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剣、閃く  作者: 恋川春待
第三章 剣、閃く
15/18

―14―

 ロザーリの星見台。

 太古の神殿を模したような建物は、ほとんど崩れ落ちてしまっている。凝った意匠の施された柱が何本も、天に向かってそびえていた。岸壁を削るようにして作られたそこに向かうのは、あちこち崩落した石の階段。おそらく馬で乗り付けることを想定した道幅だったのだろうが、これほど崩れてしまっていてはとても馬での侵入は不可能だ。

 ようやく階段の頂上へとたどり着いた俺たちは、その寂れた遺跡と相対した。あるいは一人の魔術師と相対したと言ってもいい。

 肩まで伸びた消し炭色の髪はぼさぼさ。血色が悪く青白い頬は落ち窪んでもいて、何やら幽鬼のように感じられる。爛々と輝く左目に対して、右目は黒い眼帯で覆われている。まるで隠れる様子もなく、俺たちが来るのを知っていたような顔でにたりと笑ったそいつを、俺は知っていた。

「リヒトー=ジェヴレ――」

 俺ではなくルベリアスが、魔術師の名を呟く。

 蒼の王国《蒼穹魔術師団》。王国でも随一の魔術師が集まったその組織で、副団長を務めるのがリヒトー=ジェヴレという魔術師。強力な召喚魔術を得意とするとは聞いていたが、騎士団所属の俺は遠目で見たことしかなかった。

 いや、実はすぐ近くで一度会っていたのだ。そう、ヘカテが肉屋相手に激しい値切り合戦を繰り広げたあの時、こいつは野次馬の中にいた。これほど特徴的な外見の人物を、あの時思い出せなかったことは痛恨のミスと言っていい。仮にあの時気づかずとも、呪いの魔術が蒼の王国式だと聞いたとき、襲撃者の口から「ジェヴレ様」と出たときに気付くべきだったのだ。

「本当に三人だけで来るとは思わなかったが、愚かというべきか勇猛というべきか」

 俺たちが来ることを予期していたとしか思えない台詞を呟いて、ジェヴレは歪んだ笑みを浮かべる。

「白の皇帝御自らと、剣鬼を葬った剣聖か。これはまた壮々たる顔ぶれだな」

「久しぶりだね、ジェヴレ。まさか副団長自ら斥候をするとは思っていなかったよ」

「軍を連れずに出撃する皇帝よりはマシだろうさ。俺の召喚した魔神を一人で倒したのなら、必要ないのかもしれないがね」

 ジェヴレは笑っているのかよくわからない表情に顔を歪めた。俺が死んだ戦いで魔神を召喚し、それを白の皇帝――ルベリアスに単騎撃破されたのはこのジェヴレだ。ゆえにルベリアスに対しては浅からぬ恨みもあろう。

「おかしい、魔神はどこにいるの?」

 フレアが目だけで周囲を警戒しながら、訝しげに囁いた。確かに妙だ。街の外壁からでも確認できるということは、ジェヴレが今召喚している魔神はそれなりの大きさがあるはずだ。それなのに星見台にはジェヴレ以外には、何もいないように見える。

 だが、ルベリアスは動いた。

 まだなにか語ろうと開きかけていた口を閉じ、一瞬で背負った槍を引き抜く。それを包んでいた布が風に舞って、俺は初めてルベリアスが木槍でない武器を持った姿を見た。鋭利で分厚い穂先を備えた、黒光りする長槍。ルベリアスは突如それを防御姿勢に構える。

 俺はもちろん、フレアさえもその意図が理解できないようだった。しかし次の瞬間、金属同士が重くぶつかる甲高い音が響き渡り、ルベリアスは砂煙を立てて激しくノックバックする。

 何が起きたのかはすぐに分かった。先ほどまで何もなかった空間がゆらりと揺れて、大剣を振り下ろした姿勢から巨大な影が立ち上がる。巨大な体躯に禍々しい山羊の頭を備えた魔神が、二振りの大剣を構えていた。隠蔽系の魔術で姿を隠していたのだろうが、この巨躯を隠す技術と同時にまったく気配を感じさせない卓越した技量。一方でそれすらも事前に察知したルベリアスは、もはや俺の理解の範疇を超えている。これが、魔神を倒した男。

「っ、正直今のは危なかったよ。まだ手が痺れてる」

 不可視の一撃を見事に防御したが、その衝撃までは殺しきれなかったようだ。ルベリアスは苦々しげに言って、痺れをとるために手を振る。

「ふむ、初撃で貴殿を屠っておきたかったのだがな。吸血鬼、失敗する未来は見えていたのか」

「当たり前ですよ、ジェヴレ。白の皇帝はそんなに簡単に倒せる相手ではありません」

 ジェヴレが魔神の陰から、返事が返る。そしてゆらりと、一つの影が滲み出した。

「お、お前――っ⁉」

 固く目を閉ざした少女に、俺は思わず声を上げる。彼女はゆっくりと首を回し、粘着質の笑みを俺に向けた。

「わたくしの忠告を聞いていただけたとは、ありがたいことです」

 二十ディリスと引き換えに意味不明の予言を残した、あの予言少女だった。あの時よりもずいぶん綺麗な身なりだが、見間違えようがない。

「お前の忠告なんぞ、従った覚えはない」

「何をおっしゃるのですか。捨てた剣を拾っていらっしゃったではありませんか、母を助けるために」

 少女の手がすっと影の中に伸びる。また空気がゆらりと揺れた。隠蔽を自在に解けることから、おそらく隠蔽魔術を扱っているのはこの少女のようだ。その少女が影の中から引きずり出したのは――

「ヘカテっ!」

 妙に禍々しい色合いの縄で縛られたヘカテだった。ルベリアスの言った通り、命は無事のようで苦々しく唇を噛み締めている。

 俺ははっと気づいた。母親とは血を分けた女親のことを言う。ならば、ヘカテは俺にとって母親なのではないだろうか。彼女の弁では今の俺の身体は、彼女の右腕から作られたという。それは間違いなく、ヘカテの血が俺の身体を巡っているということだ。つまり少女が予言したのは、俺が剣を握る覚悟をもう一度持たなければヘカテが死ぬということなのか。しかしヘカテを拉致したのが当の予言少女であることの意味が分からない。

「そうか、なんとなく話が読めてきたよ。ノヴァ君、おそらくあの少女はカサンドラと呼ばれている吸血鬼だ」

 《凶事の予言者》。そうだった、ヘカテはあの時、予言少女が吸血鬼なのではないかと疑っていた。ヘカテ自身があり得ないと切り捨てた仮説だったが、奇しくも事実であったようだ。ヘカテはカサンドラについて何と言っていただろう。

「最悪の未来は教えず、それに導く……」

 カサンドラに教えられたひとり死ぬ未来を回避しようとすれば、二人死ぬ。そんなことを言っていたように思う。それならば意図せずも予言どおりに行動してしまった俺は、最悪の未来を踏襲しようとしているのか。

「吸血鬼……、あれが吸血鬼なの? 人間と変わりがないように見えるのに」

 ルベリアスは吸血鬼について豊富な知識を持っているようだが、フレアはその姿を見ることさえ初めてのようだった。見た目だけはか弱い少女にしか見えないカサンドラの姿に、戸惑いを隠しきれていない。

「それで正しいんだ、フレア。吸血鬼だって人間と同じで、すべてがすべて邪悪わけじゃない」

 そうだろ、と俺に視線を投げる。歪んだ笑顔で佇むカサンドラと地面に転がされたヘカテを見て、俺は首肯した。

「けどあいつは、カサンドラは邪悪だ。どう見ても首謀者はジェヴレじゃなくて、あの吸血鬼だしな」

 そう言っても、フレアの曇り顔は晴れなかった。剣聖と呼ばれるほど心優しい彼女が、盲目の少女にしか見えないカサンドラを攻撃することに抵抗を感じているのは間違いない。

「なんとローゼンクロイツ卿はお優しいことです! わたくしごとき、下賤な吸血鬼にまで情けをかけてくださるとは」

 芝居がかった動作で天をふり仰ぐカサンドラ。自らを卑下する言葉にフレアは不快そうに顔をしかめる。しかし再びこちらを向いたカサンドラの表情に、俺たちは硬直した。

「そんな風に、人間風情に憐れまれることがわたくしにとってどれほどの屈辱か、貴女にはわからないのでしょうね」

 傍らにそそり立つ魔神よりもなお、凶暴極まりない顔をカサンドラはしていた。吸血鬼の牙をむき出しにした口元は野獣そのもので、閉じられた瞼の奥には燃え盛るような瞳がはっきりと感じられた。背筋が冷たくなるような憤怒に、さすがのフレアも後ずさる。

「殺しましょう、ジェヴレ、我が眷属よ。準備はすべて整いました」

 長い会話はルベリアスに回復の時間を与えたに等しい。彼は槍を構え直し、フレアも腰の剣を抜いた。カサンドラも腰に差したナイフを抜き放つ。魔法を操る吸血鬼が白兵戦に挑むつもりだろうかと訝しんだ瞬間、ナイフはヘカテの手首を貫いた。

 ヘカテの声にならない呻き声が微かに耳朶を打つ。俺とフレアは色めき立ち、ルベリアスだけが静かに眉をひそめてそれを見ていた。

 手首を貫通するほど突き刺されたナイフを抜こうとヘカテは身もだえするが、それをがっちりと押さえたカサンドラが許さない。やがてカサンドラは自らナイフを引き抜いた。傷口から鮮血がほとばしるが、何も意に介す様子はない。もちろん、ヘカテの傷は持ち前の再生力ですぐに出血を止めたわけであるが。

 カサンドラはヘカテの血液を滴らせるナイフを、無造作にジェヴレに放った。ジェヴレも器用にそれを受け取る。

「十分に吸血鬼の生き血を吸っています。並の吸血鬼ではありませんから、それで余りあるほどでしょう」

 満足げに目を細めたジェヴレは、受け取ったナイフを自分の足元に突き刺した。瞬間、その点を円周上にした、巨大な魔方陣が浮かび上がる。血に濡れたような赤黒い色と星見台を半分覆い尽くすほどの巨大さを除けば、俺にとっては見慣れた魔神召喚陣だ。それにしてもこの大きさは異常だ。魔法陣の大きさは召喚する魔神の大きさに比例するという。そして当然のことながら、巨大になればなるほど強大な魔神となる。

「人間の魔術師にこんな魔神が呼び出せるわけがないだろッ! 死ぬぞ、お前⁉」

 小瓶から山羊の血や火酒、豚の心臓などを魔法陣の中にぶちまけながら、ジェヴレは鼻を鳴らす。

「小娘、まず誤解を正しておこう。俺は人間ではない、そこの吸血鬼の眷属だ」

 人間を蛇蝎のごとく嫌うというカサンドラの眷属になるとは、正気の沙汰ではない。おそらくジェヴレはカサンドラのことを全く知らないのだろう。眷属になることで得られる強大な魔力と、カサンドラの協力に目がくらんで、彼女に血を吸わせたに違いない。

「それに贄に高貴な吸血鬼の血を用いるのだ、これほど強力に魔神を縛るものはない」

 ヘカテが攫われた理由、そのうえで生かされている理由がようやくわかった。ジェヴレはすでに召喚済みの双剣の魔神よりもはるかに強力な魔神を召喚するつもりなのだ。そのためにはヘカテの生き血が必要だった。だからこそ生かされていた。なら、それが達成された後はどうなる――?

「安心も心配もする必要はありません、女王の子よ」

 呪文を唱え始めたジェヴレの周囲ですでに影が湧き出している。いったいどれほど強力な魔神だというのか。それに応えるように双剣の魔神の周りでも影が生まれ始めていた。ルベリアスとフレアがそっと目配せをする。そんな中でカサンドラは閉じた目で俺を見据えていた。

「女王の子……? 俺に言っているのか?」

「そうです、人間に似た子。女王をすぐに殺しはしません。貴女たち人間がいかに卑小な存在か、くだらない生命か、その目に焼き付けてから死んでいただきます」

「お、おぬしッ――!」

 怒りのあまり、ヘカテは言葉もままならないようだった。だがそれは俺にとっては希望だった。つまり俺たちが死ぬまで、カサンドラはヘカテを殺す気はない。ならば死ななければいい。未来が見えるとはいえ、カサンドラは人間を甘く見すぎている。俺はともかく、フレアとルベリアスがそう簡単に死ぬはずがない。

「ノヴァちゃん、下がっていて。危なくなったら、私の背後に」

 そう言った時に、すでにフレアは飛び出している。双剣の魔神を守るように現れた二十もの影に、低く剣を構えた刺突の体勢で突撃する。同時にルベリアスはすでに三十を超える影が蠢く魔法陣の方向へ。おそらく魔神が召喚される前に、術士であるジェヴレの息の根を止めるつもりだろう。

 二人は疾風のように武器を構えて突っ込む。それはもはや並の兵士では追いつくことすら困難な、達人の動き。それなのに、それを見てもカサンドラはニタニタと笑っていた。双剣の魔神が彼女を守るように移動したためにそれ以上カサンドラの表情をうかがうことはできなかったが、俺は言われようのない不安に襲われる。

 この戦いは、本当にぎりぎりのバランスの上に成り立っている。双剣の魔神かジェヴレ、どちらかを倒せば、もう一方はフレアとルベリアス二人を相手取ることはできないだろう。だが反面、フレアかルベリアスの片方でも敗れれば、もう一人も敗れるのは必然。そして敵方には未来を見る吸血鬼カサンドラ。その存在を加えるだけで、一気に戦いの行方は読めなくなる。

 フレアの一撃が、彼女の身長よりも遥かに巨大な熊の影を貫く。剣は熊の脇腹を寸分たがわず突き刺したが、熊は低い呻きを上げただけで致命傷には至っていないのが明白だ。フレアはすばやく剣を引き抜きながら距離を取り、再び一撃を見舞おうとする。しかし影は一体だけではない。すぐにほかの影が殺到してきて、フレアは応戦を余儀なくされる。

 一方のルベリアス。魔神を葬った最強の槍使いは、初撃でひょろ長い腕に鉤爪を備えた人型の影の胸を貫き、霧散させる。しかしそこに凄まじい速度でほかの影が群がってくる。なにせフレアが相手どる影に比べても数が圧倒的に多い。二対一ですら不利になる白兵戦を三十対一で凌ぎきる実力はさすがというほかないが、なかなか攻撃に転じることができない。時折カウンターでルベリアスの攻撃が通ることはあるものの、影は血のような黒い飛沫を散らすだけで霧散していかない。というか、こちらの影は明らかに強い。腕の一振りで地面に亀裂を作り、翼をはためかせてルベリアスのバランスを崩したりする。そのうえで耐久力も尋常ではない。確実ではないが、もしかすると一体一体が弱い魔神ほどの強さがあるのではなかろうか。ルベリアスも余裕のない表情で槍をふるう。

 明らかな苦戦だった。本当に一瞬のミスで命を散らす戦い。にもかかわらず、倒すべき敵将には双方いまだ近づくことすらできないでいる。鞘から抜いてもいない《無銘》の柄を強く握りしめた。二人の奮戦のおかげで、俺のいる後方には一体の影も近づいてこない。どちらかに加勢すれば、戦況を好転させられるだろうかと考える。

 無理だ。それどころか逆に悪化させてしまう。ルベリアスに加勢するのは論外。彼ですら苦戦する影を相手に、俺が一瞬でも生きていられるとは思えない。ではフレアか? 確かに同じ剣士である以上、攻撃のパターンはある程度予測できるし、共闘するのは難しくない。だがやはり影相手に俺が戦えるとは思えないのだ。自分を守るので精いっぱいのフレアが、俺まで守るのは不可能だろう。

 そうしている間にも戦況は刻一刻と悪化していく。

 ジェヴレの魔法陣が放つ光はますます鮮やかになり、その中心から薄ぼんやりとした巨大な輪郭のようなものが浮かび上がり始める。もはや山のような大きさの魔神が、まだ世界に顕現できずに虚ろな眼窩で自分を召喚する魔術師を見下ろしている。その輪郭が現れると同時に、さらに影が生まれ落ちた。ルベリアスは焦りを隠しきれない様子で、槍を振りぬく。蓄積した傷もあってか、それで一度に三体の影を霧散させた。しかし増えた無傷の影が十体以上、ルベリアスに襲い掛かる。彼は誰の目から見ても後退していた。

 フレアは五体もの影を霧散させていたが、いまだ十五体を超える影が彼女に群がっている。その顔には拭いきれない疲労と焦りが滲む。まだ戦闘に支障が出るほど疲弊ではないようだが、ルベリアスに比べても疲弊が早い。おそらくこれもまた彼女の『弱さ』。彼女の尋常ならざる速度での攻撃は、短期決戦を念頭に置いたものなのだろう。それがこれほどの大群相手では通用しない。限界の戦いにおいて、ほんの小さな差異が致命的な不利を生んでいく。

 このとき、フレアは目の前の敵と必死で戦うあまり、失念していたのだろう。ジェヴレは召喚中で動くことができない、だからルベリアスは目の前の影だけを気にしていればいい。だが双剣の魔神は、いつでも戦いに加われるということに。いや、凶暴な魔神が今まで動かなかったことの方が、異常だったということに。

 山羊頭の巨大な怪物が、戦場を俯瞰するように持ち上げていた視線を下におろした。凶暴な視線の先に、突き上げるような一撃で巨大蜘蛛を霧散させたフレア。魔神が動いたために一瞬視界に飛び込んだカサンドラの唇が、動いていた。

 ――絶望しなさい、人間。

 思考する時間などなかった。何も考えずに、俺はひたすら駆けた。毎日草原を駆けつづけた足が、それでもなお遅い。魔神がゆっくりと大剣を振りかぶる。鞘越しにも《無銘》が激しい熱を放っているのがわかった。それは過熱する俺の胸の奥の炎に応えるように。

 一秒が引き伸ばされて、何もかもがゆっくりと動いている。フレアはまだ振り下ろされようとする大剣に気付いていない。すでにのろのろと空気を切り裂いている剣を防ぐのはもう不可能だ。影に包囲された状態からでは回避も難しい。魔神が気合を吐き出すように凶悪な咢を大きく開ける。世界を震わす咆哮。魔神の行動に気付いたフレアの顔に、一瞬恐怖がよぎる。

 俺は走る。走りながら剣を抜いた。刀身が発熱しながら赤黒く染まっている。対照的にグリップはひんやりと俺の手に馴染む。無謀だとは分かっていた。俺に何かができるはずがない。でも、守りたいと願った自分を裏切ることはできなかった。自分を殺した相手を守りたいと願うことは、おかしなことかも知れない。だがフレアはあの路地裏で俺を助けてくれた。その恩も返せないようなら、俺は俺の願いを抱き続けることができない。

 落ちてくる巨大な剣。目を閉じたりはしない。相手の剣閃を見極め、確実に自らの剣閃に重ねていく。かつての俺なら、確実に交錯させた。今でも、できるはずだ。

 魔神の規格外の筋力と剣自体の反則的な重量。圧倒的な威力で振り下ろされる斬撃に対して、たった一本のショートソードを握って俺は身を躍らせた。

「ノヴァちゃんッ‼」

 引き伸ばされたフレアの悲鳴と同時に、経験したことのない衝撃。肩と膝の骨がみしりと鳴る。魔神は俺を気にすることもなく、そのまま剣を押し込む。俺の剣などありもしないかのように剣閃が俺を両断する瞬間、俺は微かに刀身を傾けた。

 さらなる衝撃。全身が爆発したよう。左肩に違和感、ひびが入ったかもしれない。

 すべてが一瞬、静止する。

 そして――、ゆっくりと、飛んでいく。

 魔神の手から、大剣がはるか高空へと弾け飛ぶ。

 影すらも動きを止め、主の武器が彼方に消えていくのを見送る。

「うそ……」

 呆然としたフレアの呟きだけが聞こえた。

 魔神は空っぽになった右手を不思議そうに見つめる。己の武器がこの小さな生物に弾き飛ばされた事実が信じられないようだった。

「悪いな、フレアさん。あんたの必殺技、使わせてもらったぜ」

「そん、な。だってノヴァちゃん、あれ一度見ただけでしょ……」

 正確には、二度だ。それも二度とも見ただけではなく、この身で体験している。

 フレアには及ばなかったとはいえ、俺とて蒼の王国最強の剣鬼を謳われた剣士だ。ただ身体

能力に任せて剣をふるっていたわけではない。剣士には多少なりとも、その者独自の技術があ

る。特に戦場で戦うような兵士は生き残るために、様々な技法を編み出すものだ。

 ならば俺の技術は何だったのかといえば、端的に言ってしまえば覚えの良さだったのだろう。相手の体運び、剣の振り方、そんなものを戦いながら分析するのは剣士ならだれでもすることだ。俺の場合は、それが他人よりも幾分か優れていたというだけ。そしてそれを再現できるだけの技量があったのだ。

 正直なところ、今の肉体であの芸当ができるとは思っていなかった。勝率の著しく低い賭けに有り金全部賭けたようなものである。だが俺は賭けに勝った。勝率が低いだけに、その対価は大きい。

「けどやっぱり、完璧とは言えねぇよな……」

 手を握り閉じしてみるが、ぴくりとも反応せずに鋭い痛みを放つ指が何本かある。おそらく完全に流しきれなかった衝撃が剣を伝って、骨を砕いたのだろう。違和感を覚えた左肩も、動きが鈍い。地面に踏ん張った両足にも鋭い痛みがあった。骨を傷つけるまではいっていないようだが、思い通りには動かせないかもしれない。

 それでも俺はまっすぐ魔神を睨み付けた。今の一撃を凌いだところで、大局は変わらない。フレアは影と魔神を同時に相手にはできないし、ルベリアスが助けに入ることもできない。この状況を覆せる可能性があるとすれば、それは俺だけなのだ。

「フレアさん、魔神は気にするな!」

 動き始めた影を切り刻みながら、フレアは叫び返してくる。

「無理だよ、ノヴァちゃん! キミじゃ、絶対に勝てないっ」

「勝つ必要なんてない。俺は魔神に勝てるほど強いなんて思っちゃいないさ。俺は弱いから時間稼ぎが精いっぱいだ」

「危険すぎる!」

「俺は死ぬ気はない。生きて、ヘカテを助ける。そうルベリアスに誓ったからな」

 まだ剣が握れることを確かめる。大丈夫、まだぎりぎり戦える。《無銘》はもはや本当に燃えているようだった。凄まじい熱は、俺に何かを伝えたいようですらあった。

 背後からはしばらく、剣が風を切る音と影の悲鳴が聞こえていた。が、やがてその狭間にフレアの声が滑り込む。

「すぐに終わらせる。それまでは、任せた」

「任せろ」

 フレアの言葉に背中を押されて、俺は魔神に突進する。両足はやはり少し動きが鈍いが、思

ったよりは支障が少ない。それよりも走るたびに痛みが走る左肩が問題かもしれない。だが構わない。ひきつけるだけなら、片手が使えなくても可能だ。

 横目で確認すると、俺に触発されたわけではあるまいが戦況はずいぶん好転していた。

 フレアは鬼気迫る形相で影を寄せ付けない斬撃を放ち続ける。疲労の色は見えるが、それによって斬撃が鈍るどころか、いっそう切れ味を増しているように見える。

 ルベリアスの側では、どういうわけか影の数が半分以下に減っていた。何をしたのだろうかと思っていると、瞬間ルベリアスの槍から幾筋も雷が放たれる。彼はちらりと俺と目を合わせると、自慢げに笑う。そうか、白の帝国では騎士と魔術師の分断政策がない。魔術を学ぶのに割く労力さえあれば、魔術を用いる騎士がいてもおかしくはないのだ。

 双方有利に進んでいるが、ルベリアスには次々と生れ落ちる新手の影が襲い掛かるし、フレアの斬撃ではなかなかとどめを刺すに至らない。やはり俺が魔神を引き付けられなければ勝機はない。

 魔神の注意はちょうどよく、剣を弾いた俺に向いている。左手に残ったもう一振りの大剣を振りかぶって斬りこんでくるが、上段からの斬撃は高威力な代わりに軌道を読みやすい。魔神の斬撃は鼠のように駆け回る俺をなかなかとらえることができない。回避しながら足元を切り付けたいところだったが、巨体に似合わない素早さで足を踏みかえ、俺のひょろひょろした斬撃を躱していく。

 鍛錬の成果あって、まだ疲弊も浅い。この調子なら、引きつけ続けるのも不可能ではない。そうほくそ笑んだ俺は、やはり戦場から離れて久しいということだったのだろう。慢心は油断を生み、一瞬の油断が死につながる。そんな戦場の鉄則がぽっかり頭から抜け落ちていた。

「ノヴァっ、下がれッ!」

 魔神の背後でとらわれたままのヘカテが、絞り出すような声で叫ぶ。その隣で歪んで笑みを張り付けたカサンドラを見て、俺は反射的に後方に飛びのいた。

「我、汝に乞う 世を滅ぼすは雷鳴なり」

 ルベリアスの雷魔術を嘲笑うような、恐ろしい威力の雷撃が天空からたたきつけられた。一瞬前まで俺がいた地面は、爆音とともに抉り取られる。あのまま飛び退かなかったら木端微塵にされていたところだった。しかし吸血鬼の魔法が単に地面を抉る程度の威力で済むはずがない。爆発と同時に起きた爆風で、飛びのいた俺の体は激しくあおられた。幾分かのダメージを負っている足では、それを耐えきることができない。ぎりぎりで魔神の振り下ろす剣の軌道からは逃れたものの、バランスを崩してよろめいてしまう。

 にもかかわらず、俺はまだ慢心を捨てきれていなかった。剣を躱したのだから、問題ないと思ったのだ。相手が人間でもそんなことはあり得ない。素手、足、すべてが武器になりうる。ましてや相手は魔神。全身が剣以上の凶器なのだ。


 地面を薙ぎ払う魔神の右手を、俺は避けられなかった。

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