む。生ぬるい吐息が首筋を撫で、俺のものよりも少し豊かな彼女の胸部がそっと腕に押し当てられる。
「おぬしは死んでおらん。いや正確には、死んだがここは冥界ではないというべきかの」
「い、意味が分からん」
真紅の瞳を細めて舌なめずりをする少女から目をそらすが、彼女はしつこく俺の顔を覗き込んでくる。
「つまりこういうことじゃな、おぬしの肉体は死んだが、魂は生き残った。というか、吾輩が生かした」
「そんな夢物語、信じられる奴はどうかしてるぞ」
「面倒な奴じゃのぅ、己がここにこうして生きておることが一番の証拠じゃろうが」
確かに自分の胸の奥で力強く拍動する心臓の鼓動を感じる。美味そうな匂いを嗅げば唾液も出た。唇から零れる呼気は温かい。だがそれを行っているのは、俺の身体ではない。こんな少女の身体になって、どうして自分が生き残ったなどと信じられよう。ここがあの世だと思ったほうが、よほど理屈は通っている。
「――それほどに死んでおると思いたいのなら、死ぬがよい」
突然、少女の声が冷たく響く。それはあの時胸に差し込まれた刃よりも、なお冷え切っていた。次の瞬間、怪しげな動きで俺の首元を這っていた少女の指が喉に食い込む。
「ぐげっ――⁉」
少女の細い指が蛇のように首に絡みつき、喉を絞めあげる。その細腕からはとても想像できない怪物のような力は、引きはがすことなどかなわない。呼吸が止まり、世界に靄がかかる。その時俺は確かに死を感じていた。胸を貫いた刃と同じ、冷ややかで容赦ない死の影が小さな身体を蹂躙する。
しかし唐突に、死は離れていった。
「か、はっ……」
わずかに埃の香りが混じる乾いた空気が肺を満たす。絞めつけられていた首には、まだ少女の指の形に熱が残っているようだった。俺を殺しかけた直後だというのに、少女は悪びれる様子もなく唇を歪ませた。
「死にかけたかの?」
少女が何を言いたいのか、すぐに分かった。死にかけたということは、死んでいない。俺はこの身体を殺されそうになって、死にかけた。それは乱暴だが何よりも確かな、ここにいるのが生きた俺である証明だった。
「ふむ、ようやく信じる気になったか」
「信じるには信じるが……。クソッ、余計に訳が分からんぞ。俺が生きてるならこの身体はなんだ」
少女はにたにたと笑いながら、分厚い書物の山へとひょいと腰かけた。本の塔はぐらりと不安定に揺れたが、なんとか少女を支えることに成功した。
「おぬしにも吾輩にも時間だけはたっぷりあるからの、ゆっくり説明してやるわい。ま、吾輩手ずから用意してやった粥でも食いながら聞け」
その言葉を聞いた途端に腹がくぅと鳴った。いかにもこの身体にふさわしい、控えめでかわいらしい音。少女は一瞬目を丸くしてから、声をあげて笑う。彼女がけらけらと身体をのけぞらせるたびに本の山がぐらぐらと揺れて、俺は腹を立てるよりもハラハラしてしようがなかった。嫌味なほどに笑い続ける少女を意識から排除して、重たい身体を持ち上げる。元の身体よりもずっと小柄で、当然体重も軽いはずなのに鉛のように重い。なんとか俺が上半身をベッドの上に起こすと、ようやく笑いのおさまった少女が言った。
「そうじゃ、お互い名前がわからなくてはやりにくかろう。まず自己紹介をせんか」
なるほど、いい加減彼女を「少女」と呼ぶのはややこしくて疲れていたのだ。何せ俺のほうも少女なのだから。そんなわけで俺としては彼女の名前を先に教えてほしいところだったが、少女は先に言えとばかりに促してくる。自分から言い出したのに、なぜ俺からなのだ。不満はあったが意地を張っても仕方がないので、諦めて口を開く。
「ノヴァ・イスファリアだ。蒼炎騎士団の平団員だった」
「蒼炎騎士団、というと《蒼の王国》じゃな? おぬしが平団員とは恐ろしい組織であることよの」
結局俺のことを「おぬし」としか呼ばない少女は、赤い目を細める。何が言いたいのかはおおよそ察したが、何も言わなかった。
「まあよいか。吾輩は――、ん、なんと名乗ればよいかの。名前がたくさんあるものでな」
相変わらず意味の分からないことを呟きながら、少女は視線を宙に迷わせる。
「んー、一番気に入っておるのでよいか。吾輩は、ヘカテじゃ。吸血鬼とかやっておる」
息をのむ。血の色の瞳、獣のような牙、老人のような口調――。なぜ今まで気づかなかったのだろう。それはすべて、吸血鬼と呼ばれる種族の特徴だったのに。
吸血鬼。莫大な魔力をその身に有し、あまつさえ他者の血を喰らうことでその生命すら魔力に変える、魔法を司る種族。尽きることのない寿命を持つ不死者にして、致命傷をも瞬く間に癒す再生力を持つ。性格は凶暴かつ残忍で、彼らにとっては人間をはじめとするあらゆる生命が虫けらに過ぎない。今人間が用いる魔術と呼ばれる神秘の技は、ことごとく吸血鬼の魔法を模倣した劣化版なのだ。偉大だが、忌むべき闇の種族――、それが吸血鬼。
「ななな、なんで吸血鬼が都市の中に!」
「おぬしら人間は吾輩たちがだれもかれも血に飢えておるように思っとるじゃろう? 無害な顔をしておれば、誰も吸血鬼などとは疑いもせん」
ヘカテは積み上げられた本の上からせせら笑う。その姿はまさしくあらゆる生命を踏みにじる吸血鬼に相応しい姿だった。可憐な少女の姿というのが、なんとなく違和感を残すが。
「まさかお前が俺を生かしたのは、人間と戦争でも始めるつもりなのか」
「馬鹿を言うでないわ。たった一人の剣士に負けたようなお主に人間と戦争などさせられるものか。思い上がるのも大概にせい」
安堵と悔しさが同時に訪れる。ヘカテの言うことは何も間違っていない、厳然たる事実には違いない。けれどそれでも彼女の言い草は、俺が歩んできた剣の道を否定するように響いた。
「否定などせん。むしろ興味深いというか、感心しておるというか――。なんにせよ、吾輩が滅多に他者に抱かぬ感情じゃな」
回りくどく煙に巻くような語り口で、ヘカテは饒舌に語り続ける。こうしてみるとただのませたおしゃべり好きの少女にすら見えてくるから不思議なものだ。しゃべりながらもジェスチュアで「まあ、食え」と促されて、俺は枕もとの椀を手に取った。
少し冷めてしまっていたが、温かな粥が身体に染み渡った。ほどよい塩気と香辛料の芳醇な香り。決して豪華なものではなく、むしろ吸血鬼が作るにはひどく庶民的な料理に思えたが、なによりも美味に思われた。
「おいおい、おぬし聞いておるのか」
夢中で粥を掻き込んでいた俺を、ヘカテが上からじとっと睨む。剣呑に吊り上がったその双眸には思わず姿勢を正させる威圧があって、やはり吸血鬼なのだと思う。
「そういうわけじゃから、吾輩がおぬしを生かしたのは気まぐれとか学術的興味とか知的好奇心とか、そんなようなもんじゃよ」
「特に俺に何かさせたいとか、そういうことはないってことか?」
「まったくないのぅ。まあ、せっかくじゃから身の回りの世話と護衛ぐらいさせようとは思っとったがな」
身軽にひょいと本の塔から飛び降りると、ヘカテはつかつかと歩み寄って来た。咄嗟に反応できないでいると、彼女はその白魚のような指をそっと俺の頤にあてがってついと顎を上げさせる。妖しい動きに、ぞっと全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
「っ、何すんだ!」
思わずベッドの隅に這い逃げ、ヘカテから距離を取る。彼女は相も変わらず食えない微笑を浮かべて、楽しそうに俺を見つめていた。
「可愛いのぅ。吾輩もそれなりのものじゃが、やはり少女よりは幼女萌えじゃな。こんな娘に身の世話をしてもらえるとは、これ以上ないほど素晴らしい老後じゃ」
「……中身はむさい男だぞ」
「そんなものは関係ないわい。幼女の一人称が『俺』というのも、これはこれで萌える」
言っていることはよくわからないが、目を爛々と輝かして俺を見るヘカテには鬼気迫るものがある。じりじりとにじり寄ってくる彼女を押し返しながら、俺は問うた。
「そもそもこの身体は何なんだ? 俺の魂がこの肉体の中にあるなら、この肉体にもともとあった魂はどこに行ったんだ」
まさか代わりに死の間際の俺の肉体に入って死んでしまったということではあるまい。ある意味納得ずくの死であった俺の代わりに、こんな若い少女を殺してしまったのでは寝覚めが悪すぎる。
「それについては安心せい、その肉体には元々魂がない」
「死体ってことか? それができるなら、俺の元の身体でも大丈夫だったんじゃないのか」
「焦るでないわ。死体が蘇ったら、それはもはや神の奇跡じゃよ。さすがにこの吾輩でもそこまではできん。その身体はな、吾輩が作ったのじゃ」
「ええと、つまり……お前の娘?」
ヘカテは一瞬ぽかんと口を開けて呆けた。しかしその瞳がぐらりと揺れたかと思うと、腹を抱えて爆笑する。先刻ほど簡単には笑いが収まらないらしく、本人すら苦しそうに目じりに涙を浮かべている。
「くははっ、娘じゃったらよかったになぁ! こんな可愛いのが娘じゃったら、おぬしのような汗臭い男の魂なんぞ入れるものか」
確かにそのとおりであり、そもそもヘカテの娘だとすると元々魂がなかったという言葉と矛盾する。俺の失言であったことは確かだが、そこまで笑うこともないだろうに。
まだぜぇぜぇと荒い息をつきながらも、なんとか笑いを収めたヘカテが涙をぬぐう。笑いすぎて真っ白な頬がほんのり紅に染まっている。無垢なようで妖艶さを秘めた姿に、意図せずも釘づけになる。するとふと目を上げたヘカテと、しっかり目が合った。
「ちなみに吾輩は生娘じゃぞ?」
「知るか、そんなことっ!」
吸血鬼と人間の価値観は大きく異なるというが、ヘカテの言動は度を越してはいまいか。吸血鬼といえど女なのだから、少しくらい恥じらいを持ってほしい。
「実際のところ、吾輩たち吸血鬼は子を成さんのじゃよ。闇から生まれるとか、人間の死骸が吸血鬼になるとか、いろいろ言われておるが、吾輩自身にも自分がどう生まれたかなんぞわかりゃせん」
何か淡い哀愁すら漂わせるヘカテに、俺は何を言っていいのかわからなかった。正直彼女の真意が何一つわからない。今の言葉だけを聞けば、俺を助けることで孤独を癒したかったかのようにも思える。が、目の前の吸血鬼がそんな繊細な悲しみを抱くようには、どうしても思えなかった。
「そんなことはどうでもいいことじゃったな、本題に戻ろうかの。おぬしは――というよりはおぬしの身体はじゃが――人造生命なのじゃよ」
聞いたことだけはあった。魔術師たちが追い求める孤高の御業の一つ、それが人の手による生命の創出。多くの偉大な魔術師たちが挑戦したものの、誰一人として完全な生命を生み出すことは叶わなかったと聞いている。
「そう驚くでない。吾輩は吸血鬼じゃぞ? おぬしら人間が吾輩たちを真似た術でできぬことが、本家本元たる吾輩にもできないなどとはよもや思うまいに」
もっとも吾輩とて完全な生命など作り出せはしないが、と呟く。
「やはり完全に新たな生を生み出せるのなら、それは神の所業じゃからな。肉体を作ることはできても魂は作れん。だがまぁ、そこを心得ておればホムンクルスなんぞ、案外簡単に作れるもんじゃわい」
人間が数百年かけてもたどり着けない高みを、軽々と踏みにじる。俺が魔術を志す者ならば、拝み倒してでもヘカテにこの肉体の精製法を教えてもらったかもしれない。しかし幸運というべきか不運というべきか、俺は剣士に過ぎなかった。
「つまりは俺の今の肉体はお前が作ったんだな? それならひとつ質問させてくれ」
「ん、なんじゃ? なんでも聞くがよいぞ」
「純粋に疑問なんだが、それって作る肉体の造形というか、そういう自由は利かないのか? はっきり言うと、なんで少女なんだ」
「ああ、それは趣味じゃ」
沈黙。
ヘカテは不思議そうに首を傾ける。そんな仕草すら、すこしあざとい。俺はいつも剣を提げている位置にそっと手を伸ばす。指先がほっそりした腰骨に触れて思い出した。そうか、今は剣がないのだった。
仕方ない。小さくため息をついて、手をぎゅっと握る。腿から脹脛へ、つま先へと伝わる力の流れを感じながら、一気に跳躍。握りしめた拳をヘカテの無防備な顔面に叩き込む――。
しかし、俺の身体はベッドの端に腰かけたヘカテに届くことなく、毛布の上に顔面から落下した。
「……何をしとるんじゃ、おぬしは」
毛布から顔を上げると、ヘカテが冷やかにこちらを見下ろしていた。落下した拍子に鼻の頭を擦りむいたらしく、ひりひりと痛む。感じたことのないタイプの痛みと屈辱で視界がぼやける――って、なんで涙目になってんだ、俺は⁉
「あー、言い忘れとったがな、その身体は見た目通りの能力しかないから気を付けるんじゃぞ。あと少々涙腺が緩い仕様じゃから」
「なんだ、その仕様はッ‼」
「うるさいのぅ。じゃから、趣味じゃと言っておろう」
勝手にうるうるする目から涙を振り払って、ヘカテを睨み付ける。けれどぼそっと「それ、余計に萌えるだけじゃぞ」とつぶやかれたので、速やかにやめた。
「……一応聞いておくが、趣味ってどういうことだ」
「言葉通りじゃよ、吾輩の趣味。幼女萌え、涙目幼女萌えということじゃ」
こいつ、いつか殺す。不死身の吸血鬼だとしても、殺す。そんなくだらない理由で少女の身体を与えられたなど、ヘカテを殺害する前に自害しそうになるほど忌々しい。
「ま、まあまあ、そう怒るなて。タイミングの問題もあったんじゃから」
ヘカテはこそこそ俺から離れながら、なだめるような口調で言う。
「まさかおぬしが死んでから、悠長にホムンクルスをつくっとったんじゃ間に合うわけがあるまい? たまたまあったのが趣味全開で作った、その身体しかなかったんじゃ」
納得はできないが、理解はした。それなら初めからそちらの理由を言えばいいものを。俺が殺気を収めると、ヘカテはふぅと息をつく。
「でもそれなら、新しく男の身体を作ればそっちに魂を移せるんだよな?」
少女の身体であることに特別な意味がないというのなら、ヘカテに新しく元の身体に近いホムンクルスを作ってもらえばよい。それにどれだけ時間がかかるのかは知らないが、数十年ということはあるまい。
だが俺がそう言った瞬間、ヘカテの整った貌からあらゆる表情が消えた。怜悧な彫像と化したその顔の中で、血色の瞳が業火のごとく燃え上がる。
「おぬし、死をなめておるな」
唇の端から、尖った牙がのぞく。俺はヘカテの燃え盛る眼から視線を外すことができなかった。背中を氷のような冷汗が流れ落ちる。
「死は二度も見逃してはくれん。魂がその肉体を離れるということは、死じゃ。命は玩具ではない。次に死ねば、おぬしは肉体も魂も、確実に死ぬ」
俺の不用意な言葉を断罪するように、ヘカテはゆっくりと低い声色で告げる。二度はない、と。本来終えたはずの生をまだ続けていられるのは、奇跡なのだと。
俺が心の奥底から湧き上がってくる震えを押し殺しながら頷くと、ヘカテはふっと雰囲気を緩めた。顔には食えない微笑が戻り、先ほどの恐ろしさはもうない。
「別に命を大事にしろとは言わんがの。今までと同じように戦って、戦って、殺して、殺して、そして殺される生き方をしたいのならすればよい。そういう一瞬の魂の輝きに吾輩は惹かれたわけであるしな」
「俺の勝手に生きればいいってのか」
「吾輩におぬしの生き方を決める権利はないからの。吾輩はただの吸血鬼で、神ではない」
俺はどう生きたいのだろう。
ただ剣にのみ生きる価値を見出して、より強い相手を倒すことだけにすべてを捧げたノヴァ・イスファリアはその道の果てで死んだ。ならばこの俺は、どうする? 剣鬼などと謳われたかつての俺ができなかった、普通で平凡な生活を送りたいと願うか?
否、だった。
どう想像をめぐらせてみたところで、剣を握っていない俺など思い浮かばなかった。血にまみれた戦場で刃を交え、敵を斬り、いつか自分も斬られる。そんな生き方しか、俺には考えられなかった。
「剣は、あるか」
俺がそう尋ねることを知っていたように、ヘカテは積み上げられた本の山の狭間から一振りのショートソードを引っ張り出す。
くたびれた革のベルトにつながれたのは、同じく革で包まれた無骨な鞘。握りやすいようグリップに布が巻かれた剣は、一切の装飾がない実用性一辺倒の様相だ。刀身は黒光りする不思議な金属で、光の具合ではほの紅くも見える。刺突にも斬撃にも対応できるほっそりした両刃は、ずっしりと両手に重たく馴染んだ。
「吾輩が打った剣じゃ。感謝せい、吸血鬼が鍛えた剣などそうそう使えるものではないぞ」
刃にそっと指を添えると、それだけでつぅと血が伝った。ひりりとした痛みに、また涙が浮かびそうになるが何とか堪える。
「銘はあるのか」
「そうじゃな、《無銘》かの。《無銘》という銘じゃ、洒落が利いておろう?」
くだらない、と思ったが口には出さなかった。吸血鬼が鍛えたというだけはあって、一見して業物と分かる剣だった。少なくとも、不満を押し殺してもいいと思えるくらいには。
「少し試してきてもいいか」
剣を鞘に収めながら尋ねると、ヘカテはあきれ顔でふんと鼻を鳴らした。
「うら若い女子が白昼から人斬りかの? 色気のないことじゃのぅ、嘆かわしい」
ぶつくさと妄言を吐きながらも、安っぽいレザーアーマーと灰色のフーデッドローブをどこからか引っ張り出してくる。俺の生き方に口出ししないという宣言は本当だったようだ。
「すまないな、色々と」
「フン、感謝の気持ちがあるなら、せいぜいすぐには死なんように努力せい。せっかく助けてやってその日のうちに死んだのでは、つまらん」
「大丈夫だ。街のごろつきなんぞに負けたりはしない」
「どうじゃろうな、驕った者ほどあっけなく死ぬものじゃからな。そもそも今のおぬしは――、まあよい、分かっておるじゃろうしの」
ヘカテのこの言葉を追求しなかったのが、間違いだったのだ。出会って間もないのに彼女の言葉を聞き流す癖がついてしまっていたのがよくなかった。
結局、そう間をおかずに俺は身をもって知ることになる。新しい玩具を貰った子供のようにいそいそと剣を提げて出かけていく俺の背中に、ヘカテが深い深いため息をついた意味を。