―16―
意識が覚醒した瞬間、悲鳴をあげそうになった。
痛む場所を一々列挙するまでもなく、痛まないところなどなかった。魔神の攻撃の前にレザーアーマーなど何の意味もなさず、脇腹と胸に刻まれた深い裂傷からはとめどなく血液が流れて、衣服を真紅に染めている。右足は鉤爪に引きちぎられたか、襤褸切れのようなありさまで立ち上がることもとてもできそうにない。剣戟を受け流したときに負傷していた左肩は、完全に骨を打ち砕かれたらしく、鈍く熱い痛みが延々と絶えることない。頭を柱にしたたかにぶつけたらしく、こめかみの切り傷から零れた鮮血が頬を濡らしている。
魔神は急いでとどめを刺す必要もないとわかっているようで、重たい足音を響かせながらゆっくりとこちらに向かってくる。その背後で笑い続けるカサンドラと、絶望に顔を染めたヘカテの姿。俺に気を取られたフレアが巨大なトカゲ型の影に尻尾で殴り飛ばされる。鎧のおかげで傷はなかったようだが、一気に劣勢に立たされる。ルベリアスは優勢に戦いを進めているものの、魔法陣の中では刻一刻と魔神の輪郭が濃くなっていく。
歯を食いしばると、犬歯がぼろりと崩れて血の味が満ちた。止まらない涙が、血と混じり合って顎先から滴り落ちる。
「絶望しましたか、人間。誰も助からない、貴女が吸血鬼を一人助けようとしたために、誰も助からない。そんな運命に絶望しましたか」
舌なめずりしながら、カサンドラが嬉々として問うてくる。歯を食いしばれない俺は、こぶしを握りしめた。その時、右手の中のひやりとした感触に気付く。
これほど傷だらけになって、柱にぶつかったときに衝撃も受けただろうに、俺はお気に入りの玩具を手放さない子供のように《無銘》を手放していなかった。
フレアは言った、剣を手放さないことが剣士の証明だと。だから俺は無理やり涙を止めて、血にまみれた顔でカサンドラを見返す。
「絶望した時は、負ける時だ。剣士であれば、どんな状況でも絶望などしない」
「愚かな人間です。貴女がここから生き残る未来はありません、絶望してもしなくても。ならば最期に残酷な運命を呪いでもすればいいものを」
カサンドラの言葉など聞いてはいなかった。ただ俺はヘカテを見つめていた。いつもあれほどに飄々としているくせに、今は泣きそうな顔をしている。まるで本当に見た目通りの少女のようだ。心優しく明るい、ただの少女。その顔に笑顔はない。
俺は守りたかった、その笑顔を。吸血鬼でも人間でも関係ない。ヘカテとともに生きて
いける世界を。
ただ守りたかったのだ。
「だから――っ」
願う、願う、願うッ‼ 強く強く強く強く! この手で彼女を守るため、ぼろぼろになった身体で俺は立ち上がろうとする。願いはもう動かない腕を動かし、疲弊した足を前に進めるものだと、願いを忘れたころの俺は聞いた。それが嘘でなかったと証明しなければならない。俺の願いに、それだけの力が、価値があると証明しなければならない――ッ。
柱に背を預けるようにしてずるずると左足だけで立ち上がりながら、俺は思わず歯を食いしばっていた。尖った犬歯が、唇を裂いて血が迸る。……え?
「あ、れ……?」
折れたはずの犬歯が、ある。
身体中が燃え盛るように熱い。《無銘》の放つ熱が、身体に燃え移って来たかのようだ。こめかみにあった鈍い痛みがない。左手で触れるとぬるりと血液は残っているものの、傷跡が消えている。そもそも骨が折れているはずの左腕が、何の痛みもなく動く。
カサンドラが急に表情を変え、困惑を浮かべる。
「な、なんですか。未来が、未来が見えない……?」
ヘカテは目を丸くして俺を見ている。その真紅の瞳の中で、俺の目が一際濃い紅に見えた。口元からは尖った牙がのぞいているようにも見える。そして何より、全身の傷が治っていた。
衣服は血まみれで、流れ落ちた血はまだこびりついている。しかし、もう血を流す傷はどこにもない。原型をとどめていなかった右足すら、いつの間にか元の形を取り戻している。
どうしてとか、この身体は人間なのか吸血鬼なのかとか、そんなことはどうでもよかった。重要なのは、もう動けないと思っていた身体が再び動くということ。そして《無銘》が血の色に燃え盛っているということ。
心は凪いでいる。揺れ動かない気持ちで、剣を振る。それが剣の道。
静かに《無銘》を中段に構える。血の色の刃から、目に見えない血液が流れ込んでくるように感じた。肉体が再生しても大量の出血は十分ハンデとなりうる。しかし今はそんな倦怠感すらもまったく感じなかった。全身に満ち溢れる、懐かしい感覚。
魔神は急にまとう空気を変えた俺を品定めするように立ち止まる。それでいてその大剣は油断なく構えられている。奴も剣士なのだ、と思う。だからこそ剣を弾き飛ばされたときに動揺した。ならば、目の前の魔神と俺とは同類なのかもしれない。
「剣士ノヴァ、参る」
地面を蹴る。一歩で魔神までの距離を一気に詰め、俺の三倍ほどの身長を誇る魔神の腹部に切りつける。しかし鋭く切り返された大剣が神速の一撃を弾き返す。幅広で分厚い大剣は盾としても機能する。剣鬼と呼ばれた男でも魔神に力で勝ることは不可能だ。反応された段階で、もはや攻撃は通らないものと思っていい。素早く、速度で勝る以外の方法はない。とにかく速
く、追いつけないほどの斬撃を。しかし魔神は凄まじい反応速度で防御してくるうえに、その頑強な肉体は軽い斬撃程度では弾き返してしまう。
仕切りなおそうと一歩下がれば、隙ありとばかりに横薙ぎの斬撃。鋭く後退しながら、軽く切り払ってそれをやり過ごすも、大剣を片手で操る魔神は右手も攻撃に使ってくる。先ほどいやというほど体感したその破壊力は地面を砕き、俺はますます動きにくくなった。
俺は押されていた。肉体を再生し、《無銘》から流れ込む剣鬼の恩恵を受けてもなお、魔神と互角ですらなかった。魔神は遥かに強く、俺はそれと比べれば弱小な存在だった。
「弱さ……」
俺は力で魔神に敵わない。俺の力は、弱い。
俺は一撃の破壊力で魔神に敵わない。俺の攻撃は、弱い。
弱さを受け入れ、強さと成す。ならば俺はどうすべきなのか。
魔神の攻撃の一瞬の空白。俺は身体に触れるほどに剣を引き寄せ、一本の矢のようにまっすぐ駆ける。全速力の疾走に、しかし魔神は反応する。俺の攻撃を刺突と読んだのか、大剣をまっすぐに突き立て、進撃を阻む柱のように構える。
接触の一瞬前、俺は全力で足を踏ん張って疾走を緩める。魔神がその動きに対応してくる前に、一気に飛び上がる。当然魔神は剣を横にしながら持ち上げた頭部を守ろうとする。しかし俺の狙いは頭などではなかった。空中で体をひねり、落下の向きを調整する。そしてそのまま、全力で切り裂いた。
剣を握る、魔神の指を。
鉤爪を備えた太い指が、三本宙を舞う。影と同じ漆黒の血液が魔神の手から噴き出した。
苦悶の咆哮を響かせて、魔神は大剣を取り落す。半分以上の指を失ったのだから、持つことは不可能だろう。それ以上に俺のような脆弱な生物に指を落とされたことが、驚愕だったのだろうか。怯えるように大きく後ずさる。
「怯える必要などありません! 偶然です、殺しなさいっ!」
聴覚を頼りに現状を把握したのか、カサンドラが魔神を叱咤する。しかしカサンドラは召喚者ではない。魔神はそんな存在の指示など聞くはずもなく、すぐに俺に襲い掛かろうとはしない。これで怒り狂って襲い掛かってくるような低能な魔神だったら俺は死んでいたところだが、読みが当たったというところだ。
俺は魔神が取り落とした大剣に手をかけた。ずしりと重いが、今なら持ち上げることができる。得物を奪われると理解したようで、魔神が牙をむき出して突進してくる。だがもう遅い。
右手に《無銘》、左手に魔神の大剣を構える。重さゆえに自由自在とは言えないが、とりあえずはそれで構わない。突進してくる魔神とぎりぎりすれ違うように、俺も疾駆した。魔神の巨体と俺をとらえようとする剛腕が迫ってくる。しかし怒りに駆られた魔神は冷静な判断力を失っていて、先ほどまでのような正確な距離把握ができていないようだ。鉤爪の先でレザーア
ーマーの胸当てを引きちぎられるが、俺の身体には届かない。
「はあぁぁぁぁっっ‼」
すれ違いざま、俺は大剣を力いっぱい魔神に突き刺した。この巨大な剣で斬撃を放つのは困難だが、移動速度を追加しての刺突なら可能だ。
そのまま大剣の柄から手を放し、速度を緩めず走り抜ける。狙いは状況を把握できていないカサンドラ。大上段に振りかぶって一閃。ぎりぎりで動きを察知されたか、カサンドラは回避行動をとるが、避けきることはできない。俺の斬撃が彼女の右腕に直撃し、切り飛ばされたカサンドラの腕は地面に転がされたヘカテのすぐそばに叩き付けられた。
俺が立ち止ると同時に、背後で轟音。
胸の真ん中から大剣を生やした魔神が仰向けに倒れていた。剣を引き抜こうと持ち上げられた腕が、指の先から灰になっていく。フレアが相手取っていた影も次々と空気に溶けていった。彼女が賞賛と驚愕の混じった目で俺を見て、笑う。
そのままフレアは反対側に目をやると、持ち前の瞬発力で一気に移動する。俺が振り向いた時にはすでに、フレアの剣閃がジェヴレの胴を両断していた。彼は何が起きたか理解できないように片方だけの目をぎょろぎょろと動かしてから、こぽりと血を吐いて動かなくなった。召喚魔術の停止で戸惑うように動きが鈍くなった影を、ルベリアスが一瞬で掃討する。
初めて、ロザーリの星見台に静寂が舞い降りた。
「くふっ、くふふふ、ははは、あははははっ‼」
それを破るのは、狂気に満ちた笑い声。
失われた右腕の傷口を左手で押さえながら、カサンドラは歪んだ顔で笑う。腕を再生しようとぼこぼこ泡立つ傷口のおぞましさも加わって、彼女の姿は見る者に否応なく吐き気を催させた。
「……人間を甘く見たな、カサンドラ」
笑いすぎてぜぃぜぃと肩で息をする彼女に、俺は言う。人間に未来を変える力がないと思い込んだ未来視の吸血鬼は眷属さえ失い、ひどく孤独に見えた。
「甘く見た? 何をおっしゃるのですか」
孤独でいながら、なぜかカサンドラの表情から余裕の色が消えない。まるでこれでもまだ予定通りなのだといわんばかりに。
「わたくしが笑っているのは、貴方たちがどれほど足掻いたところで未来は変えられないという皮肉についてですよ?」
「お前はもう一人だ。魔神は滅びた、眷属は死んだ。これ以上何ができる」
「あの魔神など所詮一時の押さえに過ぎません。それにジェヴレには元々死んでもらう予定でした。死ななかったとしても、わたくしが殺しました」
元人間の眷属など汚らわしくてそばに置いておけません、とうそぶく。彼女のその余裕がど
こから来るのか、俺にはさっぱりわからなかった。カサンドラはにたにたと笑いながら、魔法陣の方を指さす。
「――わたくしの目的は初めから、アレです」
俺と同じようにそちらに目をやったフレアとルベリアスが息をのむのが分かった。
魔法陣の光が、消えていなかった。
術者であるジェヴレを失ってもなお、それは血の色に輝き続けていた。もちろんそこに浮かび上がった魔神の輪郭も消えてはいない。消えていないどころか、何か自分を封じ込める殻を破ろうとするかのように激しく暴れている。
「魔術が、暴走してる……」
フレアの呟きが、茫然と響く。
ここはロザーリの星見台。異常なほど自然界の魔力が集中する地である。膨大過ぎる魔力は、時に魔術を術者の制御下から外し暴走させる。実際にこの星見台はかつて魔術の暴走によって破壊されたのだ。
カサンドラの狙いはそれ。未来を見る彼女はここで儀式をすれば暴走することがわかっていた。暴走し、誰にも制御されなくなった魔神はもはや自然災害と同じ。いや、脅威だけでいえば災害をはるかに凌ぐだろう。それも白の都からほど近いこの場所、この巨大な魔神だ。少なくとも白の帝国は国家としての機能を失うだろう。あるいは隣国すら巻き込んで滅びるかもしれない。
「さぁさぁ、絶望してください。絶望しなければ敗北しないなどという世迷い言はもう結構です。戦いたければ戦いなさい。そして絶望して死になさい!」
「――世迷い言を申しておるのは、おぬしじゃ」
カサンドラの表情が固まる。俺も感じていた。突然膨れ上がった魔力。魔法陣の中で暴れる魔神の魔力すらもかすむほどの、無限とも思える魔力の渦。その中心には、一人の少女がいる。
「ヘカテ、なのか……?」
足元には千切れた縄。闇色のローブは紛れもなく、ヘカテがまとっていたもの。顔立ちももちろん見慣れたヘカテのものだ。それでも俺が問うたのは、彼女の目と牙ゆえだった。
真紅という言葉では足りない。血の色、真正の赤、いや違う。ただただ赤い。見たこともないほど赤く、恐ろしい双眸。赤い赤い瞳は、あまりの恐怖で直視することができない。
そして牙。吸血鬼は獣のような牙を持つというが、あれほど長く鋭い牙を持つ獣などいない。唇の隙間から外へと這い出した真っ白な牙は、逆らうことを許さない捕食者の証。その牙は獲物の青白い肌を突き破って、あふれる血を吸い上げる。すでにずいぶん吸血された様子のカサンドラの右腕は、その場で灰になって消えた。青い炎すらあげない、完全な死。
「久しぶりに吸うた血がおぬしのものとはのぅ。それはともかくとして、やはり同族の血ほど
美味なものはないわい」
吸血鬼の血を吸う吸血鬼。吸血鬼が血を吸うのは生物の持つ魔力を効率的に増幅すること
で、自らの魔力を回復するためだという。では吸血鬼の血がそもそも内包する莫大な魔力を、
さらに効率的に増幅したなら? そこから得られる魔力はいったいどれほどになるのか。
カサンドラは声も出せずに、唇をわななかせるばかり。今のヘカテと比べたら、カサンドラなど人間の少女と同一にすら見える。
ヘカテは圧倒的な存在感をまとったまま、悠々と俺のほうにやってくる。その赤すぎる目に見詰められたが、今だけは不思議と恐怖を感じなかった。
「吾輩だけでは魔力が足りぬ。おぬしの魔力を貸せ」
あの時と同じことを、今度は少し微笑んで言う。今度こそ俺の魔力なんてあってもなくても変わらないだろうにと思うが、黙って彼女の手を取った。
ヘカテの手はやはりじんわりと温かい。その柔らかで温かで柔らかな掌は《無銘》よりも、さらにしっくりと心地よい。平凡な友人同士のように、静かに指を絡めて魔法陣のほうへ向かう。
「おぬしの手はいつも温かい」
その瞳に渦巻く不思議な感情はなんだろう。俺の胸に宿る気持ちと同じならいいのに。
「お前の手がいつも冷たいときに温めるためだ」
「……馬鹿者」
ヘカテの白い頬がほんのり薄紅に染まっているような気がした。気のせいかどうか確かめる前に、魔法陣の端につく。ヘカテの強大な魔力を感じるのか、暴れ狂う魔神。ヘカテは魔方陣にそっと手をかざした。同時に繋いだ手からなにかが流れていくのを感じた。俺とヘカテの間が、その何か温いようなものでつながったように思えた。
「もう吾輩の大切なモノを傷つけないでくれ」
たった一言。懇願の言葉。
それだけで巨大な魔方陣と魔神の輪郭が砕けた。
硝子が砕けるのに似た澄んだ破砕音を聞きながら、俺はゆっくりと意識を手放す。
ヘカテの手と腰の《無銘》だけが、ほんのりと温かかった。




