9-20 暗中模索9
移動は数分間に及んだが、水音と震動とともに終わりを告げた。
「着いたわ!」
プリムの宣言で悠は目を開いた。そこは既に暗闇では無く、何者かによって形作られた通路が横に伸びており、悠がこれまでに見たどの様式とも異なる装飾が施されていた。壁には炎では無い光源が備えられていて視界の確保がなされ、青白く周囲を照らす様は一種の荘厳さを感じさせた。
「海底神殿とでもいう趣だな」
「海王様が言ってたよ。「ここでまず訪ねて来た相手をビビらしたるんや! ……でも誰も来ぃひんから意味ないわぁ」だって!」
荘厳さなど一瞬で吹き飛ぶ台詞である。
《プリム、ここに誰も来なくなってどのくらい経つの?》
「ん~……よく分かんない。わたしはまだ100年くらいしか生きてないし、ずっとずっと誰も来た事は無かったよ?」
《そう……》
100年生きているというプリムが一度も見た事は無いと言うのなら、下手をすると数百年単位で来訪が絶えているのかもしれないとレイラは推測した。ならば自分達を簡単に通していいのだろうかとレイラは思ったが、もしプリムが海王に叱責を受けるようなら庇ってあげようと決め、頭を切り替えた。
「わたし達の街には用は無いから直接海王様の所に案内するね!」
「プリム達はここで暮らしているのか?」
「うん。そもそも水精族はここの番人をするのが仕事なの。この島を訪れた者のセイジャを確かめて海王様に会わせてもいいかどうかを見極めるんだって」
正邪を見極める役目にしては思慮が浅過ぎる気がしたが、誰も訪れないのであればその役目も既に形骸化して久しいのだろう。通路を行く悠が壁に嵌っている窓からチラリと中を見ると、そこは海水が満たされたミニチュアサイズの街が広がっており、小さな人影が行き来しているのが見て取れた。その窓もガラスなどが嵌っている訳では無く、表面が微妙に揺らめいている事から水を何らかの力で制御しているのだろうと理解した。
たまに幾つもある窓から他の水精族が顔を覗かせる事もあったが、悠の姿を見ると慌てて逃げ出すか隠れてしまい、プリム以外と話をする事は叶わなかった。
「怖がらせてしまったかな」
「みんな臆病なのよ、男も居るクセに!」
水精族が臆病というよりもプリムが特別に好奇心が強いのだろう。それを勇敢と言うか無謀と言うかは相手次第といった所か。
通路は思ったよりも長く、悠の感覚では既に島の外に出てしまっていると感じていた。あの島はあくまで入り口に過ぎないのだろう。
やがて通路の先に大きな扉が見えて来た。その扉は目線の高さに小さな穴が空いており、プリムはそこに目掛けて飛び込み、悠を手招きして来る。この穴は水精族用の通用口らしい。
入ってもいいという意味なのだろうと解釈し、悠が扉を押し開くと一気に視界が開けた。
広大と言っていいその部屋はおそらく謁見の間なのだろう。品良く部屋を彩る調度品といい、一段高い場所に据えられている玉座といい、海王その人と会う為の場所に違いない。
だが、悠やレイラの感覚には誰も引っ掛かりはしなかった。
「ここが謁見の間では無いのか?」
「そうだけど、ここには居ないよ? 海王様は奥の部屋で寝てるんじゃないかな~?」
「誰も来ないから、か」
合理的なのか怠惰なのかは判断し難い所だが、プリムはすいっと奥へと移動していった。
「ここに海王様が居るよ。海王様ー!」
奥の壁にひっそりと設置されている飾り気の無いドアに付けられているベルを蹴り飛ばしてプリムは中に呼び掛けた。ちゃんと鳴らす為の紐は付いていたが、プリム曰く小さな音だと聞こえない事もあるから、だそうだ。
「……聞こえとるで、入りや」
だが、中から聞こえて来た声にプリムは小首を傾げた。
「あら、海王様、機嫌悪いみたい。眠いのかな?」
「……プリム、俺の後ろに居ろ」
「え?」
普段と異なる海王の様子に疑念を抱いたプリムだったが、悠は慣れ親しんだ気配にプリムを背後に庇った。この気配は――殺気だ。
《やっぱり私達は望まれない侵入者扱いなのかしら?》
《この殺気では会わずに逃げても状況は好転しまい。おそらく殺し合う事になるぞ》
「だ、ダメよ!! 海王様は滅多に戦わないけどすっっっっごく強いんだから!! ユウが殺されちゃうよ!?」
剣呑な会話にプリムが悠の服を引っ張るが、悠は首を振った。
「入れと言われているのに引き返せまい。誤解なら解かねばならん。俺はここに挨拶に来たのだからな」
プリムの制止を振り切り、悠はドアを開いて中に入った。
途端に一層強まった殺気が吹き付けプリムが怯えて悠の首に縋りつき、悠は海王を視界に捉えた。
それは一見人間の女性に近い生物に見えたが、少し注意して見れば様々な点で異なっていると分かった。
白い髪に見える頭髪部分は実際は白く揺らめく触手であり、膝から下も同様に幾多の触手に分かれていた。容姿は非常に整っていて引き込まれるが、瞳孔は細く縦に伸び爛々と光を放ち、肉食獣の獰猛さを内包している。儀礼的な水着に似た布を纏っただけの姿は男の劣情を刺激するが、同時に手を伸ばせば破滅を予感させる不吉さを滲ませていた。
悠を迎え海王の瞳孔が更に吊り上がり、紫色の唇が言葉を紡ぐ。
「プリム、アンタはどっか行っとき。ウチはコイツに用があるんや」
「ど、どうしたの海王様?」
「いいから行きぃや!!!」
「ひゃん!?」
ビリビリと大気を震わせる怒号にプリムは弾かれたように悠から離れ、一度心配そうに振り返ってから部屋から出て行った。
「……何か認識に行き違いがあるように思うが?」
「しらばっくれんな、このご時世にただの人間が一人でこの島に辿り着けるワケ無いやろ! 海に配置してあった護衛まで蹴散らしよって……」
海の護衛とは何だろうかと悠は考えたが、おそらくホーンドフィッシュやエンペラーシャークの事を言っているのだろうと察した。
「問答無用で襲われては俺も自衛せざるを得んが?」
「そらあくまで副次的な理由や。……なぁ、いい加減トボけるのは止めや。自分、この世界の人間や無いやろ?」
海王の確信めいた口調に悠の眉がミリ単位で動いた。この世界で悠が自ら正体を明かさずに『異邦人』だと看破された事は無かったからだ。
「……どうして分かったのか後学の為に聞かせて貰えるか?」
「無駄な否定で時間を無駄遣いせぇへんのは男らしゅうてええこっちゃ。せやけどそんなモン、ウチに答える義理も義務もこれっぽっちも無いわ。それに……自分、この経験を生かす機会なんかあると本気で思っとるんか?」
海王の周囲に撒き散らしていた殺気が急速に収束していくのを感じ、それが自分を完全に照準する一瞬前に悠はその場から飛び退いた。
ザシュ!!!
悠が立っていた場所を透明な輝きが薙払い、石で出来ているであろう床がザックリと切り裂かれ、海王が軽い感嘆を漏らす。
「ふぅん……一発で殺したろ思ったんに、今のをかわすんかい。流石は――やな」
いつの間にか腕を振り抜いた姿勢になっていた海王が獲物の手強さに喜びを見出す熟練の狩人の笑みを浮かべ、意味不明な言葉を呟いた。殺気で察してはいたが、海王は本気で悠を殺すつもりのようだ。
「話をするつもりは無いという事か……」
「そう言っとるやんか。さ、大人しゅうしときや、サクッと殺ったるさかい!」
海王が足……というより下部の触手を撓ませるのと悠が背後のドアを蹴破るのはほぼ同時であった。
ドゴッ!!!
破砕音が鳴り響き、悠とそれに追い縋る海王が砲弾のような勢いで部屋から飛び出した。
「きゃああああ!?」
部屋の中の様子を窺っていたプリムが慌てて2人の戦いに巻き込まれないように悲鳴を上げつつ逃げ惑う。前に跳躍した海王と後ろ向きに跳んだ悠とではやはり勢いに差があり、追いついた海王の膝蹴りが悠の左腕を捉えていたが、悠もまた凡庸な戦士では無く、跳ぶと同時に展開していた盾でその蹴りを受け止めていた。
しかし、その威力までは殺せてはおらず、海王の膝に弾かれて悠が更に後方に吹き飛んでいく。
空中で体勢を整え、足から地面につく悠と床の間で擦過による火花が上がった。
「……ウチの膝食らって壊れんなんて、何ちゅうカッタイ盾や……」
《ユウ、こいつ……まだ本気じゃない!》
一瞬の交錯は両者に衝撃を与えていた。海王は自分の攻撃が受け止められるとは思っていなかったし、レイラも防いだとはいえ悠が龍以外の相手に吹き飛ばされるなど久しくお目に掛かってはいなかったのだ。
「この手応えからしてスフィーロやアリーシアより上か。世界五強に名を連ねていてもおかしくは無いな」
《信じられん……ドラゴンの領域の目と鼻の先にこれほどの強者が……》
五強とはあくまで知られている強者から人々が勝手に提唱し始めたもので、知られていなければランキングされようがないのである。
「だが、門前払いならまだしも、問答無用で殺そうとする相手にいつまでも寛大でいられるほど俺も人間が出来ておらん。戦るか」
《ちょっと落ち着かせないと話を聞きそうに無いわね》
海王と対峙し、悠は軽く腰を落として左拳を握り、視線の高さに引き上げた。悠は海王を構える必要のある相手と認めたのだ。
「誰とゴチャゴチャ喋っとんねん。アンタみたいな部外者はこの世界にゃお呼びやないゆう事をその体に分からせたるわっ!!!」
両者の間で拮抗する殺気の渦が――弾けた。
ランク外の強者、海王です。生身では悠も厳しいですね。




