―12―
『おぬしが目覚めたころ、吾輩はもうおぬしが追い付けぬほど遠くに行っていることじゃろう。おぬしのことじゃ、吾輩がいようがいまいがどうでもよいかもしれぬが、どちらにせよ吾輩のとはもう会うことはないと思え。
吸血鬼であるということがバレてしまった以上、もうこの街にはいられぬ。のろのろしておれば吸血鬼狩りなんぞが始まって、関係ない犠牲者が出てしまうこともありうるからの。
次は赤の公国にでも行こうか思っとるが、おぬしを連れていくことはできぬ。吸血鬼でないおぬしでは吾輩の旅についてくることは不可能じゃ。それに結局吾輩はこうして様々な土地を流浪することしかできぬのじゃ。吸血鬼である以上、人間とともに暮らすことはどだい無理なのじゃ。それでも人間に少しは興味があるからの、人間に交じって暮らしていくわい。
その家と金はおぬしにやろう。好きに使うがよい。ただし金には限りがある。おぬしは見た目も悪くはないし、いざとなれば剣の腕もあろう? 何か生業を見つけて暮らすのじゃぞ。もっともおぬしは見た目通りの少女ではないのじゃから、言うまでもないことじゃろうが。
実のところ、なぜおぬしを助けたのか吾輩自身もよくわからないのじゃ。それでもおぬしを助けてよかったと思っとる。もうずいぶんと昔のことじゃが、眷属らに囲まれて暮らした時分と同じくらい、幸せじゃったわ。
吾輩が拾ってやった命じゃ、つつがなく生きよ』
枕元に置かれた羊皮紙にはそんなことが、流麗な字で綴られていた。何度も何度も読み返して、ヘカテのいない乾いた空気を吸って、俺は呆然とする。
森の中で意識を失ってから、つい先ほど目覚めるまでの記憶は一切なかった。失われかけていたのが明白な俺の命が、どうしてまた生き延びたのかわからない。しかしやはりヘカテが何かしてくれたのだろうということは予想がついた。
「なんだよ、お前に守られてばかりかよ」
明滅する意識の中で思い出したあの気持ちは、今もしっかりと俺の胸の中で熾火のように熱を持っている。フレアとルベリアスが、俺に欠けていると言った『願い』。それを俺はようやく思い出したのだ。
大切な人を守りたい。誰かが傷つかないために力を欲した。
それなのに守りたいと思った相手は、目を覚ました時にはもういなかった。羊皮紙一枚だけを残して、自ら姿を消していた。
「そりゃあ、ないだろ……」
あんまりだった。一人で勝手に別れを済ませて、自分だけで割り切って、俺は何の覚悟もできていないというのに。
ヘカテがそこにいないことが、ひどく空しかった。途方もない喪失感が胸を苛んで、ぽっかりと空いたがらんどうを埋める方法が俺には分からなかった。それだけではなく、なぜ自分がこれほどに悲しいのかすらわからなかった。
人付き合いのいいほうではなかったが、騎士団では多少親交のある相手はいた。戦争になればそういう相手も、当然死んでいく。それでも俺はこれほどの喪失感は覚えなかったように思う。わずかに胸に刺さるような痛みを感じて、しかしいつか忘れていくのだ。人の死とは、他人との別れとはその程度のものだと思っていた。
それなのに今感じている気持ちは、もっとずっと強いものだった。胸を引き裂かれるのにも似た、貫くがごとき痛み。そして何よりも、何をおいてもヘカテを連れ戻したいという自己中心的な願いを消し去ることができないのだ。
一番近くにあったレザーアーマーを身にまとって、俺は家を飛び出す。足はまっすぐ街の外へと向かっていた。こんなことは無駄だと、わかりきっている。吸血鬼の足ではたとえ同時に出たところで追いつけはしないだろうし、ヘカテはもうずっと前に街を出ているだろう。
しかしわかっていてもやめられなかった。そうする以外に、心に蟠るこの気持ちを癒す方法を知らなかった。
こんな昼間に街の外に出るのは初めてだった。早朝には人っ子一人いない街道も、旅人や行商人がちらほらと行き交っている。それでも人通りが多いといえないのは、戦争中であるためだろうか。ヘカテが街道に沿って移動するとは思えないので、俺はあえて道から逸れた。どこに向かうべきかわからず、足は自然と歩きなれた道筋をたどる。足が覚えているというだけでなく、そこはかとない予感があった。
あの小川の辺に行けば、何かがあるという無根拠な予感。果たして、その予感は的中した。
「なんだ、これ……」
赤黒く染まった小川の水。上流から流れてくる水はすべて、おぞましい赤色に染め上げられている。鼻をつくのは、濃厚な血臭だ。疑う余地もなく、小川を赤く染めているのは血液なのだ。上流で何かがあり、小川を赤く染めるほどの血が流れた。血まみれになっても無抵抗に攻撃を受け続けるヘカテを連想するのは、当然の帰結と言えた。
「やあ、ノヴァ君。君、もう動けるようになったのかい?」
思わぬ至近距離からの声に、俺は思わずびくりと飛び上がる。音もなく背後に忍び寄っていたルベリアスは、それを見て楽しそうにけらけら笑った。なんとものどかな彼の姿にむっとするが、昨夜彼が俺たちを助けてくれたことを思い出して平静を装う。
「ルベリアス、昨日は本当に――」
「お礼とかそういうのはもういいよ。ヘカテさんだっけ? 彼女からもう言われているからね。そもそもああいう不逞の輩を罰するのは、本来ボクの役目だからさ」
彼の発言の意図がよくつかめなかったが、それを問い正す前にルベリアスはすらすらと言葉を並べてしまう。
「それにしてもあれだけの傷がこんなに早く回復するっていうのは、治癒魔術を使ったとしても早すぎるよねぇ。ひょっとしてノヴァ君も吸血鬼だったり? でも吸血鬼が身体を鍛えるわけがないか」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! お前、ヘカテが吸血鬼って知ってるのか」
「知ってるも何も、あれだけ血まみれなのに傷一つないなんて吸血鬼としか考えられないでしょ。赤い目と牙も確認できたしね」
「それならなんで――」
なぜ助けてくれたのか。それどころかヘカテが吸血鬼だとわかっているのなら、あの状況でルベリアスが敵に回ったとしても不思議ではなかった。ルベリアスは呆れた顔で、俺をまじまじと見つめた。
「君だって彼女が吸血鬼だとわかって、それでも一緒にいたんだよね? それなのにそんなことを聞くのかい」
「それはそうだが……」
俺は彼女に命を救われたという恩もあり、どのみち好むと好まざるとにかかわらず共に暮らすしかない状況だった。突然吸血鬼と思われる人物が目の前に現れていたら、同じようには接することができなかっただろう。
「吸血鬼を無駄に恐れる時代は終わったとボクは思っている。それは人間が強くなったというわけではなくて、かつての大戦は互いの種族に大きな教訓を残したんだよ」
「しかしそんなことは誰も言わないぞ。聞くのは吸血鬼に関する恐ろしい話ばかりだ」
「それはそうさ、恐怖をわざわざ親愛に変えるよりも、恐怖のまま利用した方がいい。それが統治者の理論というものだからね」
まるで自分自身も統治者であるかのように、自信満々に語るルベリアス。その自信の出所は不明だが、少なくとも彼は吸血鬼であるからといって無差別に忌み嫌うような人ではないということは間違いなさそうだった。
「まあ、だから君が吸血鬼であろうと眷属であろうとそれ以外だろうと、大して興味はないわけさ」
ルベリアスのその詮索しない態度は俺にとってはとてもありがたかった。複雑な状況ではあるが、俺の正体を包み隠さず話せば蒼の王国の尖兵扱いされても仕方がない。
その時ふっと濃厚な血の匂いが鼻をついて、真紅に染まった小川のことを思い出す。俺の視線がそちらに注がれたことに気付いたルベリアスが、自身も川面をのぞき込んで顔をしかめた。
「これはひどい。例の噂は本当かもしれないね」
「例の噂?」
「ああ、街の衛兵や外壁より外に暮らす農民の話なんだけれど、昨日の夜明け近くに妙なものが見えたというんだよ」
とても嫌な予感がした。そもそもこの大量の血と結び付けられる時点で、愉快な話でないことはたやすく想像できる。
「剣を持った巨大な怪物と、黒い大狼が争っていたと言うんだ。正直、目撃者が多くなければ面白くもない与太話だと一笑するところだよ」
黒い狼というのが引っ掛かった。おとぎ話の中で吸血鬼がよく変化する姿の一つが、黒狼だ。ヘカテが街を出ただろう時間からしても、その狼はヘカテだと考えたほうが自然だ。
「……その争いでどちらかが死んだということか? それでこの大量の血が流れたと?」
「最後まで見届ける勇気のあった者はあまりいないけれど、衛兵は狼が死んだと言っていたよ。逃げ出そうとしたのに、なぜか胴体が真っ二つになったそうだ」
頭の中が真っ白になった。
ヘカテが、死んだ……? いくらなんでも運が悪すぎはしないか。昨夜の襲撃でヘカテは消耗していたはずだ。そのうえで謎の怪物に襲われて、真っ二つにされた。無理矢理に狼がヘカテではなかった可能性に縋ろうとしたが、兵士として培った冷静な状況判断能力がそれを許さなかった。
「誰か確かめたのか。その狼の死体とか……」
「いやなにやら頭のほうは怪物と一緒にいた者が担いで行ったらしい。残された下半身はしばらくすると青い炎を出して燃えたと聞いているよ。だから誰もそれを確認できていない」
ルベリアスは腰をかがめて、俺の顔をまっすぐ見つめる。吸い込まれそうな栗色の瞳から、目が離せなかった。
「ノヴァ君、破損した身体が青い炎を上げて灰になるのは吸血鬼の特徴だ。ヘカテさんは、無事かい?」
声が出なかった。こんなときにさえ冷酷になれるのがかつての俺だったはずなのに、俺はそれを口にするのを恐れていた。口にすることですべてが俺の想像している、最悪の筋書きになってしまうのではないか。そんな馬鹿げた妄想から逃れられないでいる。
勝手に目頭が熱くなった。零れそうな涙を無理やりに押しとどめる。泣いてはいけない。泣いてしまったら、ヘカテの死を認めることになってしまう。俺は小さく鼻をすすって、口を開いた。
「ヘカテは、俺を家まで運んでから街を出た。今どこにいるのか、わからない」
俺がそう返答することは予想していたのだろう。ルベリアスはさして驚く様子もなく、渋い顔でしきりに頷いた。
「君にとって希望となり得ることと、絶望となり得ること。両方話そう」
こんなときでも軽薄な微笑を絶やさないルベリアスが、今だけはありがたかった。
「まず絶望的なこと。昨夜真っ二つにされたという吸血鬼は、ほとんど間違いなくヘカテさんだ。白の都と戦闘があったらしい地点を結ぶと、凍てつく山脈を越える道の最短経路になる。ヘカテさんがどこに向かいたかったのかボクは知らないけれど、赤の公国に向かったならこの道をとるに違いないと思う」
『次は赤の公国にでも行こうと思っとる』。ヘカテの手紙の一節を明瞭に思い出す。あそこに書いたことが本心であれば、彼女はルベリアスの言う道筋をとっただろう。
いっそう重たい絶望が胸を押さえつける。しかしルベリアスは沈痛な面持ちの俺を励ますように、ぽんぽんと肩を叩いた。
「まあまあ、希望的な話もちゃんとあるからさ。少なくとも、身体を真っ二つにされたくらいで吸血鬼は死なないよ」
「致命傷どころじゃないぞ、それで死ななかったら本物の化け物だろ」
「そうさ、化け物なんだよ、彼らは。大戦では首だけになってもそこから再生した吸血鬼がいたそうだね。そもそも切り離された下半身が燃えたんだから、その時点までは生きていたのは間違いないさ。あれは頭部が生きていなければ起きない現象だからね」
細い細い希望の糸が見えた気がした。だがそれは掴み取るにはあまりに細すぎる。いくら消耗していたとはいえ、吸血鬼であるヘカテが敗北したのだ。そんなものに俺が挑んで勝てる道理などあるはずもない。
「最後に絶望的だけれど希望的な話をしよう」
いたずらっぽくルベリアスはにやりと笑う。
「ヘカテさんを襲った怪物というのは、まあ十中八九は魔神だろうね。そして魔神召喚なんて悪趣味な魔術を使うのは、ほぼ蒼の王国の魔術師と考えていい」
「じゃ、じゃあ、白の帝国軍が制圧に動くかもしれないってことか⁉」
自国を持ち上げるわけではないが、魔神を自在に掌握する蒼の王国の魔術師はたった一人でも十二分に危険な存在だ。そんな敵国の魔術師が国内、しかも首都のすぐそばに潜伏しているというのなら軍が動いても不思議ではない。そして白の帝国軍が動くということは、剣聖フレアや魔神をたった一人で屠った白の皇帝が出撃するということだ。
だが、ルベリアスは静かに首を振った。
「それは無理だよ。確実な情報がなく、度重なる戦闘で兵が疲弊しているこの状況で軍を動かすのは不可能だ」
「でも! 魔神が都のすぐ近くで目撃されてるんだぞ!」
ルベリアスの目つきがにわかに鋭くなる。小さく頷いて、ルベリアスは続けた。
「そう、不確定な情報だけど放っておくわけにはいかない。だからノヴァ君、君がヘカテさんを助けたいと願うなら、協力するのはやぶさかじゃない」
「協、力……」
「良い目になったね、君は」
唐突にルベリアスはそう言った。嬉しそうに、彼は本当に嬉しそうに笑う。俺には彼の言いたいことがはっきりと分かった。
俺には今『願い』がある。一度見失ってしまった、大切な想いがある。そしてそれを思い出す機会を与えてくれた大切な人を、俺は守りたいと思うのだ。
「俺は、ヘカテを助けたい」
今の俺は無力だ。普通の少女より少し体力がある程度の、兵士でないごろつきにさえやはり対抗できないだろう。それでも二つだけ、俺には誇れるものがある。一つは胸の奥で燃えるこの『願い』。俺を終わりなき剣の道に駆り立てた、本当の願い。そして願いを見失っても、追い求め続けた剣の腕。もうずいぶん空っぽのままだった掌が、熱い。
「君はなによりもその願いを叶えることを望むのかい」
ルベリアスが問う。それは軽い質問などでは決してない。彼は俺を試している、自らが戦う大義名分とするほどの価値が俺にあるのか、試している。だからまっすぐにルベリアスを見返して、俺ははっきりと答える。
「俺の望みはずっと、それ以外にはありえない」
「君はその願いのために安穏とした平和を捨て去ることを覚悟できるかい」
「誰も守れない、はりぼての平和なんていらない」
「君はその願いのために、命を投じることができるか」
射抜くようなルベリアスの眼光。ごくりと唾液を飲み込んで、俺は言う。
「その質問は意味をなさない。俺は自分自身すらも守って見せる」
にんまりと笑ってやった。ルベリアスは満足げに大きくうなずく。彼は俺が協力するに足る存在だと、認めたようであった。
それを待っていたかのように、遠くのほうから鈍く地面の鳴る音が響いてきた。馬の駆ける音だと、瞬時に分析する。その予想通り、草原の向こうのほうから二頭の馬がすごい勢いでこちらに向かってきた。騎手が乗っているのは片方だけのようだった。昇って間もない太陽が逆光になり、騎手の姿は黒い影としか見えない。
かなりの駿馬で、あっという間にすぐ近くまでやってくる。そこでようやく俺は騎手の姿をはっきりと認めた。太陽に煌めく銀の鎧と同じ色の髪の毛、ほっそりとした体躯。目を疑うが間違いようがなかった。手慣れた様子で馬を俺たちの前に止めると、彼女はひらりと飛び降りて微笑んだ。
「久しぶり、ノヴァちゃん。その様子じゃ、ルーの予測通りになったみたいだね」
頭の上でまとめられた銀髪はあの戦場と、彼女自身の邸宅で二度会いまみえた時と同じ。穿かれた剣はまがうことない真剣で、俺を殺した剣でもあった。久方ぶりに見る、き通った美貌に、俺は茫然とその名を呼ぶ。
「フレアさん……」




