10-23 麗しのシルフィード2
「そろそろシルフィードですよ」
「やれやれ、当分船はカンベンだな。揺れてるってのはどうにも落ち着かねぇや」
伸びをしながら答えたバローは遠くに見えるエルフの王都に目を凝らすと、軽く首を傾げた。
「ん? ……なんか、兵士が一杯居やがるぜ?」
遠目にも一軍に匹敵する兵士が城門前に並んでいるのが見え、その数が徐々に増しているのが分かるとハリハリも首を傾げた。
「どこかで物見が見ていたんでしょうね。単なる歓迎ならば嬉しいのですが……」
「一応武装はしているが、儀礼的な物に見えるな。歓迎する意図で8割方は間違いあるまいが……」
超視力で具に居並ぶ者達の表情を検分した悠が僅かに余地を残した答えを返すと、ハリハリは気さくに肩を叩いた。
「ヤハハ、ユウ殿は相変わらず心配性ですねえ。さっきも言った通り、即座に我々を捕縛するような真似はしないと言ったではありませんか。ワタクシはともかく、こちらには陛下やナルハ殿だって居るのですから!」
「そうか……俺の考え過ぎかもしれんな」
「そうですとも! でも、一体何が気になったのですか?」
ニコニコと余裕の笑みを浮かべながらハリハリが尋ねると、悠の指がスッと前に向けられた。
「先頭にナターリア、姫がいらっしゃるが、その隣に居る女の気配が妙だ。あれがどういう感情なのか俺にも読めん。ハリハリの旧知か?」
「はて? 姫の隣が許されるとなると、王族か『六将』、もしくは最上位、貴族……しか……」
それは急激な変化であった。余裕綽々であったハリハリの顔面筋がビシリと固まり、どんどん血の気が引いていく顔は青を通り越して土気色に退色していった。体が震え始め、川の上で風が通っているにも関わらず額にびっしりと汗が浮かび、ハリハリは錆び付いた動きで恐る恐る悠に問い掛けた。
「ゆゆゆゆユウ殿、そ、そ、その、じ、女性は、ゆ、指輪が、ふ、二つ、重なった紋章なんて、つ、つ、付けてないですよ、ね?」
「ここからでは良く分からんな。それに女をジロジロ眺める趣味は無い。魔法が使えるのだからお前が『遠見』で顔を確認する方が早かろう?」
「で、ですよね……」
ハリハリの動揺は明らかで、バローは隣のアルトにコソコソと話し掛けた。
「おいアルト、ハリハリの奴、昔手を出した女かなんかが居るに違いないぜ! しししっ、修羅場かもなあ!」
「……ハリハリ先生はあまりそういうタイプには見えませんが……?」
言外にバローならあり得ると言いたげであったが、バローは気にも留めずにアルトの耳元で囁き続けた。
「バッカ、ハリハリだって男だぞ? 美形揃いのエルフの女に酒でも飲まされて誘惑されりゃコローッてなモンだ。きっと200年前に孕ませたガキが現れて「パパ、なの……?」とか言うに違ぇねえ! 何なら賭けてもいいぜ!」
「賭けませんよ……」
無性に楽しそうなバローにアルトはげんなりと返したが、もしかしたらそういう事もあるのかなと、チラリとハリハリの様子を窺った。
しかし、当のハリハリはそれどころではないようで、『遠見』などという特に難しくもない魔法を普段の10倍以上の時間をかけて発動させると、近くなる視界にその顔を捉え、口を押さえた。
ナターリアの隣で微笑むその人物は、まるでハリハリがフォーカスするタイミングと合わせたかのように無音で、しかしはっきりと唇を動かしたのだ。
(ハ)
(リ)
(ー)
(テ)
(ィ)
(ア)
(さ)
(ま)
「ギャーーーーーーーーーーッ!!! う、ぐ、オエエエエエエ!!!」
その唇が自分の名を紡いだと気付いた瞬間、ハリハリの『遠見』が崩壊し、ハリハリは船の縁に手を付いて胃の中身を全てブチ撒けた。
「ど、どうなさったのですかハリーティア様!?」
「お、おい、ハリハリ」
尋常では無いハリハリの取り乱しようにナルハとバローが駆け寄ったが、ハリハリは吐くだけ吐くと白い顔のままポツリと呟いた。
「……う、迂闊でした……嫌過ぎる記憶のせいで、すっかり彼女の存在を忘却してしまっているとは……」
「どうしたハリハリ、ヤバい奴でも居るのか!?」
「……ヤバいなんてモンじゃありません……彼女は、クリスティーナはワタクシの天敵と言っていい存在です!!」
断言するハリハリに一行は驚きの色を隠せなかった。当時のハリーティア・ハリベルはエルフィンシードで五指に入る魔法使いであり、また魔法開発者だったのだ。そのハリハリが天敵とまで称するとなれば、『六将』やアリーシアすら超えたエルフ最強の魔法使いであるという事になる。
しかし、ナルハはハリハリの答えに首を傾げた。
「そんなはずはありませんよ。ティアリング公爵は確かにそれなりの使い手ですが、あくまでそれなりでしかありません。だから戦争にも行かない訳ですし……」
「な、何だよ、お前の演技が迫真過ぎて俺まで騙されちまったぜ! ハハハハハ、ハハ……」
ハリハリの背中を叩き笑い飛ばすバローだったが、ハリハリの目にはナルハの指摘があっても一切冗談の気配は存在せず、ハリハリは底冷えするような声で言った。
「……もう向こうからも見られているので一つだけ言っておきます。クリスティーナ・ティアリングに絶対に気を許してはなりません。何かを受け取ってはいけませんし、二人きりで話をするのもいけません。特にアルト殿、あなたは可能な限りユウ殿と行動を共にして下さい。もし一人の時に出会ったら非礼だろうがなんだろうが一目散に逃げなさい。健全なアルト殿には彼女は理解出来ません、いいですね!?」
「は、はいっ!」
かつてハリハリがこれほど真剣に注意を促した覚えは無く、アルトは考える前に返答していた。どうやら歓迎されて和やかに力を合わせるという流れには決してならないだろうという漠然とした予感だけがアルトの背筋に冷たい汗を滴らせた。
ハリハリが水を飲んだり薬を飲んだり、深呼吸を繰り返したりして感情を制御出来るようになった頃、船は遂にシルフィードに到達したのだった。
船が到着するとナルハはアリーシアを抱き上げ、背後のハリハリに頷いてから船を下りた。
「『水将』ナルハ、女王陛下をお救いし帰参致した!!」
その宣言に歓声が上がり、ナルハはアリーシアを用意されていた担架兼ベッドと思われる場所に横たえた。
「……ナルハ、よくやってくれた。お前の功績は比類無いものだ」
「いえ……私など、後ろの方に比べれば塵埃のようなもの。もし報いあるとすれば、それはかの方にこそ帰せられるもので御座います」
「事情は分かっている、しかし、お前は『水将』としてその任に同行し務めを果たしたのだ。その事に変わりはないぞ?」
「勿体無いお言葉です」
「ならば陛下をお部屋にお連れしてくれ。私は後ろの者達に用がある」
そのままナルハの耳元に顔を近付けたナターリアは短く囁いた。
(この場で何かさせたりはせぬ。ナルハは母上を頼む)
ハリハリの様子から不安を感じていたナルハだったが、ナターリアがこの場での暴挙は抑えてくれると信じ、アリーシアと共にこの場を去っていった。
「さて……ハリーティア様、お手数をお掛け致しました。本来ならばもっと落ち着いてからあなたをお呼びしたかったのですが……」
「陛下のお命が危ないとなれば、ワタクシに否は御座いません。と言っても若い者達はワタクシの事を知らぬ者も居りましょう。ワタクシはハリーティア・ハリベル、あなた方が知るハリーティア・ハリベルと同一人物という認識で構いません」
自らを大賢者と同一人物だと名乗ったハリハリに集まった事情を知らない兵士達は困惑しざわめき始め、中には不敬極まると武器を向けてくる者すら居たが、ナターリアが手を掲げて大音声で言い放った。
「聞け、兵士達よ!!! この国難を憂い、国を離れていた大賢者が今再びシルフィードに舞い戻った!!! かの賢者を称える声を上げよ!!! 繰り返す、賢者は舞い戻った!!!」
国王代理であるナターリアがハリハリを大賢者ハリーティア・ハリベルと認めた事で懐疑的な視線を向けていた兵士達もこれは本物だという心理に傾き、ハリハリは飛行魔法でふわりと宙を舞った。
「おお、空を……!」
「間違いない、あれは本物のハリーティア様だ!!!」
「賢者だ、賢者が舞い戻ったのだ!!!」
伝説が自分達の目の前に存在するのだと知り、兵士達は武器を捨て、慈父の笑みを浮かべるハリハリに平伏した。ハリハリは内心でうんざりとしながらも、せっかくナターリアが演出してくれたこの状況を最大限に利用してエルフ達の畏敬を集める事には成功したが、頬を撫でる悪寒に視線だけを向けると、やはりそこにはクリスティーナが微笑んでいた。
(……苦手とか言っている場合じゃ無いようですね……うぅ、誰かに代わって欲しい……)
極力そちらの方は見ないようにし、ハリハリはまたせり上がって来た喉の奥の違和感を無理矢理飲み下して笑顔を振りまくのだった。
アリーシアとは全く別の意味でハリハリが心底恐れる相手がクリスティーナです。多分、次回にはその一端が見せられるかと。




