10-44 試練の時11
ごく単純な物理現象として暖められた空気は上昇気流を生む。悠がやっているのはそこに一定の空気の流れを作り出す事だ。炎の質量を利用した回転が周囲の空気を吸い込み、やがて竜巻に育っていく。それは炎を巻き込み、更に周囲のあらゆるものを吸い込んで焼却する坩堝と化していった。
火災旋風と異なるのは、炎の供給を悠に依存している点であろう。石造りの練兵場に燃える物は殆ど存在しないからだ。
そして、『蝕滅餓蠅軍』で脆くなった練兵場は崩壊しつつあった。
瓦礫が舞い上がり石畳が捲れ瓦礫の仲間入りを果たす。亀裂の走る壁はその予備軍だ。闇蠅達は既に一匹残らず竜巻に巻き込まれて消滅し、熱風が何もかもを飲み込んでいく。
数分間に渡る風と炎の競演は炎の供給が断たれた事で徐々に弱まり、やがて空気に溶け込むようにして消えていった。
全てが通り過ぎた後、練兵場はもはや用途の分からない何かに成り果てていた。融解した構造物がそこかしこに蟠り、囲っていた壁は崩落して見る影も無い。
――そんな見晴らしが良くなった練兵場に立つ影が一つ。
「…………ただの人族が、こんな……」
擦り切れていたローブは襤褸と化し、艶めいていた黒い骨格は焼け焦げ、片腕は灰へと帰っていた。あらゆる防御魔法は引き剥がされ、体を支える事すらままならないデメトリウスはがくりと地面に膝をついた。
だが、デメトリウスに絶望は無い。
「それでも……最後まで生き残った者こそが勝者だ! 勝てないと見切り相討ちを狙ったのだろうが、やはり最後に勝つのは私――」
ドボッ!!!
――絶望は勝利を確信した後に現れた。練兵場の中央、地面の中から。
デメトリウスは呆然とそこから飛び出した者の姿を見上げた。
「最後まで生き残った者こそ戦場の勝者という点に異論は無いが、それ以外は同意しかねるな。殆どの竜気を注ぎ込んだが、やはり伝説級は伊達では無いという事か」
「き、さま……生きていたのか、ユウ!?」
「死んだら負けなら死ねんよ。さあ、決着はこれからだ」
地面に潜って炎熱をやり過ごしたと思われる悠だったが、その体に刻まれたダメージはどう見ても軽くは無い。火傷は体の至る所に散見され、特に両手の先は黒く焦げて炭化した皮膚は僅かに白煙を上げているように見えた。
「ぅ、あ……」
エンシェントリッチとして恐れる物など何も無くなったはずのデメトリウスは尻餅を付いたまま悠から体を離した。
怖い。この人族が怖い。満身創痍でありながら、些かも戦意を衰えさせていないこの男が恐ろしい。感情を宿さず傲然と立つ姿は悪鬼羅刹も裸足で逃げ出す恐怖に満ちていた。
「く、来るな、『深甚なる恐怖』!!!」
歩み寄る悠にデメトリウスの精神破壊魔法が放たれる。一定の範囲内に居る生物に対し恐怖を増幅し行動不能、精神衰弱に陥れる闇属性の高位魔法だが、悠は避ける事も無く直撃を受け……拳を握り締めると何事も無かったかのうように歩みを再開した。
「な、何故止まらない!? お前にも恐怖の欠片くらいはあるはずだ!!! それを最大限にまで増幅したのだぞ!?」
「恐怖はあるさ。蒼凪に色々試して貰ったからな。痛み幻覚恐怖混乱呪いに失明、ありとあらゆる状態異常の魔法を食らってみたが、俺の結論は一つだ。……それがどうした? どれも戦場ではありふれた物に過ぎん。そんな事が足を止める理由になるのは初陣の新兵だけだ。兵士とはそれを踏み潰し、そして乗り越えて行くものだと知らんお前は戦場に立つべきでは無かったな……」
デメトリウスは参謀であった。短慮なザルバドールに自制を促し、策を授けて兵を動かす立場だ。生前のデメトリウスは『闇将』に叙されるほどの実力があったが、自ら戦場に立つ事は殆ど無く、出るとしても自分の前には常にザルバドールが居たのである。そんなザルバドールの好戦的な面をデメトリウスはしばしば窘めたが、そのザルバドールにずっと守られていたのだという事をこの時になって初めて悟っていた。ザルバドールが居ればこそ自分は十全に力を振るう事が出来たのだ。
(……お、王よ、我が親友よ……私は、私こそがエルフィンシードの真の建国者だと思っていた……だが、違ったのだな……偉大なる王に守られていたのはむしろ……!)
カタカタと歯の根が噛み合わないデメトリウスを悠が蹴り飛ばすと、デメトリウスは地面を滑った。完全物理耐性がある為にダメージは無いが、削られたのは体ではなかった。
デメトリウスは『真祖』であるシャロンと同じくエンシェントリッチとして様々な能力を持っている。『自動回復』や継続接触ダメージを与える『茨の衣』、精神負荷を与える『脅威』、その他にも幾つもの強力な能力が働いているのだ。だが、自身の精神強化すら含まれているはずのデメトリウスは今、声も出せないほどの恐怖の虜となっていた。
倒れたデメトリウスに跨がり、悠がマウントポジションを取った。『茨の衣』が効果を発揮し悠の皮膚が弾け血が吹き出すが、意に介さず悠が宣言する。
「火属性にも耐性はあるが、多少は通ったようだな。だが、残念な事に俺も魔法を使えるほどの竜気が残っておらんからこうするしかない。……俺は今からお前を殴る。お前が降参するまで何度でもだ。死ぬ前に意思表示しろ」
ゴスッ!!!
拳に始まり、魔法で最高潮に達した戦闘は再び拳によってその幕を下ろそうとしていた。悠から受けるダメージは決して多くなく、『自動回復』がある事を考えればむしろ長期的にはデメトリウスに分があったかもしれない。悠が接触を続ける限り、デメトリウスは自分で攻撃しなくても悠にダメージを与える事が出来るのだから。
……そんな机上の空論に何の意味があるだろうか?
これはゲームでは無い。相手のHPが正確に設定され、あとどのくらい耐えれば勝てるかなどと分かるような優しい仕様は存在しない。
現に見るがいい、眼前のこの男を。体の傷は増え続け、血で染まりながらも鉄槌の如き拳は止まるどころか更に重くなっていく兵を。アルトの戦いのような感動など一切湧かない、血に塗れた凄惨な戦場を。
練兵場に響く鈍い殴打の音が死霊の慟哭のように虚しく木霊する。竜巻が収まった事で復活した『浮遊投影』が余さずその様子を伝え、気の弱い者達は衝撃的な光景に失神する者が続出した。
バチュン、バチュンという濡れた金属音は耳を押さえても遮る事は出来ずにエルフ達を苛んだ。骨が軋み肉が爆ぜ、それでも殴打は続くのだ。それは悪夢のようでありながら、現実の戦場の縮図だった。
「お止めなさい!!! もうお爺様は戦えません!!!」
金切り声が悠に掛けられたが、悠の拳が止まる事は無い。杭打ち機のように淡々と、デメトリウスを打ち続ける。
「お止めなさいと言っているでしょう!? や、止めないと撃ちますわよ!!!」
戻って来たクリスティーナの言葉を悠は無視して殴り続けた。デメトリウスの顔にベキリと亀裂が入ったのを見たクリスティーナは思わず『風の矢』を放ったが、悠はそれを掴み、握り潰す。
「う、嘘……」
「いつから助太刀しても良いというルールになったのかは知らんが……邪魔をするなら次はお前と戦うのか、俺は?」
ピクリともしないデメトリウスから立ち上がった悠が血を滴らせながら振り返る姿に、クリスティーナもまた生まれて初めての恐怖を感じへたり込んだ。猟奇的な性を持つはずのクリスティーナはデメトリウスと同じように震えて後ずさる。
「……ユウ、もう十分だ。誰もお前の勝利に異論は挟まぬ。そうだな?」
共に訪れたナターリアの言葉に、付き従うエルフ達は青い顔で頷く事しか出来なかった。動きの鈍い者達に先んじてハリハリはクリスティーナを宥め、アルトとギルザードがデメトリウスに歩み寄る。
「は、ハリーティア様……」
「ティナ殿、よく覚えておくのです。世の中にはあなたが考えているよりもずっと恐ろしいものがあるという事を。……デメトリウス殿を失いかけたのはあなたの増長が招いた失態です、反省なさい」
「……はい……」
厳しいハリハリの言葉にクリスティーナは項垂れてハリハリの胸に顔を埋めた。異質な精神を持つクリスティーナにとって、同じく異質なデメトリウスだけが唯一の心を許せる存在だったのだろう。流れる涙の熱さに嘘は無かった。
「……デメトリウスさん、生きてますか?」
「…………や、あ、アルト、クン……君の先生は、とても怖いね……降参しようにも、声が、出なかったよ……」
「全く、いつまで意地を張るのかと思ったよ」
鎧の魔法遮断効果でデメトリウスの能力を受け付けないギルザードが動けないデメトリウスを担いだ。
「出来ればアルトクンがいいな……」
「贅沢を言うな、アルトを傷だらけにする気か?」
「それは……美への冒涜だ……」
「ならば我慢しろ」
沈黙したデメトリウスに代わり、再びナターリアが悠に話し掛けた。
「ユウ、これでお前達がこの国に滞在する事に文句を言う者は居らん。……何か言いたい事はあるか?」
「殿下の御慈悲に感謝致します。では、少しだけエルフの民に」
「構わぬ、申せ」
「はっ」
悠はナターリアに深く頭を下げると、『浮遊投影』に向き直って口を開いた。
「エルフの民よ、魔法に長じ弓を能く操る者達よ」
戦闘の熱狂を微塵も含まない落ち着いた声がシルフィードの隅々にまで響き渡る。凄惨な外見と理性とのギャップにシルフィードのエルフ達の視線と耳は悠に釘付けとなった。
「これが、これこそが今エルフが立たされている戦場だ。金属と血、そして肉が舞う原始の闘争なのだ。この戦争に例外は無い。諸君らは自分自身のみならず、身内親類近隣縁者全てがこの闘争に巻き込まれるのだと知るべきだ。国に仕えている者以外でも魔法の腕に自信のある者はあろう。弓を取っては近衛にも引けは取らぬ剛の者も居よう。だが、それらが通じない相手に諸君らはどう戦う? どう生き残る? ……今、自分は殿下の命で手を止めたが、ドワーフの走狗である『機導兵』は投降など受けつけん。ならばどうするのか? それは国全体で考えねばならん。王家に責任を押し付け、ただ無邪気に戦果を喜んでいた時代は既に終わったのだ。……大賢者が我々を連れ帰ったは、諸君らにそれを自覚して貰う為である」
内政干渉とも取られかねない際どい発言だったが、ナターリアはじっとその言葉に耳を傾けていた。悠の言葉は、誰よりもナターリアが考えなければならない問題なのだ。
「エルフは最も誇り高き一族と聞く。だが、それが増長に繋がってはならない。悲観し滅びの美学などに酔って逃げ出してはならない。何故なら、最も誇り高い生き方とは自らの心に恥じる事無く生を全うする事だからだ。笑われようが謗られようが真っすぐに、必死に生きる事だからだ。アリーシア陛下の様に。エースロット先王陛下の様に。そして、そうあろうと歩むナターリア殿下の様に……。大賢者ハリーティア・ハリベルはそれを支えるであろう」
エルフの軍を統べる将軍の様に朗々と語る悠の言葉にエルフ達は自分達の生き方を振り返らざるを得なかった。長い生を持つエルフは時に追い立てられる人間の生き方と違い急激な変化を好まない。だが、好む好まざるに関わらず時代は変わるのだ。その流れに取り残されようとしているのだと、エルフ達はようやく自覚していた。
「殿下、お耳汚しでした。余所者の大言壮語を最後までお聞き頂き有難う御座います」
「……うん……あ、うむ、エルフの国で堂々とそれだけの言葉を吐ける者が居るとは思わなかったが、今更か」
思わず素で返事をしそうになったナターリアはナルハに突かれて言葉を取り繕うと『浮遊投影』に向き直った。
「民よ、我が愛しき国の者達よ! 私にはまだ力が足りぬ、陛下には遠く及ばぬ。だが、この国をむざむざ滅ぼされる気はさらさらない。これから私はハリーティア様を筆頭に今後の方策を練るが、我をと思わん者は王宮の門を叩くがいい。兵に志願するもよし、意見を具申するもよし、弁の立つ、生意気な人族の顔を一目見んとするも良かろう。……私に力を貸してくれ。エルフの未来を掴み取る為にお前達の力を貸してくれ!! 一人では変えられなくても、皆が願えばこの国は変われると私は信じている!!」
ナターリアの言葉は直情的で、エルフらしからぬ泥臭さがあったが、取り繕う事の無い言葉であるからこそエルフ達の心に波紋を投げかけた。
長い生は熱意を摩耗させる。若い時に抱いた想いは風化する。それを寿命まで保てるエルフは稀なのだ。
だが、一度も熱を持った事の無い者は居ない。たとえ一瞬であっても、その熱が存在した事は否定出来ない。特に若いエルフ達はまだそれを持ち続けているのだ。
シルフィードに雄叫びが上がる。若いエルフ達が熱を吐き出し、拳を突き上げる。老いた者達も胸の奥に疼きを感じ、強く拳を握った。
「今日一日、私の言葉をよく考えてくれ。自分に何が出来るのか、何をやりたいのか。それを真剣に皆が考えてくれるだけでも私は嬉しく思う。だが、行動に移すのは明日からだ。なにせ、今日はハリーティア様とこの人族達を本当の客人として労わねばならんからな。先ほどからメシだの酒だの煩いのだ」
ナターリアが肩を竦めると住人達は緊張が解け笑いが起こった。ナターリアの後ろではバローが「俺か?」と自分を指差しており、それがまた新たな笑いを誘う。
笑っている場合では無いと悲観する者も居たが、少なくとも笑えないよりはマシだろう。後ろを向いて嘆くよりも、前を向いて笑う方がきっと見えて来る物は多いはずだ。
「それでは静聴に感謝する、解散!!」
ナターリアの終結宣言で試練は成功の内に幕を閉じたのだった。
「ギルド長、何だか面白くなって来たんじゃないですか?」
「だな。国から見れば『六将』が最強だろうが、民間なら探索者ギルドだってそのランクの奴らが居るって事を見せ付けてやらないとな。明日は王宮行ってみっか?」
「いいですね、ついでに探索者の報酬に色が付けば願ったり叶ったりですよ。……ですが、何か腹案はあるんですか? 戦力の売り込みでもいいですけど……」
「ああ、とっておきのがあるぜ。ま、俺様に任せろよ!」
アルト←試合が終わればノーサイド。爽やかな汗が滴る。
悠←死合い自体がデッドオアアライブ。凄惨に血肉が滴る。
エルフドン引きですよ……。




