―15―
白い世界。ぼんやりとした視界に、淡い色の光がゆらゆらと浮かんでいる。
そういえば、以前この場所に来たことがあるような気がした。ずいぶん前のようで、つい最近のような。そうだ、フレアに殺されたとき、俺はこの場所に来た。あらゆる自我を失ったまま、ぼぅっとこの風景を見ていた。
俺はまた死んだのだろうか。鉤爪が生えた魔神の巨大な手で地面から掬い取られて、柱の一つに激突したところまでは記憶がある。全身から血が出ていたような気がするし、身体がぴくりとも動かなかったような気もする。
まあ、あの脆弱な少女の肉体で魔神の一撃をまともに喰らったなら、まず死んだだろうと冷静に分析する。自分自身すら守るなどとルベリアスに豪語し、死にはしないとフレアに誓ったのに、なんて馬鹿で愚かだったのだろう。
俺はすっかり忘れていたのだ。俺は弱いのだということを。それを受け入れなければならないという、ルベリアスの言葉はすっかり失念してしまっていた。弱さを忘れ、魔神を翻弄できるなどと驕った。思えば魔神が単純な斬撃しか放ってこなかったのは、この腕による攻撃を確実に当てるためだったのかもしれない。ヘカテも言っていたではないか、魔神は異界の神なのだと。神を獣か何かのように勘違いした俺はなんと考えが浅かったのか。
痛みも何もない。あるのはうすぼんやりとした意識の断片だけ。きっとこれもすぐに消えてしまうのだろう。俺に二度目の救いはない。死は二度も俺を見逃してはくれない。
『無様なものだな』
くぐもった声が聞こえて顔を上げた。いや、この世界で肉体があるのかどうか俺自身にすらわからない。なんとなく顔を上げたような気がしたというべきか。とにかく視線を上に向けた。そこにあやふやな人影のようなものが佇んでいる。
「死なんて、誰だって無様なものだろうが」
人影は笑うような声を上げた。肩が上下しているので、実際に笑っているのだろう。
『なるほどな、俺もそう思う』
「俺は二度無様に死んだ。そんなもんだ。結局どうしたって無様に死ぬほかない」
『俺は一度無様に死んだ。お前も一度無様に死んだ。だが、お前にまだ二度目の死は訪れていない』
「死んだ者と一緒にいるんだから、死んでないわけがないだろう」
人影はしばらく黙り込んでから、小さくうなずいたようだった。
『一理ある。では言い換えよう、俺は死んではいない』
「意味が分からん。どっちだ」
『お前が生きている限り、俺が完全に死ぬことはない。この生と死の狭間の世界を漂い続けるのだ』
「ますます訳が分からないぞ。お前は誰だ」
『俺はお前だ』
俺が見えない眉を訝しくひそめると、人影は肩をすくめてゆらりと揺れた。ただの黒い人影だったものが、光を当てたように鮮明になる。そこに浮かび上がったのは、見慣れた立ち姿だった。
『俺はノヴァ・イスファリアだ。よう、ただのノヴァ』
常に何かを睨んでいるような切れ長の目が、わずかにほころんで俺を見る。フレアの剣で死ぬまで、毎日ともに過ごしてきた俺自身の姿がそこにはあった。
「なるほど、わかったぞ。お前、俺の肉体か」
『半分正解だ。肉体に大した価値はない。死んだらいずれ朽ち果てるだけだ。俺は元のお前の肉体に残った、ノヴァ・イスファリアの魂の残滓のようなものだ』
「だが残った肉体も、もうないだろう。墓場で朽ち果てているか、戦場で朽ち果てているかどちらかだ」
もう一人の俺は、うざったい笑みを浮かべてちっちっちと指を振る。俺、こんなにいらつく奴だったのか。
『俺にしては考えが浅いな。俺がこうしてここにいるのだから、そのどちらでもない』
俺は――ノヴァ・イスファリアの方の俺は――自分の右手をひらひらと揺らして見せる。
『俺は、というか俺の肉体は、今お前の右手にいる』
ふと、何も感じないはずの右手がひんやりとした感触を伝えてきた。ひんやりと掌になじむグリップと、その先で激しく熱を放つ刀身。
「《無銘》……?」
『あの吸血鬼も面白いことをする。ノヴァ・イスファリアの魂を拾い上げただけでなく、死んだ肉体すらも魔法で剣に加工しやがった。魂の残滓である俺を残したままな』
見たこともない金属であるはずだ。人間の肉体から作られた剣など見たことがあるはずがない。ヘカテがもう二度と同じ剣は打てないと言っていた理由も、今ならわかる。これも当たり前のことで、俺の肉体は一つしかないのだから。
おそらく奇妙なほど手に馴染んだのも、俺の心に応えるように熱を発したのも、まさしく俺自身だったからなのだ。
『お前が俺を手放すとは驚きだったがな。同じ魂を持っているはずなのに考えが違うのは、どうしたことかね』
「そりゃ、入っている身体がこれだけ違えばな」
肉体の方の俺――便宜的に《無銘》と呼ぼう――はなるほどと言って、楽しげに笑った。俺
はこんな風に笑っていたのか。自分が笑うのを客観的に見るというのも、なかなかに特殊な経
験だ。
『ああ、それでお前のその少女の身体だがな、もうそう長くはもたねぇぞ』
「そんなこと知ってるにきまってるだろ。だがどうしようもない」
《無銘》は急に真剣な表情になって、しばらく口ごもった。指がしきりに腰に差した剣の柄を撫でている。なんとしゃべっていいか迷ったとき、自分がいつもそうしていたことを思い出した。
『俺は魂の残滓みたいなもんだといったが、正確には少し違う。ただの魂じゃ、肉体にこびりつくほど強くは残らない』
「じゃあ、お前は俺の何なんだ?」
『――願いだ』
大切な人を守りたいという、願い。俺は願いなど忘れてしまったと思っていた。けれど、忘れてしまったとしても、それは確かに俺の中にあったのだ。死んでも肉体に残り続けるほど、しぶとく生き抜いていたのだ。
『俺とお前は当然だが、同じ強い願いを抱いている。だからお前が強く強く、本当に強く願ったとき、俺はお前に共鳴する』
「共鳴して、それでどうなる?」
『俺はノヴァ・イスファリアだ。俺が持っていた身体能力は、今俺が持っている。どれほど共鳴できるかわからんが、もしかすると俺の力をお前に貸してやれるかもしれん』
少女の姿になって最も足りなかったもの。それは生前に持っていた肉体の力。先ほどの戦いでも少女の姿でさえなければ、もっとうまく立ち回れたのは自明のことだ。《無銘》も確証は持てないようだが、それができるならば大きな切り札になるかもしれない。だが――
「無意味だよ。ノヴァ・イスファリアは剣鬼と呼ばれたが、吸血鬼じゃない。再生能力なんてないんだ。いくら俺でも、これだけぼろぼろの身体じゃ動くこともできん」
『だがお前はノヴァ・イスファリアじゃない』
《無銘》は断言する。そういえば先ほども自分のことを「ノヴァ・イスファリア」と呼び、俺のことは「ただのノヴァ」と呼んだ。
『俺にはないものがお前にはある。お前は俺自身であり、同時に俺の娘でもある』
「そんな風な回りくどい言い回しは俺は好かないがな」
『だから明確に俺自身であるわけではないと言っている。お前には、俺にないものがある』
次の言葉を紡ごうと動いた《無銘》の唇が、ざざっと歪んだ。いつの間にか彼の指先はまた黒いただの影に戻ってしまっている。
『時間切れのようだ。お前の肉体が目を覚ます』
「ちょっと待ってくれ、最後まで――」
『願え、強く強く。かつて願ったようにな』
俺の言葉をさえぎって、結局それを最後に《無銘》は世界に溶けてしまった。同時にぼんや
り光っていた視界がぐるぐると回り始める。曖昧な世界は急速に遠ざかって行った。




