閑話 天界にて2
「全く改善していないと仰るのですか?」
「然り。……いや、誤解して貰っては困るがユウの働きが悪いという意味では無いぞ? だが、アーヴェルカインからの魂が全て魔界に堕ちる現状は改善されておらん。魂の行く末を見守る役割を持った神々に観察を願っているが、その報告ではそう判断せざるを得んという事だ。内部の業の天秤は改善しているとアヌビス殿は言っていたが、世界が崩壊に向かっている状況に歯止めは掛かっておらんのだよ。このままでは遠くない将来、かの世界は滅びるであろう」
隻眼に憂慮を覗かせるオーディンの言葉に、ナナは身を固くした。軽々に判断を下す事の無いオーディンがここまで言うからには、確定未来に近い情報と考えた方がよい。未来視を行えるノルンなどとも既に協議しているに違いなかった。
「……それはいつの事なのでしょうか?」
「およそ一年後だ。古今東西の未来視を持つ神々が視る限り、多少の前後はあろうともそれ以降かの世界の像は見えなかった。今のままでは滅ぶのだと考えて相違あるまい」
オーディンの言葉にナナは目を閉じて苦悩を押し殺した。このままではアーヴェルカインが滅ぶばかりか、送り出した悠やレイラもそれに巻き込まれてしまうだろう。ナナは送り出した者の責任として、少しでも有益な情報を得ようとオーディンに問い掛けた。
「オーディン様、原因はお分かりになられましたか?」
「罪の軽重を測るアヌビス殿が改善していると言っているのに改まっておらんのならば、そこに干渉する何かがあるという事だ。業の天秤を傾け、魂を堕とす何かがな。これまでユウに探らせ、そしてもたらされた情報の中で答えを出すのであればそれは一つしか無い。……最初に手に入れた召喚器、あれが諸悪の根源であろう」
「ならばいっそ破壊してしまえば……!」
片膝を立てて進言するナナにオーディンは首を振った。
「それが出来れば苦労はせん。ユウであれば破壊は可能であろうが、ここまで周到に準備して来た者達が事の中心にある呪物に何の備えもしていないはずが無い。単純な破壊は破局を招く可能性が非常に高いぞ。事態を打開しようとしたが為に世界を滅ぼしてしまうような愚挙を冒すのは避けねばならん」
沈黙するナナに、オーディンは厳かに告げた。
「今回の一件を魔界の仕業であると断定する。天界軍のアテナ殿、阿修羅殿に自軍の準備をさせよ。儂は『亜空領域』に赴き魔界と交渉を始めよう。おそらくは無駄であろうが……」
敵を確定するオーディンの言葉にナナの手に力が籠もる。だが、オーディンが無駄だと言った意味もナナは同時に悟っていた。
魔界は天界同様にとてつもなく広く、そして神族の意志がほぼ統一されている天界と違い、魔界は無秩序が法なのだ。一応主流派は存在するが、属しているのは精々半分で、残りは己の心のままに行動していた。主流派との間には交渉窓口が存在するが、彼らに言っても他の派閥に干渉する事は無い。「全ては自由なれば」が彼らの合い言葉なのだから。
「結局、アーヴェルカインの事はアーヴェルカインの中で解決するしかあるまい。我らに出来るのは監視を強め、これ以上アーヴェルカインに干渉するのを防ぐ事だ。人の子に全てを託さねばならないとは不甲斐無い事だが、せめて厄介事を増やさぬ様に留意すべきだろう」
「この情報を蓬莱に伝えても宜しいでしょうか?」
ナナの真剣な表情にオーディンは頷いた。
「許可する。彼らも真の竜をその身に宿す者達だ、あまりに情報が少なければ天界と手を切り、自分達だけで事を起こすかもしれん。普通の人の子であれば不可能だが……独立独歩の気風を持つ彼らなら、或いは理を越えて世界を飛び出す事もあるかもしれん」
「十分にあり得る事です。ナナナの報告では彼らを束ねる真田 雪人竜将は天界を全面的に信じている訳では無いようですし、もし支援が得られなくなっても独力で成し遂げようとするでしょう。信を得られないのは私の不徳の致す所ですが……」
「無理も無い、平和を勝ち取る為に死闘を繰り返して来たというのに、それが終わったと思ったらすぐに戦友と引き離されてしまったのだからな。誰が交渉に当たっても彼の信頼を得る事は難しいだろう。ナナよ、お前が出来る範囲で彼らの信頼を勝ち取ってくれ。その為であれば『制限解除』を含め大抵の事は許可しよう。ひょっとすると、此度の一件の解決の鍵は彼らが握っているのかもしれん」
どこか確信めいたものを感じさせるオーディンは傍らに立てかけてあった愛槍を手に取ると、颯爽とその場を後にしたのだった。
「そうですか……オーディン様がそんな事を……」
ナナから事情を聞いた美夜鋭く表情を引き締めた。美夜は天軍の部隊長の一人であり、軍を動かすとなれば無関係では居られないのである。加えて、バルキリーは見出した転生勇者を指揮する権限を持っており、ナナは美夜にとって直接の上司であった。
「そこで美夜にも協力を願いたいのです。我々の軍には命令が下っておりませんが、蓬莱の『竜騎士』達との交渉役を手伝っては頂けませんか?」
「私が?」
驚く美夜にナナは眦を下げて説明した。
「お恥ずかしい事ですが、私では彼らの信頼を勝ち取る事は出来ないようです。しかし、不信をそのままにしておくには事が大きくなり過ぎました。魔法すら操るようになった今、彼らは天界と袂を分かっても悠さんを助けようとするでしょう。敵の力は強大です、悠さんを担ぎ出し、更に他の『竜騎士』まで争いに引き込むのは天界の本意ではありません。人の子の平穏を守る事も我らの務めなのですから」
ナナの言葉に美夜はしばし考え込んだが、やがて頷いた。
「……事情は分かりました。私に出来る事でしたらご協力させて頂きます。しかし」
美夜ははっきりとナナに告げた。
「既に死した身の上ですが、蓬莱は私の故郷です。軽挙妄動は戒めますが、筋の通った行動まで制限する事は出来かねます。それでも宜しいですか?」
「構いません。天界の意図が十全に伝わるならば美夜に任せます」
ナナの言葉を受け、美夜は早速行動を開始した。
「では蓬莱の者達と話しましょうか。今は匠君と雪人君が軍部を掌握しているのでしたね……楽しみだわ」
「昨日の今日で緊急会談とは、天界もようやく本腰を入れる気になったかな?」
「控えろ雪人、お前は凪を見ると荒らさずにはおられんのか?」
「台風一過、せっかく凪いだ海を荒らしに来たのは俺では無いと思いますがね?」
僅かに緊張感の漂う室内に真は嵐の前の暗雲が立ち込めるのを感じていた。雪人は天界から直接事態の説明があると聞き既に臨戦態勢で待ち構えており、ナナナもその気配を察して苦悩を隠し切れないでいる。匠はそんなナナナを庇うように雪人を掣肘するが、雪人も有益な情報を得る為なら無礼も辞さぬとばかりに好戦的な光をその瞳に映していた。
匠にしても雪人にしても目指す所は同じく悠が無事に帰還する事なのだが、そのアプローチの仕方が異なるのだ。天界と良好な信頼関係を構築する事で悠のサポートを充実させようと考える匠に対し、天界と蓬莱は上下の関係では無く対等であり一方的に用件を聞き入れる必要は無く、依頼するなら最大限のサポートは当然だというのが雪人の主張である。
「わざわざナナ様から連絡して来たって事は進展があったんだと思うよ。ユキヒトが欲しがってた敵の情報が掴めたんじゃないかな?」
「そう願いたいものだ。いつまでも悠の奴に目隠ししたまま戦わせる様な状況は終わらせたいからな」
その場しのぎの不確定情報に雪人は飽き飽きしていたのだ。今の所、天界から悠に対するサポートらしいサポートと言えば幾つかの能力と『虚数拠点』くらいのもので、それが無くても悠ならば同等の戦果を上げただろうと雪人は確信していた。この上情報まで渋るのなら不干渉で構わない。
「あ、来たよ!」
ナナナが『隔世のペンデュラム』を用いて像を結ぶのを雪人は厳しい目付きで睨んでいた……が、映し出された人物の意外さに蓬莱一の頭脳が空白になる。
《初めまして、私はナナ様の名代として皆さんと交渉に当たる事になった神崎 美夜です。……あら、もしかして雪人君? まあ、こんなに立派でいい男になって!! おばさんも嬉しいわ!!》
椅子ごと雪人がひっくり返る音が部屋の中に轟いた。
雪人の数少ない弱点を的確に突いて来る辺り、ナナも相当ですね。殆ど反則です。




