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剣聖フレアその人が、俺の前にはいた。悪戯が成功した悪餓鬼のような表情しているルベリアスを、戸惑いながらも反射的に睨み付ける。
「いや、いい反応だね、ノヴァ君。一つだけボクが謝罪すべきは、君に興味を持った理由をすべては言わなかったことかな。君に『願い』が見えなかったのが一番の理由ではあるのだけれど、それ以前にフレアから君のことを少し聞いていてね」
知り合いだったのかなどとは聞くまでもなかった。ルー、フレアと呼び合う二人が赤の他人であるはずがない。それも人と話すのが苦手なフレアがこれほど親しげなのだから、浅からぬ仲と考えてもいい。
俺が抱いていたルベリアスの人物像が、一気に崩れた瞬間であった。フレアと親交を持てるような立場にあり、かつあの槍術。思い当たる人物は一人しかいないが、あまりにも現実離れしていて信じられない。
「ボクは改めて名乗っておいたほうがいいのかな? ルベリアス・ガルメニウス・ヴァン・リッツェンシュタイン・エルトゥーラ・デューラ、という長いのが本名。呼びにくければ、白の皇帝と呼んでくれても構わない」
もはや絶句することしかできなかった。それなりの身分であろうとは思っていた。しかし誰が皇帝本人などと想像できるものか。そもそも皇帝が頻繁に郊外に出ていいものなのか。
「ノヴァ君、皇帝たるボクにできることはあっても、できないことはないのだよ」
冗談めかしたルベリアスの台詞に、フレアはくすりと笑った。だがなるほど、彼の言葉は一面の真実を突いているともいえる。事実無理を押し通せば、最高権力者である彼にできないことなどないだろう。
「まあ、お前が皇帝だろうがなんだろうが、利用させてもらうけどな」
「ふふ、ノヴァちゃんはルーに対してもやっぱりそういう態度なんだね。そのぶれない感じ、私は嫌いじゃないよ」
「皇帝にまるで敬意を払わないというのも、問題である気はするけどね。それはともかく、ボクたちは別に君のためだけに行動するわけじゃない。この国の危機に立ち上がるのが君主の務めであり、騎士の務めだからね」
その割には騎士の方は一人しかいないようだが、などという軽口は引っ込めておく。騎士といえど慈善事業ではない。褒賞も期待できない戦に命を投じるのは、相当な馬鹿かお人よしだろう。以前の俺が前者で、フレアはおそらく後者だ。
「ところでルベリアス、ヘカテを助けようにもその魔神と魔術師はどこに潜伏してるんだ。それがわからないうちは、どうしようもないだろ」
敵国に潜入しておいて堂々と生活しているはずもあるまい。森の奥や山中に身を隠しているだろうが、そう簡単に見つけられれば苦労しない。だが案の定というべきか、ルベリアスはそのあたりも織り込み済みだったらしく、軽薄に笑ってフレアを指さした。
「問題ないよ。それを今、フレアに調べてきてもらったところだ」
「正確には私じゃなくて、外国からの賓客に調べさせたんだけどね。ノルス様、それなりに機嫌悪かったわよ」
「あの方が不機嫌なのはいつものことさ。で、魔術師たちはいったいどこに移動したんだい」
皇帝にできないことはないとの言葉の通り、ルベリアスは高位の魔術師と思われる賓客に魔術で行先を探らせたらしい。吸血鬼を圧倒するほどの魔術師がそう迂闊に痕跡を残すとは思えないが、何事にも上には上がいる。
「ロザーリの星見台よ」
蒼の王国に暮らしていた俺でも耳にしたことのある、有名な場所であった。しかし同時にとても不吉な場所でもある。白の都からほど近い場所にあった、白の帝国の魔術研究施設跡地である。もともと自然界の魔力が集中する場所に建設されたロザーリの星見台は、しかし集まる魔力が大きすぎた。行使された魔術が暴走し、星見台は半壊。多くの魔術師が命を失ったという場所だ。
「魔神は召喚済みじゃないのか? なんでそんなところに……」
「わからない。でももしかしたら、何か大規模魔術を使うつもりかもしれない。攫ったノヴァちゃんのお友達を、その……生贄にして」
やや違和感の残るフレアの台詞に、俺はルベリアスをちらりと見た。彼はフレアにはわからないように、小さく首を振る。ヘカテが吸血鬼であるということは、フレアには伝えていないようだった。
俺はこっそり胸をなでおろす。ヘカテが吸血鬼というイレギュラーであるとわかれば、かつての俺と直接会ったことのないルベリアスはともかく、フレアが俺の正体に気づかないとは言い切れない。心配しすぎだとは思うが、その危険性が減るのは僥倖だった。
「とにかく急がないと、時間が経てば経つほど、助けられる可能性が減る」
この駿馬であれば、ロザーリの星見台までそれほど時間をかけずにたどり着けるだろう。しかし今は、一瞬すらも惜しい。相手の魔術師はヘカテを真っ二つにしてまで攫っている。穏当に扱ってくれるなどとは期待しないほうがいいだろう。
それなのに、馬に飛び乗ろうとするフレアをルベリアスは引きとどめた。
「確かに時間は惜しい。でも朝の陽ざしには破邪の力がある。相手が召喚魔術を操る魔術師なら、まだ儀式は行わないはずさ」
だからといってのんびりしていられる道理はない。ともすれば邪魔をするかのようなルベリアスの言動に、俺はいら立ちを隠せない。そんな俺を彼は呆れ顔で見つめた。
「ノヴァ君、今のままの君を連れて行っても何の役にも立ちはしないんだよ? それどころか足手まといですらある。ヘカテさんを助けられるほどの力を、とは言わないよ。その願いでボクらを動かしただけで十分だ。でもせめて、自分を守れる程度の力は持たなくちゃならない」
返す言葉がなかった。今の俺は、おそらく自分の身すらろくに守ることはできない。二人について行っても、物陰に隠れて震えているのがやっとだろう。
「……どうしろって言うんだ」
言った瞬間、ルベリアスの回し蹴りが側頭部に激突した。不意の衝撃にまるで準備などできず、俺の身体は簡単に吹っ飛んだ。何が起きたのかすらもまともに理解できないまま、俺は草原に転がった。
「ルー‼」
フレアの制止をも振り払って、ルベリアスは俺を見下ろす。
「君は弱い。こんなにも弱い。まずはその弱さを認めなければいけない」
一筋、抑えきれなかった涙が伝った。そんなことは知っているに決まっていた。あの路地裏で、乾いた砂の中庭で、夜の森で、そして今この瞬間も、俺は俺自身の弱さを噛みしめている。倒れた俺を憐れむでもなく見下すでもなく、ルベリアスは淡々と俺を引き起こした。
「弱さは、受け入れたときに強さになる」
ささくれた心に、厳しい口調で言われたその言葉が突き刺さった。かつての俺が必死にそれを否定する。弱さは、弱さだ。それは強者に存在してはならない汚点に他ならない。
「剣聖の剣は、弱者の剣だ」
フレアの肩がぴくりと震えた。ルベリアスはそれ以上言葉をつづけようとしない。フレアは俺とルベリアスを見比べて、小さくため息をつく。
「そんな大したものじゃないって、いつも言ってるでしょ」
「剣鬼と戦って君も分かっただろう? 彼の剣は強者の剣と呼ぶべきものだった。それを君は破ったんだ」
俺の剣術を、強者の剣と呼ぶ。それは多分正しいのだろう。何よりも強さだけを求めた俺の剣の到達点は、間違いなく比肩する者のない絶対強者の剣術だった。そしてその剣術がフレアの前に敗れ去ったのもまた事実。
弱さを受け入れるという言葉に抵抗を覚えながらも、フレアの剣が弱者の剣であるということに納得を覚えもする。いくら剣聖と呼ばれる達人であったとしても、俺とフレアの間には厳然とした体力の差があったはずなのだ。いくら才能に恵まれ鍛錬を重ねたとしても、男女の差という覆しがたい壁が立ちはだかるのだから。それなのにフレアは俺に押し負けることもなく、見事勝利して見せた。
いや、違う。そうだ、思い返してみれば、彼女は純粋な力比べになる局面など一度も作らなかった。ただ一度だけ力が物を言う局面で、フレアは俺の斬撃を――流した。
「ノヴァちゃん、キミは私に剣を捨てると言ったね。それなのに今、また覚悟を決めてしまったの? 剣を握って立つ場所は戦場しかありえない。それはとても不幸せなことだと思うよ。それでも、キミはまた剣を握るの」
問われるまでもないことだった。俺はそれ以外の生き方をしてこなかったのだ。それも、何の願いも抱けないまま。だからこれ以上に不幸になることなどない。それどころか願いを叶えるために戦えるということは、どんなに幸せなことだろう。
俺の表情からゆるぎない覚悟を読み取ったのだろう、フレアは可憐に微笑んだ。そして鞍の横から一振りのショートソードを外して、俺に差し出す。
革鞘に収められた無骨な剣。鞘から抜けば、その刀身は謎めいた黒に輝く。傾ければその黒は、血のような紅にも見えた。吸血鬼の打った剣、《無銘》。
「キミがまた剣を握りたくなる時まで預かるって、そう約束したから」
フレアの屋敷から去る俺の背中に、そういえば彼女はそんな言葉をかけたのだった。とっさにこの剣のことだとは思わなかったのだが。
かつてたった一度握っただけの《無銘》は、不思議と手にぴったり馴染んだ。あの時はそんなことを考えもしなかったが、久方ぶりに剣を握ってはっきりとわかる。《無銘》はしっくりと俺の手に収まり、あたかもそれが腕の延長であるかのような感覚すら覚えた。
俺が《無銘》を抜いたのを見て、フレアも腰に穿いた自分の剣を抜いた。レイピアとはいかないまでも、かなり細身のロングソード。磨き上げられた鋼が、銀色の星屑のように輝いている。柄には大輪の薔薇の意匠が施されていた。
「私は自分のことをルーが言うような立派な剣士だとは思ってない。でも剣術の先輩として、ノヴァちゃんに教えてあげられることはあると思うんだ」
実際は年上の俺のほうが先輩なのだろうが、この際どうでもいい。重要なのはフレアがかつての俺よりも確実に腕が立つということだ。
「ノヴァちゃん、斬りこんできて」
中段に構えた剣をひょいひょいと動かして、俺を誘う。俺は手に持った《無銘》とフレアを見比べて困惑の声を上げた。
「斬りこむって、真剣でか?」
「大丈夫、私は攻撃したりしないから。それに申し訳ないけれど、ノヴァちゃんでは私に剣を当てられないよ。とにかく今は時間がないんでしょ」
白い太陽は地平線からわずかに隙間を作りつつある。星見台に向かう時間を考えれば、もう猶予はほとんどない。
俺は鋭く剣を構えると、思い切って斬りこんだ。日々の鍛錬の成果あってか、あるいはこの身体で動くことに慣れたからか、身体は思ったとおりに動いてくれる。もちろん以前とは比べるべくもないが、それでも驚くほどの進歩である。ショートソードを握ったことはあまりなかったが、少女の矮躯にはこの短さと軽さがちょうどいい。
フレアは俺が斬りこむ直前まで微動だにしない。ただまっすぐ俺の剣を見つめ、その剣閃を辿る。そして俺の剣が触れる直前、わずかに剣を動かした。弾き飛ばそうとするでもない、単なる防御に徹底した動作。見事なまでに太刀筋を塞がれたが、今更勢いのついた剣を止められるはずもなくそのまま振りぬく。
「っ、また――!」
剣が激突し、《無銘》はフレアの剣に阻まれて止まるだけのはずだった。だが俺の手に伝わってきた感触は、完全に弾かれたもの。フレアは斬り払ったわけでもなく、ただほんの少し剣を傾けただけだ。それなのにまるで勢いのついた斬撃同士が激突したように、腕が後方に弾かれる。この感覚を俺は知っていた。俺が放った空中からの必殺の斬撃、それを受け流した時もこんな感覚だった。
今回は弾かれはしたものの、体勢を崩すまでには至らなかった。フレアはぱちんと剣を鞘に収めると、問いかけるように目配せをする。俺が首肯すると、彼女は満足げに笑った。
「私たちはどうやっても男性の剣士より力で劣る。それがルーの言う弱さだというのなら、私たちはそれを受け入れざるを得ないと思うの」
「だから力じゃなく、技術で力に勝つ……」
フレアは淡く笑った。そのとき俺はようやく、本当にルベリアスの言葉を理解したのだ。弱さは戦場に生きる者にとって、あってはならないものに違いない。しかしフレアはその弱さを理解することで、彼女にしかない『力』を生み出した。
「それを理解したからと言って、すぐに強くなれるかといったらもちろんそんなことはないけどね。でも無茶はしないでしょ?」
「それはそうだが……、俺が足手まといなことは変わりないままじゃないか……」
「ノヴァ君、言ったはずだよ。弱さは受け入れたときに、強さになる」
ルベリアスの瞳には何か確信めいたものが宿っていた。
「君は、君のできることをすればいい。たとえば君がいるのといないのとでは、ヘカテさんの行動は変わるかもしれない」
弱さを認めろと言った。俺は弱い。そんなことはずっと前から知っていたことで、それを受け入れるということの意味も、今ようやく理解した。
だがルベリアスの言うのは、何もするなということではないか。
俺は守りたいと願った。そのために欲した力を欲した。その力がない以上、守れないのは当たり前なのかもしれない。こうしてルベリアスとフレアが、代わりに戦ってくれることを感謝すべきなのかもしれない。それでも、悔しかったのだ。
悔しくて、悔しくてたまらなかった。それでも俺は奥歯をかみしめて、振り絞るように言う。
「――分かった。俺は足手まといにならないように努力する」
この場で俺も戦いたいと駄々をこねて何になる。よくて黙殺されるだけ。悪ければ二人はヘカテを救出するのをやめてしまう可能性だってあった。
フレアは辛そうに顔をしかめた。一方ルベリアスは心の底まで見通すような視線を、俺にそそぐ。胸に蟠る釈然としない気持ちを見透かされたような気がしたが、彼はすぐに視線を外した。無意識に止めていた息を歯の隙間から吐き出した。
「それなら急ごう」
短く言って、彼はひらりと馬にまたがった。続いてもう一頭に乗ったフレアが俺を引き上げる。彼女と二人で乗れということらしかった。フレアに抱かれるようにして座った鞍の上で、俺はやはり釈然としない気持ちを拭いきれなかった。なにか《無銘》も抗議するような熱を発しているように思えた。
駆け出した馬が地面を蹴る振動が、鈍く伝わってくる。吹き付ける風に頬が切れそうだ。そのごうごうという音の中に、俺は聞き違えたのだろうか。
「――キミなら守れる」
フレアが呟いたような、そんな気がした。




