10-19 立ち込める暗雲14
日が昇る。闇の衣が一枚一枚剥がされていき、世界に色彩が蘇っていく。
徐々に湿原の様子が見て取れるようになり、バローはすっかり駆逐された周囲を見てどっかりと腰を下ろした。
「あー……俺ぁ、もうこんな場所には、来ねーぞ……」
肩で息をするほどに疲労させられたのは、悠の怒声が原因だった。湿原に棲む魔物達は地中や水中に潜み音や刺激に反応する種類が多く存在したのだ。
今のバローであれば大抵の魔物は一撃で殺せるのだが、低ランクの魔物が数百の群をなして延々と襲いかかって来るのには流石に辟易させられた。毒はドラゴンの肉のお陰で耐性があるので殆ど効かないが、ここにはナルハやサクハ、アリーシアなど、毒に耐性を持たない者達もいて接近戦が危険となると、耐性を持っているバロー達が踏ん張るしかないのである。
つまり、バローの疲労は肉体的な物より、後ろに通してはならないという精神的なプレッシャーに由来するものだった。シュルツやアルトも防衛戦を得意としておらず、表には出さないがシュルツもバローに憎まれ口を叩く事も無く呼吸を整える事に専念しており、アルトは緊張の糸が切れたのか、剣を杖にへたり込んだ。
全く疲労の影が見えないのは2人だけだ。
「少し休憩したら出発するぞ。アリーシアには安静が必要だ」
「船が無事ならいいが……持ち逃げされていない事を祈ろうか」
最終防衛線としてアリーシアの看護をしつつ戦い続けた悠と最前線で敵を引き付けていたギルザードには依然余裕が感じられ、アルトは憧憬の眼差しでぽつりと悠に漏らした。
「どうやったら、そんなにタフになれるんですか……?」
「ギルザードは例外として、人間が無限の体力を持つ事は有り得んよ。精神的な動揺は無駄な動きを生み、無駄な動きは体力の消耗を招く。戦場では何があっても心を揺らさず、必要最小限の動きを覚え込ませれば疲労は小さく出来る……が、そんな職業軍人のような真似はせんでいい。俺はお前を戦場の駒にしたい訳ではない」
敵を殺し、仲間が殺されても表情一つ変えずに戦い続ける事が出来る軍人は優秀な軍人だろう。だが、軍に染まれば普通の人間としての感覚が薄れていく。特にアルトのような感受性の強い人間は元に戻れなくなると、軍生活の長い悠には分かっていた。
「お前が目指すのは戦士だ。無感情に敵を殺すのではなく、戦いを通じて心を交わし、己を高めろ。バローやシュルツのようにな」
答える言葉を持たないアルトに『龍水』を数本取り出して渡し、悠はアリーシアを抱きかかえるハリハリの下に戻っていった。
「……」
「難しく考えるなよ、アルト。お前にはお前の理想があるんだろうが、これからの経験でどんどん変わっていくモンだ。今は理解出来ねぇだろうがよ」
アルトの手の中から小瓶を一つ摘み取り美味そうに飲み干すバローにアルトは問いかけた。
「バロー先生、ユウ先生はああ言いましたが、僕はユウ先生がそんなに冷たい人だとは思えないんです。だから僕は……」
「……アルト、目の前でオヤジの首を掻っ切られてもお前、動揺せずにいられるか?」
突拍子も無い言葉にアルトは動揺を露にし首を振った。
「……で、出来ません……」
「ユウは出来るぜ。たとえ俺やお前、ケイやメイが目の前でぶっ殺されようが陵辱されようが、それであいつが心を乱して隙を見せる事はねえ。ハリハリを見ろよ、普段はバカやってるが、あいつだってそれなりに意志は強い方なのにアリーシアの姿を見た途端、そんなモンは剥がれちまった。だがな、それが普通だ。惚れた女がボロ雑巾みてぇになってんのに涼しい顔をしてる奴が異常なんだよ。……頭のブッ壊れた奴ならまだ理解出来なくもねぇが、ユウの場合、自分の方がおかしいと理解しながらそれをやってやがる。そんな領域に100年も生きられねぇ俺達が踏み込めるワケがねえ。泣いて笑って怒って悔やんで、そうやって人間らしく生きて欲しいってユウは思ってるんだぜ?」
「心を捨ててただ剣のみに生きるのは容易い。だが、それはあのミロのような生き方にしかならん。人との交わりを断ち、ただ敵と己とに世界を二分する狭い生き方だ。それはお前の目指す英雄の生き様とは対極にある。アルト・フェルゼニアスはユウ・カンザキの劣化品となる為にこの世に生を受けたのでは無いぞ」
バローの言葉をシュルツが続け、アルトの手から『龍水』を一本取り踵を返した。シュルツがこのような物言いをする事は滅多にある事では無く、アルトが驚愕している内にシュルツは離れていった。
「……あの剣術バカが珍しい事もあるモンだ。あいつも最初の頃よりはちょっとはマシになってんのかね」
苦笑して腰を上げたバローはアルトの頭をグシャグシャと掻き回すとアルトに背を向けて言った。
「お前は誰からも愛される男になりな。泣いて笑って怒って悔やんで、んでもってやっぱり最後に笑い合えるような、そんなスゲェ男にな。この世界が無事ならユウは最強の英雄として語り継がれるだろうが、戦って強いだけが英雄の条件じゃねぇよ。アルト、お前にしかなれない英雄ってのがきっとある。頑張れよ」
去っていくバローの背中がとても大きく見え、アルトは思わずその背中に声を放った。
「僕にとってはバロー先生も英雄です!」
アルトの言葉にバローの足が一瞬止まり、次の瞬間には笑いが起こった。
「……クックックッ……あー危ねえ、俺が女だったらお前さんに惚れてる所だよ。あんまり罪作りな事すんなよな!」
ヒラヒラと手を振るバローが振り返る事は無かったが、その歩みはどこか誇らしげであるように見えたのだった。
「アリーシアはどうだ?」
「少し体温が戻って来たような気がします。ですが、早く清潔で暖かい場所で休ませたいですね」
「情報通りならそろそろ『機導兵』は撤退を始めているはずだ。アリーシアはギルザードに背負わせるか?」
「いいえ、ワタクシが背負います。魔法が使えるようになれば大丈夫ですし。……それとユウ殿、取り乱してしまい申し訳ありませんでした」
自らの醜態にハリハリが頭を下げたが、悠は首を振った。
「構わん、普通はそういうものだ。それよりエルフィンシードに戻ってからの事をよく考えておいてくれ。ナルハやサクハも交えてな」
ハリハリと話しながらアリーシアの様子を確認した悠はナルハとサクハが近付いてくるのを察するとその場を離れた。
「……」
「ハリーティア様、陛下のご様子は?」
「まだ目を覚ましませんが、一番危ない場所は越えたようです。あなた達も『龍水』は飲みましたか?」
「はい。あんな強力な魔法薬は初めて見ました。やはりあれはハリーティア様が?」
「いえ、あれはワタクシの仲間が作った物です。ドラゴンの血と幾つかの薬草を――」
チャッ。
説明を始めたハリハリの眼前に突然剣が突きつけられ、ハリハリは言葉を止めた。
「……陛下から離れろ」
「サクハ!? お前は何をしている!!」
妹の暴挙にナルハが声を荒げたが、サクハはハリハリを睨みつけたまま剣を引かなかった。
「姉さんこそ、こんな怪しい連中と連んでどういうつもりですか? 古の大賢者を騙る不埒者に正体不明の人族など、信じるに値しません!!」
自身の迷いを振り切るようなサクハにハリハリはあっさりと首を振った。
「やれやれ……拒否しますよ。陛下を守れない護衛などに今の陛下を託すほどワタクシは愚かではありませんのでね」
「貴様!! っ!?」
カッとなって剣を振りかぶったサクハの剣は振り下ろされる前に異常を察知した悠の指先に掴まれていた。
「は、放せ!!」
「安全になった途端に勇ましくなるのは弱者の虚勢だぞ。それに、貴様の技量では陛下に当たる」
と、悠が指先に力を込めると、魔銀で出来ているはずの剣は甲高い金属音と共に砕け散った。
「なっ!?」
「もう一度気絶させて運ばれたくないのなら大人しくしていろ。俺は貴族だろうが女子供であろうが次は容赦せん」
悠の殺気に射竦められたサクハの手から刀身を失った柄が零れ落ち、サクハ自身もへたり込んだ。
「……色々誤解もあるようですし、道中で我々の話をしましょうか。ナルハ殿、船にはもう一人くらいは乗れますか?」
「かなり重量オーバーかと……足が遅くなりますよ?」
「まあ、そこはワタクシが『軽身』でも使ってどうにかします。行きましょう」
アリーシアを背負いハリハリが歩き始めると、ナルハはサクハに手を差し伸べた。
「サクハ、理解し難いのは分かるが、あの方は本物のハリーティア・ハリベル様だ。私はあの方から直接指導を受けていたから間違い無い」
「……信じられません。私は幼かったですから」
「私だってハリーティア様以外は信用していない。だが、彼らが命懸けで陛下をお救いしたのは事実なのだ。ハリーティア様から話を聞いて、それから判断しても良いのではないか?」
ナルハに言われるまでも無く、サクハも頭では理解していたが、数々の失態がサクハの心を縛っていた。簡単に言えばサクハはハリハリ達の力に嫉妬していたのだが、それを認めるにはサクハはまだ若過ぎた。
「このままではエルフは次の戦争で確実に滅んでしまう。その危機を乗り越えるにはハリーティア様のお力が必要なのだ。お前も国の将来を憂う気持ちがあるのなら私情は抑えろ」
ナルハの言葉に完全に納得した訳では無かったが、サクハは葛藤を抑えて小さく頷いた。
「…………分かりました。ですが姉さん、彼らがエルフに仇なすならばその時は私は彼らを排除しますよ」
「それは私も同じ気持ちだ」
ナルハの同意に一応、感情の決着をつけたサクハは立ち上がってハリハリの後を追ったが、そんなサクハを見てナルハは軽く溜息を吐いた。
(もっとも、ハリーティア様や彼らが本気で抵抗すれば我らに止める術は無かろうがな……)
ここに至るまでに幾多の戦闘を目撃して来たナルハは、悠達が未だに実力の全てを見せていない事を漠然と悟っていた。剣の腕や身体能力以外に余力を残している自信が悠達に見え隠れしていたからだ。
エルフにとって彼らは劇薬となるだろう。それが良い方に働くか、それとも悪い方に働くか。
暗い雲に包まれたように先を見通せない状況に、ナルハは不安を感じずにはいられなかった。




